After Twelve Years


 学生のころ、パートタイムで働いていたパブがあった。イギリスの片田舎にあったそのお店は、こう言っては悪いけど少々手狭であまりお客は多くなくて、しかもそのほとんどが常連のおじさまやマダムだった。店員は、初老の気のいい店主と、彼の甥だという少し年上の男の人と、期間限定のつもりがずるずる伸びて気付けば三年目になる私の三人。はじめはお酒の種類もグラスの拭き方もわからなかったけれど、一年経つ頃にはすっかり慣れて一人で店を任せられる日もちらほらと出てきた。
 そんな平凡な生活に、ある日から少しばかりのスパイスが加わった。それは突然で、過ぎた今ではまばたきほどの時間だったような気がする。

 ある夏の日の夜。確か、両親の夫婦旅行にあわせた五連勤の最終日だった。お客さんが全員帰ってから閉店作業を一人でしていたところに、彼はクローズの看板を無視して入ってきた。もう閉店してるから帰って、と言おうと振り向いた私は、言葉半ばで息をのんだ。
 店内の照明も一部を残して落としたおかげで薄暗い中でも、はっきりとわかる。一生でもうお目にかかることはないだろう、と思うほどの美形の男が一人で立っていた。暗い色の服と色素の薄い肌とつややかな黒髪のなかで、青みを帯びたグレーの瞳が目立っている。私は文句を言うことも忘れて、顔にかかる影すら特別に照明が当てられたように思えるその男に見惚れた。男は、店員の私が何も言わないのをいいことにカウンターの席に腰かける。その仕草すら魅力的だった。

「ウイスキー。ロックで」
「は、……はい」

 花瓶の上の段の、それがいいな。そう言って示された指の先にあったのは、常連客でもなかなか頼まないゆえに飾りになりかけていた高いウイスキーのボトル。これが普通のお客なら、絶対に追い返しているところだ。だけどここまでの美形とお目にかかる機会なんてこれからもそうないだろうし、ここで良い顔をして気に入られれば、また店に来てくれるかもしれない。少しの不安と躊躇いのあと、それを上回る期待を抱いて彼の言葉に従って手を伸ばした。
「それ、届く? 落っことさないように気をつけろよ」
「と、届きます!」
 軽い口調でからかわれた。彼のいたずらっぽい笑顔に心臓が高鳴り、恥ずかしさとは別の要因で顔が熱くなる。容姿にしても人柄にしても、こんな男性は今までに出会ったことがなかった。
 氷を積んだロックグラスにお酒を注ぐ。カラコロという音がやけに甲高く響いている気がした。下心だらけで入れた酒を彼の前に置いて、見られているわけもないのにおくれ毛を気にして耳にかける。もう磨き終えたグラスとクロスを手に取って、落ち着かない気持ちをぶつけるように無心で硝子を擦った。ちらりと盗み見ると、彼は扉の方を向いて高い酒を勢い良く呷っていた。晒された白い喉や、グラスを持つ綺麗な骨格の手指が蠱惑的な色香を漂わせていて、酒も飲んでいないのにくらくらした。
 ごとり、と重いグラスが木のテーブルに座る音。酒を飲み干しふっと息を吐いた彼は、文字どおりその一息だけついて席を立った。
「閉まってるのに邪魔して悪かったよ」
 そう言いながらカウンターに置かれたのは額面通りの酒代。チップは別に払うのかと男の様子をうかがうと、彼は衣服のポケットを探りながら私にカウンターの外へ出てくるように促した。
「俺が三つ数える間、目を瞑ってて」
「え……どうして」
 当然の疑問を解決する時間など与えてくれずに、彼は私の目元に左の手のひらを被せて目隠しした。思わず言われた通りに目を瞑る。そのまま彼が低い声で三つ数え、手が離れてぱっと視界が明るくなるまで、戸惑う余裕すら与えられずに終わった。
「大したことない。ちょっとしたお詫びとお礼、ってとこだ」
 愉しげに口角を上げた笑顔との距離が近くて、声を出すのも忘れる。ものも言えない私のエプロンのポケットにチップと思しきコインを入れて、彼は踵を返した。
「あの!」
 彼が店を出る直前に、私は固まっていた身体を叱咤してようやくひとつ声を上げた。男は扉に手をかけたまま足を止める。立ち止まってくれないかもしれないとすら思っていただけに、こちらを振り向いた彼に一瞬物怖じした。
「次は、お店が閉まる前に来てくださいね」
 やっとのことで伝えた言葉に、彼は驚いたような表情を見せた。それから可笑しそうに笑い、明確な返事は寄越さないまま手を振って店から出て行った。

