Beautiful days


部活の練習でいまひとつ上手くいかなかった日は、改善点をとことん探して、良かったところと一緒に自分なりにまとめる。稀に自己分析に混じっている悔しさを、ただ噛み締める。そうしていると、段々落ち込んでいくから、本を読んで気持ちを整えるのだが、今日はなぜか寄り道したい気分だった。
非効率的なことも、休息として楽しむのであれば、とても有意義な時間になる。いつか誰かに教わった気がする。茹だるような暑さのなか、木陰のありそうな公園に入って、先に自販機で何か買って休むべきだろうか、と視線を彷徨わせる。すると、ふと見た事のある人物の姿が瞳に映った。
中学の時にとてもお世話になった先輩だ、と瞬時に把握できた。当時の僕の密かな憧れであり、純粋な好意を抱く対象でもあった女性が、補正された道の先に立っていた。まるで陽炎のようにぼやける残像は、近づいていくにつれて次第に明瞭になる。
ジャンプしても一切乱れないフォーム、リズミカルな脚さばき、まっすぐに前だけを見据える視線。ハードル走者であり、陸上に情熱を捧げる彼女の全てを、僕は美しいと思っていた。
二年ぶりに出会った彼女に、最後に顔を合わせた在りし日の面影が重なる。そんな過去に僕だけが取り残されているような心地は、彼女の声によって現実に引き戻される。
「……あれ、怜? 怜だ!」
「あ、あぁ、はい! 僕が、竜ヶ崎怜です!」
慌ててフルネームを口にすれば、目の前の彼女が吹き出してしまう。久しぶりの再会だというのに、なんだ今の僕の返事は。まったく美しくない。自己嫌悪に陥っている間も、彼女はにっこりと笑っている。
「名前くらいちゃんと覚えてるって! でもそういう真面目なところ、全然変わってないなぁ。あ、身長は結構伸びた気がするかも?」
「そうですね、水泳をはじめてからもどんどん成長していますし……」
「ん、水泳?」
彼女がそう疑問符を浮かべて首を傾げると、少し日に焼けて明るくなった髪がさらりと肩の手前に流れて落ちる。そういえば、僕が水泳部に所属していることをまだ知らないはずだ。今は陸上を続けておらず、水泳で頑張っているのだと告げると、彼女は一度目を大きく見開いたが、すぐに慈しむような表情をした。
「そっか、じゃあ今は岩鳶で、バタフライに全力で打ち込んでるんだね」
「はい。先輩は今も陸上部に所属しているんですか?」
「私は……うん。大変な時もあるけど、頑張ってるよ」
そう言うと彼女は、持っていたペットボトルをぎゅっと握り直す。ミックスジュース、という文字がプリントされたパッケージに、色鮮やかな果物たちが踊っていた。つぅ、と滴り落ちる雫に、視線が釘付けにされる。
「そのジュース、美味しかったですか?」
「めっちゃくちゃおいしいよ! 夏はどうしても飲みたくなっちゃうんだよね」
「じゃあ、僕も同じものを買おうと思います」
「ほんと? やったー!」
おすすめ!イチオシ!と声を弾ませる彼女は、なんだかいつもと様子が違うような気がした。明るすぎるというか、無理をして元気に振舞っているようで。けれども、実に2年ぶりの再会で、何も変化がない方がおかしいだろう、と思い直す。僕だって少し前まで陸上をやめて、水泳をはじめるなんて微塵も考えていなかったのだから。
「ごめん、本当はもうちょっとお話したいんだけど、今日は用事があるんだ」
自販機までたどり着いた後、申し訳なさそうに切り出す彼女を、僕は見送ることになった。何かあれば相談に乗るよ、と快く今の連絡先も教えてくれた。相変わらず律儀な人だ。手を振りながら走り出した彼女だが、何かに躓いて前につんのめりそうになる。慌てて体勢を立て直して、振り返って、力が抜けたように笑っている。レーンにいる時はひたすらにかっこいいのに、日常だとちょっとドジなところは昔と同じで、僕の口元は思わず弛緩した。
自販機で点滅しているボタンを押せば、ガコン、という音が足元に伝わる。スポーツドリンク以外の清涼飲料水を飲むのは果たしていつぶりだろう、と思いながら、ひんやりした感覚を手に馴染ませる。不思議と晴れやかな気持ちになっている自分は単純で、その気持ちを素直に受け止める僕の胸中を、つめたいミックスジュースが満たしていった。すっきりとした甘みと酸味がやけに味わい深くて、なぜか印象に残った。



