「ごめん。いつもこんな朝早くに付き合わせて……」
「いいよ。俺がやらせてって頼んだんだし」
 白で埋め尽くされた部屋。薬品の匂いが鼻につく。まだ生徒はほとんど来ていないだろう朝方の七時。保健室。開いている窓から朝独特の澄んだ空気が入り込む。目の前の男は消毒液を染みこませたガーゼで俺の頬の汚れを取り、「ごめんね。痛いだろうけどちょっと我慢して」と俺より痛そうな表情をしてそう言った。
 彼――鷹村蒼くんはいつもそうだ。別のクラスで最近まで顔も知らなかった俺のことを、まるで自分のことのように心配してくれる。見た目はどこにでもいそうな――お世辞でも派手とは言えない――男子だけれど、こういうところが女子を惹きつけるのかもしれない。俺は寝ぼけ眼を擦りながら、もう一度「ごめん」と謝った。わざわざ朝に呼び出してこんなことさせて、申し訳ないと思う。だけど鷹村くんは「何が?」と笑って、新しいガーゼを取り出す。そしてそれを俺の頬にある擦り傷にぺたりとテープで貼り付けた。
 地毛なのであろう綺麗な焦げ茶色の髪に、ぱっちりとした丸い瞳。世間では犬顔と呼ばれるような可愛い顔だが、身長は意外と高い。そんな鷹村くんは二年A組の保健委員らしく、慣れているのか手当ての手際も良かった。多分A組ということは頭も良いのだろう。優しくて手先も器用で頭も良いなんて欠点が無さすぎる。きっとこういう人を好きになったら幸せなんだろうなあ。こういう人と一緒になれたら、きっと。
「……」
 なんて、何を考えてるんだ、俺。俺はこれ以上変なことを考えないようにぎゅっと目を瞑って、ただただ手当てが終わるのをひたすら待った。そして、沈黙。
 A組の鷹村くんと、B組の俺。今回のことが無ければ、きっとこの三年間名前も知らないまま卒業してしまっていただろうと思う。それほど接点が無い俺たちだから実際に顔を合わせても話すことはあまり無くて、俺は目を瞑ったまま無言でいると、鷹村くんは「でもさあ」と口を開いた。
「こういう時、保健委員で良かったなあって思うよ」
 ……どうして? そう聞く前に鷹村くんはにこりと笑って、親指で傷だらけの俺の唇に触れる。ぴり、と走る痛み。それでも俺は鷹村くんから目を離せず、されるがままになっていた。
「三依くんの手当出来るから」
 ……。彼はそうやっていつも恥ずかしいことを言う。俺は誤魔化すように視線を逸らし、「……でも、俺A組じゃないのに。ごめんね」と謝った。すると鷹村くんは俺から手を離し、「謝りすぎだよ」と苦笑する。
「俺がやりたくてやってるわけだから気にしなくていいよ。三依くんが謝ることじゃない」
「でも」
「でも、じゃなくて。覚えてないの? 俺が三依くんに手当てさせてって頼んだこと」
「いや……もちろん覚えてるけど……」
 そんなの、忘れるわけがない。一ヶ月くらい前、たまたま寝坊してしまっていつもより遅く保健室に行ったことも、そこでばったり鷹村くんに出会ったことも、その時に「一人じゃ大変でしょ? これから俺が手当てしようか?」と声をかけてくれたことも、ちゃんと覚えている。
 鷹村くんは優しい。俺が男の先輩と付き合っていることを知っても気味悪がずにいてくれるし、先輩から毎日殴られていることを知っても引かずに「辛いよな」と俺の気持ちを代弁してくれた。きっと鷹村くんだから出来ることなのだろう。俺が毎日早い時間に学校の保健室に忍び込んで手当てしていることを知ったからといって、一緒に保健室に来て手当てまでしてくれるなんて。きっと、優しくて清らかな心を持った鷹村くんにしか、出来ないことだ。俺はもう一度、ぽつりと「覚えてるよ」と言い直す。顔を上げれば、鷹村くんは真剣な顔で俺を見つめていた。
「俺だったら三依くんのこと、こんな目に遭わせたりしないのに」
「……うん」
「やっぱりその先輩がいいの?」
「……あの人は、俺がいないとだめだから」
「だからって三依くんがこれ以上傷付くところ、俺見たくないよ」
 ほら、鷹村くんの方が辛そうな顔をする。痛々しいそれを俺は見ていられなくて、「ごめん」と鷹村くんの手をぎゅっと握る。温かい手。先輩とは違う、傷一つ無い綺麗な手。
 きっと鷹村くんと一緒にいた方が幸せになれるのだろう。分かっている。分かってるけど。
「三依くん、俺の手を取って」
 俺には先輩という初恋の人を見捨てる勇気は無い。
「……ごめんね、鷹村くん」
 心のどこかでは強引に連れ出してほしいと望んでる。幸せになりたいと望んでる。でもそれ以上に、臆病で卑怯な俺は、悪者にはなりたくなかった。先輩を裏切りたくはなかった。ごめん。ごめん。我が儘ばっかりでごめんね。
 そうして俺は、鷹村くんの手を離した。鷹村くんの顔は、見れなかった。

青い空へと連れ出して

鷹村蒼くんと三依翼くんの話。翼という名前は自分一人では自由に飛ぶことすら出来ない彼に皮肉で付けてる。


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