 夢のような時間が終わり、片付けを続行しようと店内を見渡したところで、ふと違和感を覚えた。机を拭こうとしてその正体に気づく。机も椅子も、壁から床に至るまで、一日かけて磨き上げたかのようにきれいに掃除されているのだ。今日ついたばかりの油汚れだけでなく、年季の入った厄介なシミも、角に溜まる埃も。
 まるで魔法みたい。
 不気味に思いながらも、浮かれていた私はそんなふうに心が弾むのを感じていた。


 私の期待通りと言うべきか、彼はその後も不定期に現れた。大抵は夏休み。何度か話もしたが、私は彼についてシリウスという名前以外何も知らない。けれど同年代の客というのはその店では珍しい存在であったため、私たちの距離は次第に縮まっていった。

 彼はとてもハンサムで賢くて、仕草も洗練されていたけれど、どこか過激な思考回路を覗かせることがあった。
 夏休みの、ある夜更けのことだった。彼は見たこともないいかにも悪そうな男たちと店にやってきて、店の一角でゲームを始めた。普段は高いウイスキーやワインばかり空けたがるのに、その日は安酒を大量に頼み、見たところ賭け事に興じていたように見えた。そこまでは、別に一般的に珍しい光景でもないし勝手にしてもらってかまわないのだけど、問題はその後だったのだ。
 ガチャン、と耳障りな音がこぢんまりとした店内に響き渡って、私とカウンターに座っていた数人の常連客は一斉にそちらに注意を向けた。
「ふざけるな!このペテン師が!!」
「だから何だよ。お前らの脳みそがトロール以下ってだけだろ」
「てめえ……!」
 シリウスの挑発にいきり立った男たちが、彼の頭に向けて安酒の瓶を振りかぶった。私もお客さんも、止めに入ることなどできずに反射で目をぎゅっとつぶる。これで彼が大けがしたら、私が病院に連れて行かなければ。瞼の暗闇の中でじっと待つこと、数秒。嫌な音が聞こえるどころか、逆にしんと静まり返ったことを不可解に思っておそるおそる片目を開く。開けた視界に飛び込んできたのは、顔を赤紫にして口を開閉している男たちと、その横で涼しい顔で脚を組むシリウス。彼には怪我一つなく、男たちが持っていたボトルはどこかに消えていた。
 それから、奇妙な顔色をした男たちは奇妙な動きで整列すると、ぞろぞろと店を出て行った。店内の家具や扉にぶつかって痛そうな音を立てながら虚ろな目をして店を後にした彼らを、シリウスは冷たい視線で見送っていた。バタンと扉が閉まり、店内には何とも言えない空気が広がる。
 いったい何が起きたのか、シリウスを除いてそこにいた全員が見当もつかなかった。私はテーブルクロスを持ったまま茫然とするばかりで、他の皆も関わりたくないのかそそくさと視線を自分の飲み物に戻しはじめた。

「あの……大丈夫だったの?」
「何が?」
「さっきの人たち結構怒ってたし。大柄なひとばっかりだったから」
「気にしなくていいよ。どうせ何もできやしないさ」

  その冷えきった口ぶりが忘れられなかった。思い返して見れば、『トロール以下』というふざけた喩えも、軽口なんかではなくて本心からの言葉だったのかもしれない。私はその目に蔑まれるのが怖くて、すぐに会話を切り上げた目を背けた。

 ほどなくして店は閉店時間となり、ほとんどの客はそれより先に店を後にしていた。最後まで残っているのはシリウスただ一人。いつかの初めてあった日のことを思い出しながら、私は脚を組んでどこかを眺める彼に声をかけた。
「もう閉店時間だけど、帰らないの?」
「……帰りたくないと言ったら?」
 それに対する返答が思いつかなくて口を噤んだ。
 知らないわよ。近くの宿にでも泊まったら? と、後になってから、素っ気ない返答の模範解答が浮かんできたけれど。その時はやけに掠れた声に犯された脳内がシリウスのことでいっぱいになって、言葉も思考も停止していたのだ。
 気づけば、近くの安い宿の部屋に彼と二人きりで佇んでいた。襤褸いカーペットに二人分の足跡が残っている。建付けの悪い窓がカタカタと鳴る部屋の中で、私たちは視線を絡めていた。
 彼の指が私の髪を梳く。硬直状態の私から目を逸らさずに、シリウスは低い声で呟くように訊ねた。