「……ちゃん、怜ちゃん!」
「がぅ……っ!?」
「また寝ちゃってたの? さっき授業終わったよ」
目をこすり、ズレてしまったメガネを元の位置に修正すると、渚くんが机に両肘を乗せてこちらを心配そうに覗き込んでいた。渚くんは僕を水泳部に勧誘した張本人で、よきクラスメイトでもある。
「大丈夫です。昨日、十分な睡眠を取れなかっただけなので」
「本当? 一緒にお昼ご飯食べたいんだけど、もう眠いのは平気?」
確かに周りがザワザワしていると思えば、教室の時計は昼休みの時刻を指していた。普段なら水泳部の仲間と昼食を食べる約束をしているのだが、今日は断らなくてはならない。
「すみません。少し図書館で調べ物をしたいので、先に屋上まで向かってもらえませんか?」
「ぼくも手伝おうか?」
「いえ、ひとりで大丈夫です。先輩たちにもそう伝えておいてください」
「わかった!先に行ってるね!」
ふんふん、と鼻歌を歌いながら渚くんは足取り軽く廊下へ向かおうとする。その姿を見ながら、僕の口からぽろりと声が漏れた。
「そういえば、渚くん」
「ん? なぁに?」
「……いえ、何でもありません」
振り返った渚くんは不思議そうな顔をした後、悩み事があれば何でも聞くからね、と念押しをするように伝えて、教室を出ていった。
危ないところだった。恋愛について学術的に分析された本を知りませんか、と堂々と教室という公衆の面前で尋ねてしまいそうになるなんて、僕らしくもない。渚くんにも戸惑われること請け合いだろう。喉まで出かかった言葉を飲み込んで正解だった。
だって、まだ自分でも現実を受け止めきれていないのだ。久しぶりに初恋の人物と出会って、また同じ気持ちが蘇りつつあるなんて。彼女のことを連想するだけでとくとくと胸を打つ鼓動は、まるでその原因の正体に早く気づいてくれと伝えているようだ。しかし、僕自身がまだはっきりと自覚していないのだから、中途半端な状態で渚くんに相談するのも良くないだろう。静かに嘆息しながら、僕は学校指定の椅子から立ち上がる。そうだ、僕の判断はきっと間違っていないはずなのだ。
思考を巡らせつつも図書室へ向かうと、カウンターの前に置いてある広報誌に視線が止まる。それは各学校の部活動を紹介している記事らしく、色々な選手をピックアップして特集が組まれていた。折角なのでうちの岩鳶高校水泳部の名前を探してみよう、と手に取り、窓際の空いている席に座る。鮫柄学園の松岡凛さんの写真を目視したところで、そういえば名前先輩の所属する陸上部も載っているのでは、という考えに至る。しかし、こんなストーカーのような調べ方をしてもいいのか。否、たまたま見かけただけなら特に問題ではないだろう、などと頭を悩ませているうちに、とあるページで手を止めることになった。
「故障の挫折を乗り越え、マネジメントの道へ進む者……」
小さいながらもはっきりとした見出しと掲載された写真に、思わず目が釘付けになる。そこには学校指定と思われるジャージに身を包んだ名前先輩が確かに映っていたのだ。



恋愛小説は難解だ。そもそも恋というものを理論づけて説明するのが難しい。部活を終えて帰宅した後、図書室で借りてきた本を読みながら、僕は考える。
恋をする、という感覚は、もちろん僕も知っている。相手に好意を抱く、好ましいと思うこと。友情と恋、愛情は別物であるということもわかっている。そのうえで僕は、名前先輩を好ましいと思う理由を説明できるだろう。けれども恋に落ちる、という事象はなんとも不可解だ。理詰めで説明出来ないものなどこの世に存在しない。それなのに、僕が今読んでいるこの小説では、恋は衝動だ、と頑なに主張している。なぜだろう。その熱心に語りかける気持ちが、理屈ではなく本能で理解出来る気がするのは、一体どうしてなんだ。
文字列を追いながら、僕は懸命に脳を回転させる。小説を読み始めてから、ぐるぐると同じような思考しか浮かんでこない。一度小休止を挟もうか、とメガネに手をやると、騒がしいノックの音が自室に響いた。
「おじゃましてます。怜ちゃーん、いる?」
「なっ、渚くん?」
「俺達もいる」
「こんばんは、怜。夜遅くにごめんね」
