うつくしい心臓


なまえさんに出会ったのは、風花のときだった。
晴れ間にちらつく雪の結晶。その美しい情景の中に佇んでいた少女は、綺麗な黒髪を靡かせながらどこか憂いのある表情をしていた。アンニュイな雰囲気に目が離せなくてしばらくの間見つめていれば、こちらを向いた少女とパチリと目が合った。突然のことに驚き、柄にもなくどきまぎしたのは今でも忘れない。そんなかっこ悪い僕に、彼女は全てを包み込むようにふわりと笑ったのだ。まるで聖母マリアのようなその笑顔に、僕は一瞬で心を奪われた。


なまえさんはとても真面目だ。
付き合ってみて思ったのは、彼女はどんなときも冷静で合理的であるということだった。
だからこそ、常に俯瞰できる彼女の視点は時に人の核心を突いた。誰にも見えないそのナイフはとても鋭利で、気づけば無意識に人を傷つける。それ故に彼女は悩みやすいということも知った。きっとあの日も言葉にしたくてもできないもどかしさがあったのではないだろうか?いつからかふと、そう思うようになった。だから僕は君の本音が訊きたくて、等身大の自分でぶつかることにしたんだ。

時には喧嘩もした。噛み合わなくてダメだと思うこともあった。それでも彼女の隣にいられたのはきっと、彼女の真っ直ぐな強さがあったからだと思う。結局のところ、僕は彼女の支えになりたかったのだけれど、支えられていたのは僕の方だったのかもしれないね。そう呟けば彼女はめずらしくぽかんと口を開けて、「士郎くんがいてくれたからわたしはいつもわたしらしくいられたのよ?」と首をかしげるものだから、僕は幸せのあまりみっともなく泣いてしまった。君には本当に敵わないね。ひとりぼっちだった僕にたしかな存在意義を作ってくれて、ありがとう。
そうやって二人で乗り越えて気づけばいつのまにか大人の仲間入りを果たしていた。


なまえさんはとても美しい人だ。
窓からの柔らかな日差しが眩しくて目が覚めた。酸素がほしくてひとつあくびをする。隣を見ればそこに彼女の姿はなかった。いけない、起きなくちゃ。おぼろげな頭を切り替えるために洗面台で冷たい水に触れる。シャキッと冴えた頭は心地良くて、清々しい気持ちでリビングに向かった。
おはよう士郎くん。愛しい人がキッチンから顔を出す。たったそれだけのことなのにたまらなく嬉しい。あの頃と変わらない柔らかな微笑みに安心しながら、僕もおはようとふにゃりと笑った。
もうすぐごはんだよ。そういう彼女の声と共に、コーヒーの香りが鼻を擽った。今日の朝ごはんはなあに?そんな他愛ない会話をしながら彼女のとなりに立つ。新婚さんみたいなこのやり取りが幸せで、でもちょっとだけ照れくさくて。なまえさんもおんなじなのかな。はにかんだ笑顔が嬉しくて、おでこにそっとキスをした。

朝ごはんのあとにフローリングにくっついて座りながらテレビを観る。休日らしいのんびりとした時間。同棲してからの僕のお気に入りの時間のひとつだった。
僕の肩に頭を預ける彼女は時折うつらうつらとしている。リラックスしてくれているんだね。おやすみなのに朝から美味しいごはんをありがとう。
昔より少しだけ伸びた黒髪は、今日も艶やかに輝いている。さらさらなこの髪が僕はだいすきなんだ。そんな思いを込めて、掬い取ったひと束にキスを落とした。何回もしてるのにまだ慣れないのかな。はずかしそうに顔を隠すなまえさんが可愛くて、思わず笑みが溢れる。そうして改めて彼女への思いを確認した僕はポケットの中の小さな箱に触れながら意を決して言葉を紡いだんだ。

ねえなまえさん。
同じ名字になりませんか?

さっきまでの眠たそうな子はどこへやら。見上げた彼女の顔は今まであまり見たことがないくらい驚きに満ちたもので、ああ、まだまだ知らない彼女がいるんだなと思う。
ポケットから取り出した小さな箱を開けば、中央でダイヤモンドが光に触れてキラキラと輝いた。
ぽろぽろと涙を流しながら何回も頷く彼女をそっと抱きしめる。そういえば、こんなに嬉しそうに泣く彼女も初めて見たなあ。これからもっともっと、いろんな彼女を見つけられるのが僕だと思うととてつもなく嬉しかった。

ねえなまえさん。結婚式はどこでしようか?
やっぱり地元の北海道かな?きみの純白のドレス姿が楽しみだ。きっと真っ白な雪原に負けないくらい美しいんだろう。
今度はあの風花の日とは違って、僕の隣で笑っていてね。