この瞬間はいつもドキドキする。
 俺は自分を落ち着かせるために何度か深呼吸を繰り返し、無音カメラのアプリを起動させる。ガタンゴトンと揺れる電車内。この時間の電車はいつも空いていて、未だにちらほらと空席がある。数少ない乗客は大体寝ているかスマホを弄っているから、俺のことを気にする奴はいない。大丈夫。多分。うん。俺は他の乗客と同じく眠っている目の前の男にピントを合わせて、画面内に表示されているカメラのマークをタッチした。瞬間、無音で取り込まれる写真。すぐさま撮った写真を見直せば、そこにはまるで美術館で厳重に保管されている芸術品のように美しい男の姿があった。
「へへ……」
 んー! 今日の森川くんもかっこいいなあ〜! にやけを隠すために片手で口元を隠しながら、まじまじと写真を見つめる。
 無造作にセットされた焦げ茶色の髪。外人のようにスッと通った鼻筋。そして桃色に染まった薄い唇。組まれた長い脚はまるでモデルのようで惚れ惚れする。神秘的なその姿についつい拝んでしまいそうになるそんな彼は、毎日この時間の電車に乗ってくる他校の学生だ。光鴎高校二年S組、森川聖くん。聖と書いて『まこと』と読む。名前まで煌びやかである。もしかすると神様の生まれ変わりなのかもしれない。だってこんなに格好良いんだもん。前世はきっと人ならざるものだ。
 彼――森川くんの好きなものは苺。嫌いなものはブロッコリー。そして父親と母親、弟の四人家族。美しい見た目をしているが意外と庶民的で、ノリも良い。週に一回は告白のために呼び出されている。電車に乗る時は毎日イヤホンを付けて、降りる駅まで寝て過ごす。エトセトラ、エトセトラ。他にも色々と森川くんの情報はあるが、全部話すとなると五年は必要なので割愛しておく。え? どうして他校の学生のことをそんなに知っているのかって? それはこの俺の、血の滲むような努力のおかげだ。
 そう。もう流石に察したと思うが、俺はこの二年間――森川くんのストーカーをしている。
 理由は簡単。入学式の次の日、同じ電車に乗ってきた彼に一目惚れをしたからだ。元々俺は何かにハマるとそれしか考えられなくなる気質で、今回もそれと同じ感じなのだろうと思う。ちなみに昨日森川くんが駅のゴミ箱に捨てたペットボトルはきちんと部屋に飾ってある。もちろん間接キスも済ませた。あーあ、今日も何か捨ててくれないかなあ。そしたら今日のおかずに困らずに済むんだけど。そう思って携帯から顔を上げたその時だ。ばちり、目が合う。誰と、って、森川くんと。
「ひえっ……!」
 えっ! なに!? 見間違いかと思って何度も見返してみても、色素の薄い瞳はしっかりと俺を捉えていて、思わず悲鳴に似た声が出る。え? え? も、森川くんが俺を見てる? 何だかその事実だけで死んでしまいそうだ。
 え、えっと……もしかして、ば、ばれた? こっそり写真撮ってることも、合法とは言えない方法で情報を仕入れてることも、捨てたゴミを集めて部屋に飾ってることも、それで毎晩オナってることも? いやいや、まさか。ぼーっとしてるだけだ。だって俺達話したことないんだし。他人だし。ばれるわけがない。そう言い聞かせていると、森川くんは突然立ち上がって、俺に近付いてくる。ええっ!? 何で!?
「末原くん」
「は、はい……っ!」
 た、確かに俺は末原ですけど。末原千晶って言いますけど、何で森川くんが知ってるの!? え!? 混乱して口を開けたまま森川くんの顔を見ていると、森川くんはふわりと妖精のような可愛らしい笑顔を見せて、すとんと俺の隣に座る。そして俺の肩を掴んでグッと引き寄せたと思いきや、俺の耳に口元を近付けた。
「ねえ、今日は何でオナるの?」
「!?」
 は!? はあ!? 何!? 一体今何が起きてるんだ!?
 きっと今の俺はパクパクと口を開閉して、金魚のような不細工な顔を晒しているに違いない。顔に熱が集まる。パニックだ。脳内はクエスチョンマークで溢れている。
「昨日のペットボトルも使ってくれたんだよな。嬉しい」
「へっ!?」
「今日は何欲しい? んー、あ、食べたガムならある」
「あっ、それ欲しい! ――じゃなくて!」
 食べ終わったガムは正直めちゃくちゃ欲しいけど! 欲しいけども! 欲望を必死に抑えながら俺はごそごそと鞄を漁る森川くんを止めて、「な、何で知ってるの……?」と問いかけてみる。だって一度も話したことないんだよ? 知ってるはず無くない!? すると森川くんはちらりと俺を見て、いやらしく微笑んだかと思うと、無言で自分の耳にかけていたイヤホンを俺の耳にかけた。
『あっ、もりかわく……ッ、んっ、すき……っ、あ、ぅんっ』
 ……え?
「可愛いだろ? 末原くんの喘ぎ声。毎朝、録音してるやつリピートして聞いてんの」
 恍惚とした表情でそう告げる森川くん。録音? え? 盗聴ってこと? え? なに? ずっと俺が森川くんをストーカーしてると思ってたけど、も、もしかして森川くんが俺をストーカーしてたの? 頭の整理が出来ない。知恵熱が出そう。ええと、ということは、その、最初から全部ばれてたってわけ?
「ね、もう写真やゴミで我慢しないでさ、本物の俺とセックスしよ」
 セックス。神様がセックスって言ってる……。もう驚きすぎて言葉が出なかった。
 ああ……人生って、何が起こるか分かんないなあ……。俺は森川くんの声を聞きながら、どうすればこの状況から脱せられるか考えていた。

AM7:14の秘め事

千晶も聖もストーカー上級者。


ALICE+