おろかしい美学


「西蔭はどうしてそんなに謙虚なの?」


本当に突然だった。
ただ日時的な会話をして穏やかな空間がそこにあったはずなのに、息をするようになまえは俺に問いかける。あまりにも自然に言うものだからその意味を理解するまで少しの間固まった。どうしたの?下からそっと覗き込む茶色い瞳はビー玉のように透明で、とても無垢に見えるけれど、全てを見透かされたような不思議な圧力がそこにはあった。思わず目を背けながらぶっきらぼうに答える。


「…別に。普通だ」
「…ふーん。そう。声が少し下がったんだけどな」


西蔭の悪い癖。後ろめたいことがあるとそうなるよね。
クスッと笑った彼女にほんのわずかな苛立ちが募る。アンタは一体、俺の何を知っているんだ。少しだけ乱暴にロッカーを閉めて、フィールドに足を向ける。


「あれ、怒っちゃった?」
「別に。鬱陶しい」
「えー、それ野坂くんにも言える?」
「野坂さんはアンタと違って元から鬱陶しくないだろ」


むしろ鬱陶しく思われているのは俺の方ではないのだろうか。
必要とされないのに側にいようとする自分が女々しく感じて、小さく唇を噛む。
その小さな動作すら見逃さなかったなまえはそっと俺の口元に手を当てた。だめだよ、血が出ちゃう。本当に心配そうに呟くものだから、やりきれなくて俺はそっと顔を背ける。一体、自分はこの黒い気持ちをどこに吐き出せばいいんだ。
爪が食い込む程拳を強く握り、そっと解く。こうしていても仕方がない。とにかく今は、やるしかないのだ。頑張って頑張って、強くなって、必要とされる人間になって、それで。


「…何を恐れているのよ」


先ほどまでのからかいなど微塵も感じない声色が俺を貫く。恐れている?俺が?何に?たくさんの疑問が俺の歩みを止めた。胸が騒めく。なんだこれ。頭の中も感情もキャパオーバーして口に手を当てる。気持ち悪い。吐きそうだ。そんな自分を見兼ねて、彼女はそっと背中をさする。それだけで不思議と呼吸が落ち着いた。


「大丈夫?」
「…ああ。すまない。みっともなかった」
「そんなことないよ。ストレスが溜まっていたのかもしれないね。練習行けそう?」
「問題ない。少しでも練習しないとな」


俺の存在意義がなくならないように。
その言葉は飲み込んだ。弱音など吐いている場合ではないのだ。俺に出来ることなんて、これくらいしかないのだ。そう自分を奮い立たせる。捨てられることが何よりもこわい。…こわい?
自分でもみえていなかった感情が露わになって驚く。そうか。俺は捨てられたくなかったのか。あの人に。不思議と軽くなった気持ちに気付いて、思わず彼女を見つめた。この人が言ったことも強ち間違いではなかったということか。あんな一言で俺の気持ちをするりと引っ張り出すなんて、実はすごい奴なのかもしれない。


「…ありがとな」


ポンと頭に手を置いて、再び俺は歩き出す。
あの人に必要とされる人間に。後ろにいることが相応しい人間に。ならなければ俺がここにいる意味はないのだ。



「…そうじゃない。そうじゃないのよ、西蔭…」


根本的には何も変わっていないのよ…?
そんな彼女の寂しそうな声は最早届いていなかった。

「…必要としている人なら、ここにもいるのにな」