携帯端末のアラーム音が朝の訪れを告げる。
ピピピ……と、ごくシンプルな電子音がいくらか鳴り続けてから、#name2#はようやく上体を起こした。緩慢な動作でシーツの海を這うように移動し、サイドチェストで主張し続けるアラームを止める。
ベッドサイドに腰かけて、両手を組んで真上にぐっと伸びをすれば、とろとろと落ちかけていた瞼がようやく持ち上がる。
低血圧によるものなのか、#name2#は寝起きが苦手だ。
いつもなら、この時点でもまだぼうっとしているのだが、今はすでに頭も冴えている。
おそらく今朝が#name2#にとって、日常に埋没していく一つではなく、特別なものであるからだろう。

「…今日から、か」

声に出すことで実感が強まる。教育課程を修了した#name2#は本日、社会人として初出勤を迎えていた。
同期の友人たちは#name2#よりも数ヶ月前から仕事に就いている。なぜ#name2#だけが異なるのかといえば、それは彼女が選んだ職場の特異性が理由だった。
厚生省公安局刑事課の監視官。#name2#が志願した職種である。
監視官は厚生省が管轄する包括的生涯福祉支援システム――シビュラシステムによる職業適性診断の厳しい審査によって選び抜かれたエリートだ。いずれは厚生省幹部へのステップアップが約束されたキャリアである。
それだけに高い能力が要求される職責を課せられるため、正式に刑事を名乗るのには公安局の訓練施設で半年間に及ぶ研修を終える必要があった。
順調に訓練所を卒業できたことで、晴れて刑事課への出勤日となったのだ。

ベッドから腰をあげて、寝巻きにしている大きめのワイシャツのボタンを外しながら、浴室に向かう。
天井が高く、ゆったりとした間取りの3LDKは一人で暮らすには広すぎるが、そろそろ慣れてきた。
シャワーを浴びてさっぱりした#name2#は、ルームウェア姿でキッチンに立つ。
朝食の準備をするためだ。ホログラムアバターを使っていないので、起床や食事を人工知能が促してくれることはない。家電製品の操作やスケジュール管理も自己責任だ。
さらにはハイパーオーツ製ではなく本物の食材を調理しているだなんて、大抵の人間は酔狂が過ぎると言うだろう。
ホロアバターもオートサーバの機能食も、恒常的ではない生育環境にあった#name2#にしてみれば当たり前の光景なのだが。
食卓につくと、並んだ朝食に手を合わせる。

「いただきます」

応える者などいないが、幼い頃の習慣だ。食べ物に対する感謝の表れでもある。
狐色に焦げ目のついたトースト、バターの香るスクランブルエッグ、ルッコラのグリーンサラダ、昨晩の残りの野菜スープに生クリームを投入したクリームチャウダー。
凝った内容ではないが、悪くもないだろう。
バルサミコドレッシングがルッコラの苦みによく合うサラダをしゃくしゃくと咀嚼しながら、壁掛け時計を見やる。
そろそろ着替えたほうがいい。食後のコーヒーまで済ませた#name2#は食器を重ねながら立ち上がった。キッチンのシンクで汚れを落として水切りラックにあげておく。
濡れた手をタオルで拭ってから、主寝室に隣接する部屋に入った。

大型のウォークインクローゼットが設置された一室。
手近なコーナーのハンガーパイプに数着のビジネススーツが吊られている。規定には『黒か紺、またはグレーを基調とする』とあったので、無難に黒を選んだ。
上質な生地のブランド製品とはいえ、ジャケットとボトムスは素っ気ない暗色。せめてもの女心を発揮させるならインナーかと、ボウタイやフリル付きのシャツやブラウスを揃えてみた。
黙考の末、シフォン素材のボウタイブラウスを手に取る。色は上品さを引き立てるアイボリーだ。
ボトムスはシルエットの美しさに一目惚れした、マーメイドラインの膝上スカート。スタンダードなタイトスカートも用意しているが、今日はこちらを身に着けることにする。
スーツに袖を通した後は、化粧と髪のセットだ。
ドレッサーに向かい、顔にナチュラルメイクを施す。瑞々しく潤う桜色の口紅が透明感のある肌に花を添えている。
腰まで届く長い髪はハーフアップにしてシニョンを取り入れた。くしゅっとした質感を持たせることで、多少は乱れてもすぐ直せるように。

鏡台の脇にある携帯端末の示す時刻に頃合いを悟る。
姿見に全身を映して、身だしなみの最終チェック。ストッキングに破れはなし、スーツに皺も寄っていない。
玄関でエナメルのパンプスに脚のつま先を入れる。踵は高すぎず、低すぎないミドルヒールだ。
よし、と気合いを入れる。頭の中でこれからの予定を展開させた。
公安局本部に出勤し、まずは局長の禾生壌宗に監視官就任の挨拶。その後は先輩の監視官と初顔合わせとなり、他の同僚たちも紹介してもらう手筈である。
通勤用のバッグを肩に掛けなおして、#name2#は誰もいない部屋を振り返る。そして、また意味のない――けれど習慣化した言葉を投げた。

「いってきます」





新千代田区霞ヶ関にそびえ立つタワービルが公安局本部だ。湾岸沿いに位置する厚生省ノナタワーとは距離がある。
上から見ると八角形の高層ビルは地上60階、地下8階構造だ。
シビュラシステムと厚生省公安局のマークが床面に広がるエントランスホールを抜けた#name2#は、まっすぐに最上階の執務室へ赴いた。そこで禾生局長から監視官任命を受けた後、刑事課フロアのエレベーター付近で待機してくれていた先任の監視官と合流を果たす。
局長の禾生を長として、刑事課には一係から三係まで3つのセクションが存在する。
基本的には各係に2名の監視官と4名の執行官から構成され、それに情報捜査・解析を行う分析官を加えた少数精鋭の人員で成されている。各係でシフトを組み、全国で発生する犯罪に24時間対応しているのだ。
#name2#が配属されるのは刑事課一係。その一係を取りまとめているのが今、#name2#をオフィスへと先導する男性である。

「悪いが、刑事課の人手不足は深刻でね。新人扱いはできない。最初から戦力として働いてもらうことになる」
「はい、覚悟はできています」
「そうか。良い返事だな」