少し前のことだけど、わたしは野坂くんにこんな質問をしたことがある。


  「なにが君を動かすの?」


 彼は蔑むようにわたしを見つめていたけれど、わたしはそう簡単に折れるような子ではない。ただなにも言わずにじっとその目を見つめていれば、ハァと小さなため息をついて先に諦めたは彼の方だった。可愛げのないにらめっこにわたしは勝ったのだ。


  「王帝月ノ宮のマネージャーにもかかわらず、どこか自らの意思が残る君に到底理解できるとは思わないけどね」
  「君がわたしのことを好いていないのはわかったから」
  「心が折れたかい?」
  「まさか」
  「…そのまま諦めてくれたらよかったのに」


 絶え間ない嫌味を聞き流し、必要以上に多くを語らなければ、彼はいつか口を破る。周りに無関心そうに見えて、実は自分の理想から外れるようなことがあれば真っ向から勝負を仕掛けるタイプ。それが野坂悠馬だ。
 予想は当たった。飄々と、しかし、確かに核心を突こうとするわたしの態度に嫌気がさしたのだろう。彼はまた小さなため息をこぼした。


  「……本当に君は食えないね」


 いいだろう。そんなに知りたいのなら、話すよ。
そう言って語られた彼の過去は、わたしの予想を上回るものだった。彼が抱えていた深い闇に思わず言葉を失う。


  「ねえ、なまえ。君はアレスの天秤を経験していない一般人だ。だけれど、どこか冷めたところがあるよね。君にも同じような過去があるのかい?」
  「………」
  「否定は肯定と見做すよ」


 ええ、そうよ。誰にも言ったことはないけれど、わたしにも暗い過去があるのよ。必死に隠して生きてきたけどね。
 そんなわたしの胸の内を明かすことはなかった。言ったところでなにかが変わるわけでもない。野坂くんを救えるわけでもない。ただ、どういった経緯でアレスの天秤が研究されていたかを知ったわたしは、少なからずその研究に理解を示した。
 僅かな表情の変化を悟ったのか、野坂くんは小さく頷く。


  「僕はね、僕らのような境遇の子供をもう生み出したくないんだ。理不尽に社会の枠からはじき出されるなんておかしい。こんな汚れた世界を、変えるんだ」
  「……そう」


 わたしのように自分の境遇を恨んでいるのかと思ってたのに、彼は違った。彼がやろうとしているのは復讐ではなかった。自分と同じ思いはさせまいと、未来の誰かの幸せのために自分を犠牲にして、自分の存在意義を持とうとしている。自分のすべてを未来にかけているんだ。なんと強く、優しく、それでいて儚いのだろう。
 ふいに野坂くんは目を瞑った。


  「………彼らなら、きっと…。」


 誰に言うわけでもない小さな呟き。瞼の裏でなにを思っているのだろう。彼らとは一体誰なのだろう。どうしてそんなに穏やかな顔ができるのだろう。そう思ってもこれ以上、わたしが彼に問うことはなかった。








 あの日からわたしの心境に僅かな変化が訪れた。
果たして野坂くんは本当に心を失ってしまったのだろうか。自分を偽っているだけで、本当は周りが思っているほど非情な人間ではないのかもしれないと思うようになったのだ。
 そして同時に、自分の犠牲を厭わない彼が心配でしょうがなかった。今まで他人のことなんてどうでもよかったのに、ほんとどうしてしまったのだろう。それはきっと、わたしと同じ境遇をした彼を、放っておけなくなってしまったからだ。


  「……何か用かい。最近、随分と見てくるね。鬱陶しいんだけど」
  「……」
  「君は相変わらずだね。なにを考えているのか読めないな」


 そう言って、いつも通り淡々とスマートフォンを弄りはじめた。

 ねえ、野坂くん。君は言葉にしないけれど、本当はとても淋しかったんじゃないの?本当は誰よりも愛されたかったんじゃないの?人の温もりが恋しくて誰かに必要とされたかったんじゃないの?それとも淋しいという感情すら、忘れてしまったの…?
 胸が苦しい。その痛みを吐き出すかのように、ふいに頬に一筋だけ温かいものが流れた。生気のない瞳がこちらを見つめる。


  「何故、君が泣くの」
  「知らない」
  「…本当に君はわからないね。きらいだよ、君のこと」
  「きらいでもいいよ。わたしは野坂くんのことすきだけど」
  「そういうこと、軽々しく言うものじゃないよ。それに、そういう好意はいらない」
  「そうじゃなくって、人間としてすきってことだよ」
  「……本当に君は理解できないな」


 うん、そうだよね。君にはこういう言葉が薄っぺらく聞こえるのかもしれない。だけどね、これは紛れもなく、わたしの本心なんだよ。君はね、わたしみたいな人間からもちゃんと愛されてるんだよ。
 もっと自分が苦しむことに抵抗してよ。当たり前のように自分を大切にしてよ。野坂くんがそんなんだから、君の分まで泣いているんだよ。
 伝えたいことが多すぎて、上手な伝え方がわからない。胸の痛みは増す一方だ。

 ふいに、わたしは野坂くんをそっと抱きしめた。彼は少し目を見開いて、しかし、わたしを拒否することはなかった。


  「……」
  「…君の疑問には答えたつもりだよ」
  「うん。充分すぎるほどわかった」
  「そう。アレスについても理解してもらえたようでよかったよ」
  「……ありがとう、野坂くん。話してくれて」


 とん、とん、と彼の背中を優しく叩いた。これで少しでも彼の背負うものが軽くなればいいのに。けれども現実はそう上手くいかない。問題はまだまだ山積みだ。
 彼が願う未来も素敵かもしれない。だけれども、わたしは彼ほど心が広くない。だから、どうしても身近な人の幸せを願ってしまう。『ささやかでもいいから、どうかいつの日か、彼にしあわせが訪れますように』。そう思わずにはいられないのだ。
 ねえいいでしょ、野坂くん。人の幸せを願うのも、アレスの目的なんだから。そしてどうか、君のせいで泣いているわたしの思いを汲み取ってよ。


  「……言わなくて、よかった」


 ぽつりと、野坂くんは呟いた。
あの日と同じように、誰に当てたものかもわからない。
その意味をわたしが訊ねることもない。
そうしてわたしは彼が隠しているもう一つの秘密を知ることもないのだ。

 ぽたり、腕に涙が落ちた。
それは果たして、わたしのものか、それとも。



剏Nの幸せを願いたいって泣きながら毎日想うのに
野坂悠馬(inzm ars)
180715 / title by 誰そ彼