本を急いで片付けて出迎えると、ドアの向こう側には渚くんに限らず、部活の先輩である七瀬遙先輩や橘真琴先輩もいた。一体どうして、という気持ちは顔に出ていたようで、渚が心配してたんだ、と真琴先輩が優しく微笑んで言った。
「今日ちょこっとだけ様子が変だったから。メールでも良かったんだけど、直接会ってお話したくてさ。夜は危ないから、江ちゃんには来てもらわなかったけど、同じくらい心配してたよ」
そう告げる渚くんはどこか寂しそうな表情をしていて、つい戸惑ってしまう。普段通りに接していたつもりだったが、どうやら簡単に見破られていたようだ。隠そうと考えていたわけではなく、自分の気持ちを整理できたら相談でもしてみようかと思っていたのだが、そんなことを後出しで言っても、果たして通用するだろうか。結局、僕は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「すみません。でも、本当になんでもなくて……」
「おい、何か落ちたぞ」
今思えば、僕はすぐに確認を取るべきだったのだ。遙先輩の指摘通り、身動ぎした際に触れてしまったのか、勉強机の横にかけていた通学用のバックパックがずり落ちている。元に戻そうとしてくれた真琴先輩の手が滑って、もう一度どさりと地面に落下する。ここまではよかった。問題はその後、緩めに閉められていたバックパックが開き、詰めていた中身が一瞬で剥き出しになったことだ。そのなかのひとつの本を拾い上げて、渚くんが声を上げる。
「怜ちゃん、もしかして……好きな人がいるの?」
まさに青天の霹靂。藪から棒の一言で、渚くんはおちゃらけているように見えて実際は秀才であり、僕の行動により凡そ現状を察してしまう勘の鋭さも兼ね備えているという事実を思い出した。もしこれが漫画本だったなら、僕の背後にはギクッ!と大文字ゴシック体でが大袈裟に描かれていたことだろう。それでも何とか平静を装って、なんのことですか、ととぼけてみせる。
「だって、普段はこういう本読まないでしょ?」
バレバレである。畳み掛けるように怜ちゃんって未知数なことは大抵本を参考にしようとするよね、と笑みを浮かべながら言われてはもう返す言葉もなかった。縋るような目で真琴先輩を見やると、頬を紅潮させ、目を最大限に大きくしてキョロキョロと視線を彷徨わせていた。
「も、もしかして恋バナ!? どうしよう、ハル! 俺達も何か話すべき……!?」
「落ち着け真琴。怜、今の水泳に悪影響を及ぼさない範囲の事態なんだな?」
既に遙先輩まで僕に好きな人がいる、という共通認識で話を進めている。心の中の僕は今度こそ白旗を上げた。正直に話そう。そう決意を固めると、当たり前だと言うようにはっきり頷いてみせた。
「そうか。なら好きにすればいいと思う」
「……ありがとうございます」
「ごめんね、無理に聞き出したみたいになっちゃって。でも……怜ちゃんの好きな人かぁ。ぼくも会ってみたいな」
きっと素敵な人だよね、と渚くんが自分のことのように嬉しそうに言うものだから、すっかり怒る気も失せてしまう。元はと言えば僕がぼんやりした態度を取ってしまったのがよくなかったのだ。
「告白はした?」
「していません……というか、するつもりもありませんでした」
「そうなんだ! もしかしたら、すごく凝った演出でも考えてるのかなって思ったんだけど。例えば、こうやって……童話の王子様みたいに言うのはどう?」
しゃらんらという効果音を口ずさみながら、渚くんが跪いて手を差し伸べている。確かにバッチリ決まれば構図は美しいが、実際にやるとなれば非常に恥ずかしい。素直にそう伝えると、じゃあ他にも考えてみよう、と机に身体を撓垂れさせた。
いつの間にか丸テーブルを囲み、各自リラックスできる体勢になって話をしている。もしかしたら今日の夜は長丁場になるかもしれないな、と布団の準備を検討していると、遙先輩がお茶の用意を買って出てくれたので、手伝いのために一緒に階下へ降りる。お盆にコップをのせて戻ってくると、部屋に残った二人が真剣な顔で見つめあっていた。
「何をしてるんですか?」
「どうしたら怜ちゃんの告白が上手くいくか、って話になったんだけど、そういえば最近流行ってるゲームがあったなって思って試してたんだ」
「まだ告白するとは決めてませんよ!」
小声で激しく主張すると、くすくすと真琴先輩が笑っている。
