曖昧模糊


静かな教室に終業のチャイムが鳴り響く。生徒の身体からは一気に力が抜け、先生は先程までのやる気を失ったようで、覇気のない声で号令をかけていた。
涼しいとはいえなかった教室から1歩出ると、熱気が身体に絡みついてくる。
「あっつ……」
独り言を呟きながら、アイスでも買うか、と正門へつながる道とは反対へ足を進めた。少し進めば運動部特有の掛け声と、ボールが床を突く音が聞こえてくる。
バスケ部は今年も全国大会に出ると誰かが言っていた気がする。少し気になった私は床とバッシュの擦れる音や、掛け声の1つ1つが鮮明に聞こえる程に近づいて、格子状の扉越しに体育館の中を覗く。
シュート練習をしているのか、宙にあるボールが弧を描きながらネットへと吸い込まれていった。
「すご……」
素人目から見てもわかるほど綺麗なシュートだ。これを打った人は誰だろう、と思っていると部員の1人が私に気づいたようでこちらへとやってくる。
「アンタ誰?てゆーかなんの用?」
「あ、いや、用がある訳じゃなくて……」
「ふーん」
体育館から出てきた彼は私の目の前に立つ。あまりにも身長が高いため、本当に日本人か疑ってしまう。去年、バスケ部になんかすごい新入生が入ってきたと話題になっていたような記憶もあるが、彼がそうなのだろうか。目の前の彼の威圧に負けて、帰ろうとした瞬間聞き覚えのある声が耳に届く。
「何やってるんだ敦、休憩入ったぞ」
「あー、また室ちんの追っかけかと思って」
「追っかけなんて……って名字じゃないか」
「何、室ちんの知り合い?」
「友達だよ」
どうやらこのスマートな彼の中では私は『友人』という位置づけらしい。クラスの中でも少し会話をする機会が多いだけだから、『クラスメイト』程度にしか思われていないと思っていた。
「まあ違うんならいーや。俺は戻ってお昼食べよー」
室ちんもはやく食べなよー、と言いながら彼は体育館の中へ戻っていく。そんな彼に付いて氷室も戻るのかと思ったが、何故か私の前に立ったままだ。彼は時折汗を拭いながら3段程度の段差に腰を下ろした。
「名字って部活入ってなかったよな。どうして学校に?」
「あー、補講。私塾行ってないから一応受けておこうと思って」
「真面目だな」
半年後には受験が待ち構えているのだから、真面目にもなるだろう。周りも受験モードに入っているため自分も勉強くらいしかやることがないのだ。
「息抜きはちゃんとしてるのか?」
「コンビニ行ったり、本読んだり?それなりにしてると思うよ。そういう氷室はどうなの」
「俺もそれなりにしてるかな。欲を言えば部活と勉強を1日くらい忘れてゆっくりしたいけど」
そう言われて、近所に貼ってあったポスターを思い出す。この辺りではそれなりに規模の大きい祭りだったはずだ。外に出て遊ぶのはかなり気分転換になるのではないだろうか、と彼に伝えてみる。
「祭りか……。確かに、去年は行ってないしな。名字さえ良ければ一緒に行かないか?」
「え?」
当惑、とはこのことか。なんと返事するのが正解か分からずに、考えることをやめた頭の片隅で今朝目を通したばかりの参考書を思い出す。
「予定がないならで構わないんだ。どうかな?」
「予定はない、けど」
「じゃあ俺が今からシュートを打つからそれが入ったら、って言うのはどうだ?」
私と行くよりチームメイトと行った方がいい、と伝えたかったが彼が体育館に戻ってボールを手にする。そんな姿を見てしまうと、何も言ってはいけない気がした。
「行くぞ、名字」
彼がこちらを向いて声を掛けてきたために、休憩を取っていた部員たちが一斉にこちらを向いた。そんなこと気にするな、とでも言うかのようにバスケットボールは彼の手から離れる。その動きは滑らかで、繊細だった。先程練習を覗いた時と同じように、ボールはネットへと吸い込まれていく。それが床に落ちたのを確認してから、彼はこちらへと戻ってくる。
「すごいね」
気の利いたことが言えずに、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま伝えてしまう。そうかな、と彼は笑っていたが、そもそも1回でシュートを決めてしまうことが私には考えられなかった。当たり前のようにみんながシュートを決める中、私だけが外しまくっていた体育の授業を思い出して気が遠くなる。