「俺が怖いか?」
「……そんなはずない」
「嘘が下手だな」

 ふ、と口の形だけで彼は笑った。
 噛み付くようなキスをされて、女に対する扱いにしては乱暴にベッドに引き倒される。シーツをかき混ぜながら、私は嫌がるよりも悦んでいる自分自身を強く自覚していた。首に腕に歯を突き立てるシリウスはなんだか犬のようだ。自分勝手な行為に快楽はなく、ただ初めてを散らす痛みが感覚を埋めていた。濁流の中で心は酷く満たされ、同時に裏側が磨り減っていく。夜を超え朝日が昇っても、彼は私を寝かせなかった。
 長い長い、夜だった。意識は朦朧としていて、細かいことはよく覚えていないのが正直なところである。半月のあかりに煌めくシリウスの青灰の瞳。その色と輝きが、その夜の記憶の全てだった。

 私たちは恋人ではなかった。それ以降、店に来てもその夜を蒸し返すことはお互いになかったし、関係もあの一度きり。肉体の記憶として刻まれた熱い夜は、愚かな女と気が沈んでいた若い男の、一晩の過ちに過ぎない。ありふれた物語だと、そう自分に言い聞かせていた。
 成人の年になってから、彼の来訪はぱたりと途絶えてしまった。最後がいつだったかなんて覚えていない。彼が来なくなったことで私もどこか諦めがつき、二歳年上の平凡な男性と結婚した。……諦めたとはいえ完全に希望を捨て去ることはできなくて、籍に入ってからもパブで働くことはやめなかったけれど。

 しかし、最後の望みであったその店も、私が結婚して少ししてから閉店した。店主は高齢で持病に加えて体力もなくなってきて、甥も都会で仕事を見つけたというので、続けていくことができないと閉めることになったのだ。
 だから、その店が唯一の接点だったシリウスとは、もう会うことはできない。学生時代のちょっぴり華やかな思い出として、二度と蘇らないように記憶の片隅にしまっておいたはずだった。それなのに。

『10時、あの店で』
 短すぎるくらい簡潔なメッセージのあとに"S"とイニシャルだけの署名がついた手紙が、テーブルの下に落ちていた。書きなぐりのメモか、そうでなければ怪文書に思われても仕方ないそれの送り主が誰なのか、私は一瞬でわかってしまった。いまどき誰も使っていないような分厚くて書きづらそうな紙と、丁寧とは言えないけれど気品と教養の滲むアルファベットと綴り方。シリウスが帰ってきたのだ、と、直観で悟った。

 行かなければ。
 私にそう思わせたのは、かつての恋心だったかもしれない。

 厚手のコートを防寒と目隠しのために羽織り、何かから怯えるように身を縮めて霧雨の夜道を歩いた。いまさら彼とどうこうなる気はないし、夫に対する罪悪感みたいなものも感じていなかったけれど、田舎の夜道にはランプの焔すらも明るすぎるほどで、監視されているような感覚に陥るのだ。目の前の道に電燈の光を掲げながら、歩くこと十数分。今はもうないけれど、昔は確かに存在した私の学生時代の思い出が詰まったパブ、つまり彼が言う『あの店』の場所に到着した。取り壊しになった後、小さな鉄道の駅ができたがそれもすぐに寂れ、今では駅の名残りの古びた屋根と小さなベンチが二、三、ぽつんと置かれているだけだ。

 その脚のところには、黒い大きな犬が寝そべっていた。飼われていないのか手入れはされていないように見えたけれど、黒々とした立派な毛並みはきっと美しいだろうと思わせる不思議な雰囲気がある。近寄っても動じない様子の犬に注意を払いながら、私はベンチの端に腰掛けた。