「ごめんごめん。えっと、なんだったっけ……そう、愛してるゲーム、って名前らしいよ。愛してる、ってお互いに言い合って照れたり笑ったりした方が負けなんだって」
適当に流されたと落ち込む隙もなく、二人はもう真顔で愛を囁きあっている。仲良しだなぁと思って眺めていると、横に座っていた遙先輩もお茶を飲んでのんびりと過ごしていた。それとなく布団の準備を促すと、ようやく決着がついたらしく、真琴先輩が真っ赤になった顔を手で仰ぎながら力無く笑う。
「これめちゃくちゃ恥ずかしい!俺には無理だなぁ」
「次はハルちゃんと怜ちゃんでやろうよ!」
渚くんの言葉にあれよあれよという間にのせられて、セカンドラウンドのゴングが鳴る。一体何をしているんだ、というツッコミは男子高校生の深夜テンションの前には無力だった。すぅ、と息を吸い込むと、いつになく真剣な表情を作る。
「僕は、遙先輩の泳ぎを愛しています」
「俺もフリーを愛している」
変化球を投げたつもりが、遙先輩があまりにもいつも通りのことを言うのが逆に可笑しくて、僕が吹き出してしまう。渚くんが遙先輩の拳を持って天高く突き上げる。それを見てまたけらけらと真琴先輩が笑う。今日はなんだか負けてばかりだ。けれどもとても心地が良くて、僕は水泳部の皆が好きなんだと改めて実感した。
結局その日はだらだらと朝方まで話を続けていた。少し仮眠を取ってから早朝ランニングへ向かおうとすると、渚くんが後からついてきた。軽くストレッチをして、靴紐をかたく結ぶと、潮風をまとった街道に向けて一斉に足を踏み出した。まだ車が疎らに走行している横を、陸上をやっていた頃と変わらず、筋肉に刺激を与えるのに最も適切な速度で走り抜ける。
「本当は昨日、聞こうと思っていたんですが」
「うん、なぁに」
「渚くんがもし一般的に治る見込みのない怪我をしたとして、それでも水泳を続けたいと思いますか?」
「……今の僕なら、きっと泳げなくても何らかの形で関わりたいって思う。実際に怪我をしたときに聞かれたら、なんて答えたらいいかわかんないし、決断に時間がかかるかもしれないけど」
ぴょんぴょんと目の前を跳ねていたカスタード色のやわらかい髪が、徐々に隣に移動していく。つまり、先導していた渚くんが僕の真横につき、ちらりと僕の顔を覗き込むような視線を寄越す。
「これって、件の好きな人にも関係してる質問だった?」
「まぁ、実はそうなんです」
僕は広報誌で読んだ内容を噛み砕いて渚くんに説明した。浅い呼吸を繰り返しながら、お互いに前を見たまましばらく走り続ける。目の前の信号が赤に変わった頃、渚くんは徐ろに口を開いた。
「僕は好きな人にはやりたいことを自由にやってほしいな、って思う。そう怜ちゃんたちに教わったから! でも、結局最後に選択できるのは自分自身だってことも、人一倍知ってるつもりだよ」
腕を突きあげて、軽く伸びをしながらそう語る彼は、なんだか逞しく見えた。渚くんも、以前大きな悩みを抱えていて、それを水泳部のみんなに打ち明けてくれたことがある。そのときのことを思い出すと、今もじんわりと胸が温かくなる。
「だから僕は、自分の選択に悩んでる人がいれば応援したいし、気持ちに寄り添ってあげたい」
「寄り添う、ですか」
「うん。もちろん、怜ちゃんもその対象だよ!」
だから頑張れ!と言いたげに、渚くんはにっこりと微笑んだ。その表情を見ていると、彼にまつわる思い出だけでなく、おそらく渚くん自身があたたかい人なんだと、しみじみと感じる。朝日の光をめいっぱい浴びる信号が、ようやく青色に変わった。その場での足踏みは終わりにして、僕たちはまたどちらともなく横断歩道のアスファルトを蹴りあげて前に進みだした。



今思い出しても、あの放課後は夢を見ていたような気がする。連絡先を教えてもらったものの、そう簡単に連絡を取っていいのか、名前先輩も忙しいのではないかと躊躇ってしまい、再会してから数日が経とうとしていた。渚くんに背中を押してもらったのだから、なんとかしなければという思いだけが日に日に募る一方だ。
そんな毎日でも、部活動の時間は僕にとって必須かつ最重要なルーティンだ。プールの中にいる時だけは、何も考えずにいられる。思考を止めて、ただ水と同化して、それ以上は練習で身につけた感覚を頼りに泳ぐ。足で蹴って、手でかき分けて、身体は前へ。渾身のストロークを、本番と同じように。美しい完全体のバタフライを僕が体現するために、何度でも繰り返す。