そんなどうでもいいことを考えながら、ふと時計を見ると針はそれなりにいい時間を指していた。
「電車の時間あるしもうとりあえず行くね。じゃあまた」
「帰るところを引き留めてすまなかったな。また明後日」
『明後日』という言葉が耳に残る。彼の中ではあの約束は冗談ではなかったらしい。
結局コンビニには寄らず駅へ直行したために、ただ遠回りをしただけになってしまった。たまにはいいだろう、と自分を納得させるかのように電車へと乗り込んだのだ。



1日経ってもあれは夢だったのではないか、と錯覚してしまう。けれども、靴箱に入っていたルーズリーフの切れ端が、現実であることを主張していた。本当に帰国子女なのかを疑うほど達筆な字で『18時に駅前で 氷室』と書かれている。連絡先も知らないため返事をどうしようかと思い、昨日と同じく下校前に体育館へと向かった。
昨日と同じスケジュールなら休憩に入るだろうから、自動販売機で差し入れでも買おうか迷って、辞めておく。チラリと体育館を覗くと、背の高い彼が今日も私に気付いたようだ。
「室ちーん、昨日の人来てるよー」
「ありがとう敦」
「どういたしましてー」
と言いながら昨日のように体育館の中へと戻っていく。かなりマイペースな人なのだろうか、彼の周りだけは張り詰められた糸が緩んでいるような感じがした。
「何かあったのか?」
「ああ、そういう訳じゃないんだけど。これの確認だけしに来た」
これ、と制服のポケットからメモを取り出す。彼は納得という顔をして、問題は無いか尋ねてきた。
「駅だと人が多すぎて分からなくなるかもしれないけど平気?」
「名字電車で来るんだろう?下手に動き回るよりは駅の方がいいかと思って」
「そっか、じゃあ有難くそうさせてもらうね」
ありがとう、と伝えて駅へと向かう。丁度よく到着した電車に乗りこみ、揺られながら明日の事を考える。服装はどうしようか、たかだか近所の祭りで浴衣は気合いを入れすぎだろうか。色々と考えるうちにアナウンスは最寄り駅に到着したことを知らせる。家に帰ってパソコンで調べてみればいいか、とイヤホンをつけてお気に入りの音楽と共に帰宅する。



「お待たせ。もしかしてずっと待ってたのか?」
少しだけメイクをして、髪を緩く巻いてポニーテールにする。昨夜用意したお気に入りの服を着て、ほとんど履いたことのないサンダルで家を飛び出した。待ち合わせをしている駅に到着したのは17時45分頃。その数分後に氷室も到着したようで、声を掛けてきた。
「大丈夫、今着いたばっか」
「なら良かった。」
駅前は祭り目当ての人達でいつもよりも賑やかだ。大きな花柄を身に纏う女の子たちを見ていると、やっぱり浴衣を着ても良かったかなと思ってしまう。
「名字は浴衣着なかったんだな」
「迷ったんだけどね。動きにくいから」
「そうか。その服も似合ってるよ」
「ありがとう」
そっちもね、と言うことは出来ずに提灯に照らされる道路を歩く。ヒールを履いてるせいか、いつもよりも少しだけ目線が近い気がして横を見ることが出来なかった。
気付けば香ばしいソースの匂いと、喧騒に包まれる。屋台の並ぶ間隔は人の数に比例して狭くなっている。
「どこから回ろうか」
「そうだな……。じゃあ、あれ行ってもいいか?」
あれと指を指した屋台には、ビニールプールに小さなボールが浮かんでいた。小中学生くらいの子達に混ざって、小銭を店主に渡す。
どちらが多く取れるか勝負しよう、と彼に言われる。負けた方はかき氷を奢るという約束を受けて私はしゃがみこんで真剣にビニールプールを見つめた。狙いを定めてポイをボールに近づけるが、6個掬って完全に穴があいてしまった。店主に器とポイを返すと、多くても3個までしか持って帰れないルールがあるらしく「好きなものを選んでくれ」と言われた。3個選び終わって、袋に入れられたそれを受け取る。ちらりと見た彼の器には少なくとも10個は入っているようだった。
「流石にもうダメだな」
「沢山取ったね、私なんて6個だったよ」
「俺の勝ちだな」
