午後の檸檬


彼、松川一静先輩と付き合い始めて二ヶ月が経った。
交際を始めてそれなりに経つというのに、ナマエは夢の中にいるような心地の中から、一向に抜け出せずにいた。


昼休み。
図書室で何気なくいろんな本を見て回っている時に、ナマエはあるコーナーで目を止めた。
コーナーの中央の棚、その丁度目線の高さに収められている青い本の背に目を奪われてから、ナマエはそれをゆっくりと抜き出した。
本のタイトルを脳内で読み上げてみても、専門用語なのかなんなのか良く分からないう上に、読みもこれであっているのか分からない。
しかし、その下にある作者の名前『松川一生』という文字には引かれずにはいられなかった。
マツカワイッセイ、マツカワカズオ、どちらなのか、はたまたどちらでも無いのか。
好きな人と一文字違いの名前にゆっくりと指を滑らせ、試しに中身を確認してはみたが、案の定意味は分からなかった。

「そんな難しそうな本読むの?」

不意に頭上から落ちてきた声に、ナマエは思わず肩をビクつかせて振り返る。
松川一静という男は、平均的な高校生どころか平均男性よりもずっと背が高く、そのせいで存在感というものは人一倍あった。
そのはずなのに、背後に立つ彼の存在に気付けなかった自分自身に呆然とする。
そしてナマエが驚いている様を見て満足そうな笑みを浮かべる松川は、どうやら故意に気配を消して近づいてきたらしい。
そんな憧れの存在である松川先輩は、ナマエの持っている本を丁寧に奪い取り、中身をパラパラと流し読みしはじめる。

「へぇ…こういうの好きなの?」
「……いえ、全然」

正直に白状すると、松川は「え?」と変な顔をした。

「何となく手にとってみただけです」
「そうなの?」
「タイトル見ても全然意味が分からないです」
「うん。俺も目次見てみたけど全然分からない」

本当に何となく手に取っただけなのか、と納得したらしい松川は、そこでその本を閉じて棚に戻す。
この時、ナマエは「まずい!」と内心で動揺したが、棚に仕舞われてしまった本の背表紙に書かれた、本のタイトルと作者の名前は松川にばっちりと見られてしまった。
背表紙の下の方、自身と一文字違いの作者の名前を見つけて、松川はしばらく静止した後、クスクスと笑い出した。

「本当になんとなく手にとってみただけ?」
「…そうです」
「そっか」

松川は、ナマエの嘘になんて気付いている。
それでいて、存外に意地悪なことをしてくる人であると知ったのは、ごく最近の話だ。

「俺、素直な苗字さんの方が好きだな」

そう優しく言いながら、松川は本棚の手前で手を彷徨わせ、ある本を一冊抜き出した。
本のタイトルはちゃんと確認できなかったが、表紙に描かれた檸檬が印象的な一冊だった。
彼の口から「好き」という言葉が溢れはじめたのは、付き合い始めて一ヶ月経った頃だったように思う。

はじめは、完全なるナマエの片思いだった。
勝手に憧れ、勝手に好きになってしまったナマエが思い切って松川に告白した時は、彼も流石に驚いていたし、挙げ句の果てには申し訳無さそうに「ごめん、名前聞いてもいい?」と言われてしまった。
ナマエと松川の接触は初対面に限りなく近く、一方的に天秤の片側に乗せられた松川は、天秤を振り切る想いを抱えたナマエの登場に辟易としていた。
しかし、彼のなんの気まぐれか、ナマエと交際を承諾してくれた。
あの時は告白をしておきながら、まさかOKが貰えるとは思っていなかったナマエも相当に動揺し、逆に松川に「えっ、付き合わない方がいい?」と心配されてしまったっけ。
告白して意識してもらえたら万々歳であったくらいのナマエではあったが、憧れの彼が恋人になってくれるという奇跡を手に入れて、それはそれは浮かれたものだ。
そしてその浮き足立つ想いは、未だに健在である。