「うん、いい感じ! でもそろそろ身体がちょっと強ばってきた感じがしたので、一度休憩を取りましょう」
マネージャーの江さんがハイポニーテールを揺らして合図を送ると、プールから一斉に部員が引き上げる。顎の先から雫がぽたぽたと落ちて、地面にシミをつくっていくのを眺める。かぶりをふって髪の水分を切ろうとすると、ふと誰かから視線を送られているように感じた。
おそらく他校と合同練習を行っていた部活があったのだろう。どこか見覚えのある制服姿に、僕は二、三度瞬きを繰り返した。そして、その中で唯一こちらを向いている人を見つける。
「あっ……」
声をかける暇もなく、彼女は、名前先輩は走り去っていこうとした。もしかして、先程の練習を見学していたのだろうか。彼女が見ていた場所の近くまで早歩きで向かうと、そこには以前彼女が飲んでいたミックスジュースと、もう1本スポーツドリンクが、金網の近くでぽつんと取り残されている。
ペットボトルの下には小さな紙が挟まれており、走り書きでがんばれ怜、と書かれていた。その瞬間、ドッと大量の血液が体内を循環していくのが自分でもわかった。嗚呼、確かにこれは衝動だ。何度文章で読んでも理解できなかったことが、ようやく腑に落ちたかの如く、僕は静かに激情した。かつて好きだった人にもう一度、今度は強く惹かれるように、心を揺れ動かされている。それはもう、理屈を抜きにしても紛れもない事実だった。
「怜、大丈夫? お腹でも痛い?」
我に返ると、僕の様子を変だと思ったのか、真琴先輩がそばに来て気遣ってくれた。問題ない、と告げると心底ほっとしたような表情を見せて頭を撫でられる。真琴先輩は常に優しい。ドキドキと静まらない鼓動が、彼の包容力によって少しずつ落ち着いていく。まるで疲れでハイになった身体を、ふかふかのマットレスに包まれるような心地だ。
今日の練習が終わったら名前先輩に連絡してみよう、と密かに意志を固めると、僕は二本のペットボトルを手に取って、片方をすっかり熱くなってしまった頬に押し当てる。休憩に戻ったあと、もちろん渚くんに色々とツッコまれたのは言うまでもなかった。



差し入れのお礼と相談したいことがあるという名目で連絡を取ると、この前話した公園で再び落ち合うことになった。待ち合わせの時間よりも随分と前に到着してしまった。すると、自然と自販機に足が向かう。
今日はどれを買おう、とボタンの前で手を止める。名前先輩に教えてもらったミックスジュースか、それとも普段飲んでいるスポーツドリンクか。顎に手を当て、数秒考えて、結局どちらも買うことにした。もしかして、名前先輩も同じように悩んだのだろうか。どちらを僕に渡すか考えて、決めきれなくて、結局どちらも差し入れることを選んでくれたとしたら。自分で想像しておきながら、もしそれが事実なら、どんなにいじらしくてかわいらしいだろう。つい自分にとって都合の良い方に思考の舵を切ってしまうのは、僕が浮かれている証明のようだ。
自販機から戻る途中、ちょうど向かい側から歩いてくる名前先輩を視界が捉える。汗を拭って軽く走り出したものの、はしゃいでいると思われるだろうか、と考え直して早歩きに切り替えた。
「こんにちは。今日、あついね」
ぱたぱたと両手で顔を扇ぎながら、少し照れくさそうにはにかんで、名前先輩が僕に話しかける。それから僕の両手に握られている飲料水を見て、驚いたように目を丸くした。
「一緒に飲みませんか」
僕がすぐ近くの屋根付きの座席を指で示せば、名前先輩は快く頷いた。木目調のベンチに2人で腰を下ろそうとして、ふと以前は気に停めなかった彼女の足元に視線が落ちる。季節は夏であるのに、本来無防備なはずの両足は真っ黒なタイツに覆われている。本当に怪我をしていたのかは、直接本人にたずねるしかない状態だった。
「いきなり呼び出してすみません。実は、先輩が今は陸上をやめて、マネージャーになったことを記事で読んだんです」
「……そう、だったんだ」
「あっ、言い方が美しくありませんでした! えぇと、なぜ陸上をやめてしまったんだ、と糾弾するつもりはまったくないんです。僕は……どうしてその決断に至ったのか、ただ知りたくて。言いたくなければ全然、答えなくても大丈夫なんですが」