 時刻はまだ10時前。冷たい雨が、ベンチとその下にいる先客の毛皮をじっとりと湿らせている。キルトのポーチに入れて提げてきたポットのホットコーヒーをすこし飲みながら、時が経つのを待った。本当に来るという確証もないし、書き置きについてもまだ半信半疑だが。もしかしたら単なる悪戯で、彼は来ないかもしれない。不安を僅かでも払拭するためにもう一口コーヒーを飲んだ。
 はぁ、と吐いてしまった溜息に含まれていたのは、自分自身に対する苛立ちと、寂しさと、恋しさ。
 霧から粒となった雨が降っている。風も吹き始めた。雨が酷くなってきたからか、黒い犬は立ち上がり引き留める間もなく茂みの中に消えた。
 私はその雨の中、さらに20分ほど待った。するとそこに、古い大きなコートとちぐはぐな靴を履いた男が早足で歩いてきた。

「シ……、シリウス?」
 私は信じられないままに訊ねた。
「そうだ。名前。来てくれるとは、正直思ってなかったよ」
 距離が縮まって、ランプの灯りに照らされて彼の顔が少し見えた。酷くやつれ、髪は伸び、十代の時の輝かしい容貌とは随分と様変わりしていた。しかし、ぼろを身にまとっても格好がつくほどハンサムな男であることには間違いない。おそらく語れば長いことが色々とあったのだろうが、聞いてはいけないと思わせる雰囲気がそこにはあった。
 けれど、何故か。どこかで、しかも最近、彼の顔を見たことがあるような気がした。
「久しぶり、えっと……」
 話題を探す私を遮って、シリウスはコートの前ボタンをとめ直しながら口を開いた。
「急いでいるから長話はできないんだ。元気な顔が見れればそれでいいと思っていた」
「そっか。……シリウスは、あんまり元気そうには見えないね」
「自覚はあるさ」
 苦笑したその目に寄った皺が、顔に落ちる影の変化でわかる。嫌でも年月の経過を感じて、十二年という時がとても長いものであるように思えた。
 もっと話していたかったけれど、それは叶いそうにない。雨も酷くなる一方だし、帰りが遅くなれば夫にも心配をかけてしまうだろう。
「悪いが、君を夫のところまで送ってやることはできない」
「いいよ。気にしなくて、」
「その代わりに、いいものをやるから。目を閉じて。三つ数えたら開けてくれ」
 いつかと同じようにカウントダウンを待つと、ふわりと全身が暖かいものに包まれたような心地良さに覆われた。雨の冷たさからも守られている。それに何より、貧乏ゆえに買い替えていなかったボロボロの靴の酷い締め付けが消え、靴底の硬さを感じた。
 そっと瞼を上げると、片膝をついて私の足元に跪くシリウスを見下ろしていた。足には気づかないうちに新しいブーツが履かされている。彼が私を見上げ得意そうに笑ったことで、それらがシリウスの仕業であることがわかった。
「古いのはこの袋の中。これで帰り道は心配いらない。この靴が君を護ってくれる」
 たったの靴に、そんな力があるはずない。わかっていたけれど、あまりに真剣なその表情に異を唱えるのは野暮だった。ありがとうと一言だけ告げると、彼は立ち上がって私に帰るように促した。

 さよならを言おうと、最後に振り向いた時。すっかり切れていたベンチのそばの電灯に前ぶれなく明かりが灯り、夜道を明るく照らした。朧気だったシリウスの顔がはっきりと見える。

「ひ、っ……」
 その顔を見て、ハッと息を飲んだ。悲鳴を上げそうになって慌てて口を閉じる。
 シリウス……シリウス・ブラック。それは、私が知り得ないはずの彼のフルネーム。そして、日々新聞やテレビで語られる『脱獄した凶悪な大量殺人鬼』の顔写真と共に呼ばれる名前だった。
 まるっきり、同じ顔。もはや疑いの余地すらないほどに先週の記憶と合致した。名前が同じであることに気づかなかったのは、私が彼のことを意図的に忘れようとしていたからだ。
 彼が十二年も姿をくらましていたのは、監獄にいたせいだなんて。
 私はそれ以上言葉を紡ぐのをやめた。震えが伝わってしまえば、私が彼の正体に気づいたとバレてしまう。つとめて笑顔で手を振り、不自然に速くならないように歩いた。

 十二年経って再会したかつての友人が、殺人で指名手配されている犯罪者だった、なんて。信じがたい話だ。とても恐ろしくて通報などできなかった。
 恐怖と気味悪さに震えながら帰宅した私は、心配する夫にしがみついて、子供のように泣いた。