笑みを浮かべる彼と約束通りかき氷を買いに行く。カップを2つ受け取り、近くのベンチに腰掛ける。どうやら彼は日本のかき氷は初めて食べるようで、少しだけ珍しそうに食べていた。青い氷をザクザクと音を立てながら食べ進める。祭りの盛り上がりとは反対に身体は少しずつ冷えていく。
途中、彼が「ブルーハワイって結局何味なんだ?」と聞いてきたので、シロップは基本的にどれも同じ味らしいから私も分からないと伝える。それを聞いた彼はまた驚いた顔をして笑っていた。
「そういえば、これ」
食べきったカップを横に置いてから、スーパーボールを取り出す。街灯や提灯に照らされるそれはキラキラと光る訳では無い。恐らく彼にとって馴染みがあるであろう柄のそれを差し出して、家でも練習できるんじゃない?と大して面白くない冗談を言うと彼は、「そうだな」と笑っていた。
彼はありがとう、と袋にしまうと同時に自分の袋から、最近人気のキャラクターが施されたものを取り出した。
「名字これ取ろうとしてるように見えたんだけど違ったかな」
「見てたんだ……。ありがとね」
実際、最後まで狙っていたものだったので嬉しい気持ちもある。が、そんな真剣に狙っているように見られてたのかと思うと少し恥ずかしさすらある。有り難くそれを袋にしまって彼がかき氷を食べ終わるのを静かに待っていた。
近くのゴミ箱にカップを捨ててから会場を1周するように歩く。途中、射的をしてみたりヨーヨー釣りをしてみたり、彼は夏祭りを満喫しているようだった。これ以上我慢するとお腹の虫が鳴き出しそうだったため、焼きそばを買ってテントで食べることにした。出来たてではなかったようで少し麺が固まっていたが、これも祭りの醍醐味だと思い有難く完食する。
「ご馳走様でした」
「もうすぐ花火の時間だな。ここら辺でも見えるのか?」
「もうちょっと行ったところが綺麗に見えるかも」
移動しようか、と立ち上がった時に踵がピリピリと痛む。大したことはないだろうとそのまま足を前に出す度に踵が擦れて、また痛みが走る。そんな私に気付いたのか彼はここで待つように伝えてどこかへと行ってしまう。大人しく立っていると、彼は走って直ぐに戻ってきた。
「絆創膏貰ってきたよ」
靴擦れに気付いたようで運営の人から絆創膏を貰ってきたらしい。
「ごめん、ありがとう」
「踵貼りにくいだろう?俺が貼っても大丈夫かな」
「え、いいよ。流石に悪い」
悪い、と言うよりも恥ずかしい、の方が正確だがそれを伝えるのも何となく恥ずかしい。訊ねてきた割には、彼の中で私に絆創膏を貼らせるという選択肢がないのか、こちらへ渡してくれる気配がない。足首のストラップを外され、空気がじんわりと張りついて傷口に沁みる。
「はい、貼れたよ」
そう言われて後ろを振り向くと彼は膝を地面につけて、ご丁寧なことにストラップまでつけ直してくれていた。じゃあ行こうか、と跪いたような体勢から立ち上がり手を差し出してくる。思わず手を取ろうとするが、彼の膝が少し白くなっていることに気付く。
「ごめん、膝汚しちゃったね」
「いや、俺が勝手にした事だから名字が気にすることじゃないよ」
彼はそう言いながら右の膝を軽く叩いてた。その瞬間、空が明るくなる。咲かない花が夜空を綺麗に飾る。人混みから少し外れたおかげか、思いの外はっきりと見ることが出来た。
「花火、始まっちゃったね」
「ああ。もうここで見ようか」
「そうだね」
周りの喧騒と花火の音だけが響く。先程まで元気に動き回っていた子どもたちも立ち止まってそれを見上げていた。同じように立ち止まる2人の間に特に会話はなく、その沈黙を破ったのはどちらか分からない。
「綺麗だね」
「ああ、すごいな」
なんでもないようなことを話しながら、花火を眺め続ける。時折聞こえるシャッター音に、自分も写真を撮ればよかったなと考える。
花火は終わりに向けて走っているようで、周りも盛り上がっている。先程まで喋っていた彼は魅入っているようで、黙って空を見ている。毎年見ていてもやはり感動はするものだ、と私も静かに花火を眺める。
「日本の花火は面白いな」
「アメリカはなんか違うの?」
「そうだな……途中で色が変わる花火は見たことが無いかもしれない」