お世話になっていた先輩ですし、とか、自分がもしそうなってしまったときのために、などと本音に半分嘘をねじ込ませて、彼女の反応をじっと待つ。一か八かの勝負だった。ただ、あの日練習を見に来た彼女の、輝きの中に翳りを感じる瞳を思い出すと、僕は黙っていることはできなかった。ランニングで渚くんが話してくれたことが、脳裏に蘇る。そうだ、僕は名前先輩のことが好きだから、迷惑でなければ寄り添いたいのだ。
「……ううん、話すよ。怪我をしたのはもう2年前になるかな。そのせいで跳躍運動が難しくて。走ったり歩いたり、軽い運動ならできるんだけど、神様からハードルはもう無理だって言われたみたいだった」
遠くを見つめる彼女は、何かを諦めたようでいて、どこか清々しいような表情をしていた。手持ち無沙汰にペットボトルのキャップを緩めて、こくん、と一口飲み干す。先程僕の手から彼女が受け取ったのは、スポーツドリンクではなく、ミックスジュースだった。
「それでもすぐ陸上からは離れられなくてマネージャーになったけど、心在らずみたいな気持ちだったの。そんな風に毎日過ごしてたら、怜を見かけたのがこの前のことだよ。久々に話せるのが嬉しかったのに、どうしても本調子になれなくて」
「僕も嬉しかったですよ。でもそういえば、どこか空元気だったような気がします」
「へへ、バレちゃってたか。もう私は目標とされるような人じゃない、って無意識に思ってたのかなぁ。たまたま水泳部の練習を見に行ったら、怜はすごく頑張ってたし、余計に自己嫌悪しちゃったんだ。……ごめんね、幻滅した?」
幻滅などするはずがない。ぶんぶんと首をひたすら横に振る。ただ、僕は寂しかった。彼女が悩んでいる間にも、僕は羨望の眼差しを送り続けるばかりで、相談相手にもなれなかったのだ、と思うと、途端に虚しくて苦しくて仕方がなかった。
「名前先輩は、ずっと僕の憧れの先輩でした。それは、今も変わってません。これからも……」
「ありがとう、私も怜の存在に支えられてたよ」
「そんな、こと、ないです」
話している最中に、なぜか嗚咽が込み上げる。ぎょっとした顔を浮かべた先輩の顔がぼやけていく。メガネを外して、両手で必死に涙を拭う。嗚呼、なんて美しくないんだ。僕が先輩に寄り添うはずが、どうして僕の方が泣いてしまうのだ。
「ごめんね、暗い話しちゃって。これ、どうぞ使って」
差し出されたのは真っ白なハンカチタオルだった。そのとき、昔もこんなことがあったな、と遠い記憶が呼び戻される。僕が擦りむいてしまった時に、さっと水に濡らしたハンカチを差し出してくれたのが、名前先輩だった。昔からずっとそうだ。彼女を助けられることなんてなくて、支えられているのは常に僕だった。けれども、名前先輩も僕を支えにしてくれていた。その事実を知っただけで、舞い上がってしまって、もう頭が沸騰しそうだ。
「……名前先輩」
「なに?」
「好きです」
一度口に出してしまえば止められなかった。行間でやけにセミの鳴き声がさんざめく。借りたハンカチで目頭を抑えて、泣きながら好きな人に告白する男など僕の他にいるのであろうか。やたら冷静な自分が、僕を客観視しているのが奇妙だった。
「名前先輩のことが、ずっと好きだったんです」
涙をなんとかして止めようと、ぐっ、と唇を噛み締める。二人とも黙っている無言の時間は恐ろしくて、胃に穴が開きそうになる。けれども、今すぐ目を開けて先輩の方を見て、反応を確かめる勇気もない。その時、そっと何かが唇に触れた。驚いて口を開くと、ハンカチが目元から離される。明るい日差しに耐えきれず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「ほら、噛むと傷になるから」
「えっ、せんぱ、い、今のは……」
「指だよ?」
「ゆび? 指なんですか?」
「ふふ、その捨てられた子犬みたいな目に、昔から弱いんだよね」
何が起こっているのかまったく理解が追いついていない僕を、慈しむように見つめる先輩は美しくて、僕はもう指でも何でもいい、と思ってしまう。その思考を読まれたのか、次に僕の唇に訪れた柔らかな衝撃は、甘いのにすっきりとした果実の香りをまとっていた。