「別に、嫌いじゃないよ。お前のこと」
 頬杖を付きながら何気ない日常会話のようにぽつりと零す彼に、俺は内心溜め息をついた。

 彼の左手の薬指にあるのは、主張するように鈍く光っているリング。棚に置かれている幸せそうな男女の写真。そして、どれも二種類用意されている食器類。彼の家にはそこかしこに幸せが散りばめられていて、これからもここでいくつもの幸せが生まれていくのだろうと思った。誰もが憧れる優しい空間。柔らかい日差しが窓から差し込み、つい目を細める。――ここはまるで海の底だった。綺麗で、眩しくて、そして息苦しい。ここにいたらきっと俺は環境に適応しきれずに死んでしまうだろう。俺は手持ち無沙汰にテーブルに置かれたティーカップを持ち、口を付ける。中身は紅茶らしいが、全く味がしなかった。
 ――こないだ貰った彼の結婚式の招待状は、きっと今頃俺の家のゴミ箱で眠っている。
「そういえばあのソファー買い替えたんだよ。由香里がどうしても欲しいって言うから。どう?」
 俺の正面に座っている彼はそう話を切り替えて、深い青色のソファーを指差す。確かに彼の趣味では無さそうなソファー。しかしそれよりも彼の口から出た女の名前に吐き気がして、俺はすぐにソファーから視線を逸らした。由香里と紫。偶然にも俺と同じ名前。気持ち悪い。俺は吐き気を抑えながら「まあ、いいんじゃない」と吐き捨てる。ここで死ねたら、どんなに良いことか。
「何だよ、冷たいな。久しぶりに会ったんだから紫も少し嬉しそうにしろよ。高校時代はあんなに仲良かったじゃん、俺達」
 しかし彼は俺の気持ちなんて無視して、自分勝手にそう続ける。
 そうだ。あの頃は何も考えずに呼吸をするだけで幸せだった。彼が隣にいるだけで、それだけで幸せだったのだ。一緒にご飯食べて、一緒に馬鹿やって、時々どちらかの部屋に泊まって一緒に寝たりもした。――なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。俺は心の中でそう呟きながら、彼に「うん」とだけ返す。どうしてこうなったかなんて、分かりきっている。彼の表情は見れなかった。
 俺達はもう社会人になった。二十五歳。彼と会うのは久しぶりで、それこそ高校の卒業式以来だった。最寄り駅でばったり会った俺に、彼は突然結婚式の招待状を渡し、「明日俺の家おいでよ。彼女もその日は出掛けるみたいだし、久しぶりに話をしたい」と誘ってきた。本当は無視しようと思っていたのだ。どうせ行っても傷付くだけだと分かっていたから。
 だって卒業式の日にした俺の告白を、「気持ち悪い」と一蹴したのは紛れもなく彼――前川春馬だった。
 それでも来てしまったのは、無意識のうちに期待をしていたのかもしれない。また、あの頃みたいに一緒にいられるようになるかも、なんて。
 でも今日彼の家に来てみて、だめだと思った。こんな幸せな空間、吐き気がする。春馬が結婚する以上、俺はもう彼の側にはいられない。
 だから、きっとこれが最後だ。これが春馬との最後の思い出になる。
「……帰る」
 俺は春馬の顔を見ないまま、鞄を片手に椅子から立ち上がる。この家に来てまだ十分も経っていないが、やはり耐えられなかった。早く家に帰ってしまいたい。そして、何も無かったことにしてしまいたかった。
「おい、紫。まだ話したいことが、」
「俺にはお前と話したいことなんて無い」
「紫!」
 玄関に向かおうとする俺を止めようと、春馬は俺の腕を掴む。大きくて、温かい手。裏切られた相手にも関わらず、勝手に心臓が跳ねてしまうから意地が悪い。頭がくらくらする。息が苦しい。俺は早くここから逃げ出したくて春馬の腕を払い除けた。パシン、と乾いた音。しかし春馬はそんなことは気にせず、買い替えたばかりのソファーへ俺を押し倒した。彼女が選んだ、あのソファーに。
「な、なんだよ!」
「紫」
「っ、な、なに――ッ、んん!」
 そして、強引なキス。俺に乗り上げる春馬を突き飛ばそうとするが、上手く力が入らなくてどうにもならない。ぬるりと入ってくる熱い舌に、火傷しそうになる。そんな俺の足の間に春馬は膝を入れて、ぐいっと性器を刺激した。
「ん、ぁっ……やだ……ッ、や……っ」
 何で、何で。お前、俺のこと気持ち悪いって言ったじゃん。俺のこと振ったじゃん。結婚だってするんだろ。その指輪は何なんだよ。同じ指輪を渡した女と幸せになるんじゃないの。俺を捨てたくせに、何で今更キスなんか。色々と言いたいことはあった。逃げ出したい気持ちもあった。でも、でも。
「んっ、ん……やぁ……ッ」
「っ、ゆか……っ」
「――ッ!」
 高校時代呼ばれていた女々しいあだ名で呼ばれると、あの頃大事に抱えていた気持ちがまたむくむくと育ってきてしまって。――このまま、流されてしまいたい。そう思った俺は、気付いたらさっきまで抵抗していた手を春馬の首に回していた。
「はる……っ、ん、ぅんっ……」
「うん」
「すきっ……はる、すき……っ、んうっ」
 ああ、これは、夢だ。都合のいい、夢。きっと目を覚ましたら元通り。彼は結婚するし、俺は一人でこの思いを抱えて生きていく。だから、だから今だけは。偽物の愛でもいいから、愛されていたい。そんな愚かな俺を、家具が――家具だけが見ていた。

メーベル

紫はまだ春馬のことを諦めきれないし、春馬は紫に恋と言うには重すぎるほど執着しているし、この二人は世間一般でいう「結ばれる」ということはないけど、でもきっと一生一緒にいる。そんな二人。


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