「そうなんだ、アメリカなんて凄そうなのにね」
去年の夏休みに日本へ来た彼はどうやら風物詩をまともに楽しんでいなかったらしい。普段よりも楽しそうだったのは、久しぶりに日本の祭りへ来たからなのだろう。そんな話をしているうちにあっという間に駅へ到着する。
「今日はありがとうね。楽しかった」
「俺もだよ」
「インターハイだっけ、頑張ってね」
「もちろんさ、俺にとっては最初で最後だからな」
また学校でね、と手を振って電車に乗り込む。空いてる座席を見つけて、腰を下ろした瞬間に疲れがドッと襲う。久しぶりに外で動き回ったからなのか、それとも私も案外はしゃいでいたのか。微かにやってきた眠気に抗うことなく目を閉じた。
ふと目が覚めた時には最寄り駅に着く手前で、乗り過ごさなかったことに安心する。定期券を用意してそのまま駅を出る。少しだけ痛む踵はお風呂に入ったらしみるだろうな、なんて考えながら帰途へついた。



高校の頃に比べて自由になった門限のおかげで、時計の針はあっという間に23時近くを指していた。さすがに解散しよう、と帰宅した時には両親は既に布団の中らしかった。家の中は真っ暗で静まり返っている。なるべく音を立てないように自室へと向かい、ベッドに腰掛ける。シャワーを浴びることすら面倒でそのまま上半身を後ろへ倒すと、柔らかい布団が私を受け止める。下がってくる瞼を受け入れながら視線を天井から横に逸らすと、ヘッドボードの棚が目に入る。小学生の頃からお世話になっていた目覚まし時計の横には、去年氷室から貰った小さなボールが置いてあった。結局彼と出かけたのはそれきりで、連絡先を交換する訳でもなく卒業を迎えたため、彼がどこに進学したのかすら私は知らなかった。
懐かしいな、と思い本棚にピッタリと収まっているアルバムを手に取り1ページずつ眺める。あまりクーラーが効いていないのか、じんわりと汗が滲んできた。アイスでも買いに行こうと財布と家の鍵を手に取り、静かに外へ出た。
自動ドアを潜ると冷気が一気に襲ってくる。外との温度差で小さくくしゃみをしながら、お目当ての冷凍庫へと向かう。1番身体を冷やしてくれそうな氷菓を手に取り、店員に渡す。小銭だらけの財布から丁度取り出し、代わりに店員から氷菓を受け取って店を出た。お昼に比べれば涼しいのだろうけれど、もわっとした空気が気持ち悪かった。
「名字?」
「へ?」
後ろから声を掛けられて、気の抜けた声を漏らしながら振り向く。そこには指通りの良さそうな黒髪とは対称に、降り積もる雪を思い出させる程白い肌の男性が立っている。
「久しぶりだな」
「久しぶりだね」
オウム返しのような返事をしてしまい2人で笑う。折角だから少し話していこうという彼の提案に時間を確認して、「少しだけなら」と誘いに乗る。バスケットゴールのある広場に移動してベンチに腰を下ろして、アイスが溶けてしまうから遠慮なく蓋を開けた。彼は座るよりも前に、誰かの忘れ物らしいバスケットボールをゴールへとそれを放った。ネットを通り、トンと音を立ててボールが下へと落ちる。
「やっぱすごいね」
彼は大学でもバスケを続けていることを教えてくれた。その流れでお互いの卒業後の話をするが、どうやら彼も上京しているらしかった。それならいつか試合を観に行こうかな、と言ってみる。彼は「じゃあ負けられないな」とボールを弄りながら楽しそうにしていた。
「そろそろ帰ろうかな」
「さすがに危ないし送っていくよ」
「すぐ着くから大丈夫だよ」
「いや、付き合わせたのはこっちだからな。それくらいさせてくれ」
引き下がりそうにない彼にお願いします、と伝えて立ち上がろうとする。「行こうか」とベンチの横にボールを置きに来た彼は何故かこちらに手を差し伸べてきた。思わず手を取って立ち上がる。
「じゃあまた」
「送ってくれてありがとね、また」
離すタイミングが分からずにそのままにしていた手は、家に着いた瞬間自由になる。
2人ともが言った『また』がいつになるのかも、たった数分とはいえ繋がれたままの手の意味もよく分からない。アイスを食べて冷えた身体に少しずつ熱が戻ってくる。やはり今日は眠れそうにないな、と思いながらベッドへと腰掛けた。