それから、休み時間に話をしに行ってみたり、昼休みにお昼ご飯を一緒に食べたり、たまの休みにデートに行ったり、恋人らしい事を少しずつ積み重ねていった。
そのうち、松川が「苗字さんのそういうところが好きだよ」とぽろりと言うようになった。
ナマエのただの自惚れなのかもしれない。
しかし、松川が日に日に、ナマエに好意を向けてくれているような気がするのだ。
苦く酸っぱい檸檬でさえ、ゆるやかな時間をかけて甘みを増していくような感覚。
砂糖すら注がれていないというのに、漏れだす甘味が二人の周りを包んでいると錯覚してしまうほどの、穏やかな空気感に目眩がしそうだ。

「素直になったら、私の事好きになって貰えますか?」

決定的な、彼の言葉が欲しい。
まるで目の前にエサをちらつかされた犬のように、焦らされているような心境が日ごとにナマエを襲う。
初めて告白した時に比べると、彼は随分ナマエの前で楽しそうに笑ってくれるようになった。
頭を撫でてくれたり、手を繋いでくれたりとスキンシップも増えて、ナマエはそれが嬉しくて、もっと彼の事が好きになった。
だからそろそろ、トドメの言葉が欲しい。
だんだんと甘やかになる彼の気持ちの変化を、教えて欲しい。

「どうかな」
「…えっ」

あえて意地悪な事を言いながら、松川は先程取り出した本をパタリと閉じて、それをナマエの方に差し出す。
お預けをされて呆然としているナマエに気付いていて、それに知らぬふりをする松川は、少しだけ楽しそうだった。
私の事好きなんでしょ?なんて思ってはいても口に出す勇気のないナマエは、差し出された本を手に取った。
本のタイトルは『午後の檸檬』
表紙に描かれた、ころんとした檸檬のイラストが可愛らしい。
中もパラパラと読んでみようか、とページをめくろうとして、ナマエは作者の名前に目を止めた。
『苗字一静』
それに目を見張ると同時に、何故松川がその本を手に取り、ナマエに見せて来たのか分かった。
先程のナマエ同様、思わぬ見つけた偶然を、ナマエと共有したかったのだ。

「…松川先輩がうちの養子になったら、名前一緒になりますね」
「そうだね。でも俺はお嫁さんに来てほしいな」

ゴトリ、ともの凄い音を立ててナマエの中の何かが落ちた。
惚れ直すともいうのだろうが、二度目の恋に落とされた感覚に襲われ、ナマエは咄嗟に言葉も出ない。
思わず力を入れて握った本には帯がついており、煽り文句に『何度も恋に落ちる魔法』などとくさい文言が書かれている。

「実はその本、先週くらいに見つけて読んだんだよ。すっごくべたべたなラブロマンスだった」

でも、苗字さんとの話のタネにもなると思ったし、本の中に出てくる女の子と似てると思ったんだ。
そう続けた松川は、先程ナマエが手に取った本の背表紙を再びなぞる。
ただ単に名前がお互いのものと似ているという理由で本に興味を示したというのは、ナマエも松川も一緒らしい。
二人して同じ事を考えていた。
そこから導きだされる答えはやはり、二人共同じ気持ちを抱えているという事に他ならないのではないかと、ナマエは嬉しいはずなのに嘆いてしまいたくなった。

「相手をときめかせるには、駆け引きが大事だってその本に書いてあったんだよ」
「…駆け引きなんて、必要ですか?」

そんなことをしなくたって、松川はナマエの心を根こそぎ奪っていってしまうというのに。
これ以上、私の中から何を奪うというのだろう。
呆然とするナマエを他所に、ハート泥棒こと松川一静は、「必要だよ」と言いながら穏やかに笑う。

「俺も…その本の男みたいに、苗字さんを落としたいんだ」

少し恥ずかしそうにそう言ってみせた松川の発言は、本当に今更だ。

「…もう落ちてます、先輩」

二つの檸檬がころりと転がる、昼下がり。


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