恋するこども
早く大人になりたいと、あの人に会ってからずっと思っていた。
大学に進学してから数ヶ月。
ナマエの借りているアパートの隣には、岩泉さんという男の人が住んでいる。
駅前の会社に勤めており、朝早くに出勤していき、比較的遅い時間に帰宅する。
そんな彼が帰宅する時間と、バイト上がりの私の帰宅時間が被ることが多く、お互いに顔を合わせる事が多かった。
最初はただ会釈をするだけの相手であった彼と話すようになったきっかけは、ほんのささいな事だった。
休日、ベランダで洗濯物を干している最中、ナマエはふと先日見た怪獣映画の事を思い出した。
誕生何十周年記念か何かで放送された、あまりにも有名な黒い怪獣の映画のテーマ曲が頭に浮かび、何の気無しにその曲を口ずさみながら洗濯物をひっかけた。
ふふふん、ふふふん、と有名なフレーズを鼻歌で歌っていると、不意にベランダの壁越しから、人が吹き出すような声が聞こえた。
「ブフッ」という明らかな人の気配に、ナマエは隣の部屋に済むサラリーマンに鼻歌を聞かれたのだと察した。
大して顔を合わせた事も無かったが、他人に今の鼻歌を聞かれたのだと理解した瞬間の、あの羞恥心は今でも忘れられない。
そして幸か不幸か、その日買い出しのために部屋を出た際、タイミング悪く彼と出くわしたのだ。
岩泉の顔を見た瞬間、ナマエの脳裏にはつい先程自身の鼻歌が聴かれてしまったことが過る。
瞬間、動揺のあまり思わず「あっ…」と言葉を漏らしてしまった。
岩泉がその声を聞き逃すはずもなく、固まってしまったナマエに顔を向けた後、ベランダで聞いた時と同じようにブフッと吹き出した。
目つきが鋭く、なんだか無愛想そうな人だなと思っていたが、存外優しく笑うものだとこの時思った。
「この前テレビでやってたよな、ゴジラ」
そうして、羞恥で固まってしまったナマエのフォローに入ってくれた。
これが、ナマエと岩泉一の最初の出会いというものである。
人間、それなりに話すと慣れるもので、性別も年もそれなりに差はあれど、二人が仲良くなるのにそんなに時間はかからなかった。
バイト帰りに岩泉さんと鉢合わせる事もそれなりに多く、二人して部屋の前で立ち話もするようになった。
そうしてお互いに相手の事を知っていき、その中で岩泉があまり自炊ができずに、できあいのものばかり食べているという事を知った。
それからナマエは、隣の家の岩泉に夕飯のお裾分けという名前の差し入れをするようになった。
今思えば、この頃からすでに岩泉一という男に惹かれていた。
岩泉も始めは遠慮し申し訳無さそうにしていたが、そのうち岩泉の家で夕飯を一緒にとるようになると、吹っ切れたのかナマエをいつも歓迎してくれるようになった。
そんな日常を繰り返し、ついにナマエが岩泉への恋に気付いた時には、岩泉も自分の事が好きなのではないかと思うくらいには打ち解けていた。
そうして今日も、もはや習慣となって二人での夕食。
そして今日は、流星群が見られるかもしれないとニュースで言っていたので、深夜近い時間に二人してベランダに出ていた。
寒空の下、毛布を被りながら空を見上げてはいるものの、流星群は未だに見られない。
しかし当のナマエといえば、流星群よりも隣の男に夢中である。
岩泉さんは、私が好意を持っている事に気付いている。
それでも尚、こうして一緒にいてくれるということは、やはり期待をしてもいいということなのだろうか。
どうやってこの朴念仁をを揺さぶってやろうか。
今日もそんな事を考えながら、ナマエは岩泉の左腕に身を寄せる。
そうしてある一線を踏み越えるべく、ナマエが行動してみるようになったのは最近の事である。
「…お前さ、分かってやってるだろ」
岩泉の口からボソリと落とされた声は、どこか呆れを含んでいた。
「岩泉さんも、分かってるんじゃないですか」
お互いに何を思っているのかなんて、なんとなく分かっている。
ただ私の方は岩泉さんに大して開き直ってしまっているが、岩泉さんはいまいち踏ん切がつかない場所にいるのだ。
きっと高校を卒業したての女子大生に手を出すのはどうなのだろうとか、そんな事で悩んでいるのだろう。
しかし、悩んでいるということは、彼も少なからず私に好意を持ってくれているということなのだ。
だからこそ、もうひと押し、何かきっかっけが必要なのだ。
そう思ったら、自然と体が動いた。
隣に立つ岩泉の方に身を寄せていただけの体勢から、岩泉に横から抱きついた。
男の人、しかも年上の異性に抱きつくなんてナマエにとっては人生初めてのことだ。
しかし、衝動的にこんなことをしてしまう程に、ナマエと岩泉の関係は焦れったいのだ。
このまま抱きしめて欲しい。
そんな甘たるい期待を込めたナマエの行動はしかし、岩泉の口から思わぬ事を吐き出させた。
「お前もう、うちに来るな」
「…えっ」
ベランダに肘をついて正面を向いたまま、岩泉の視線だけがナマエに向かう。
今彼はなんと言ったのか、ナマエは受け止めきれずに言葉を失う。
一切揺るがぬ、真直ぐな彼の視線が好きだ。
しかし、今自分が向けられているのは酷く凍えるような、冷たいまなざしである。
岩泉の体に勇気を出して巻き付けた腕の力が、自然と抜けた。
二人の周りから甘さという雰囲気が消し飛び、寒い冬風が二人の間を抜けて行く。
「ずっと前から、言おうとは思ってたんだ」
「…なんで」
「なんでもだ」
「…理由になってないです」
「理由言ったら、お前多分泣くぞ」
岩泉の言葉に、ナマエはびくりと怖じ気ずく。
理由を言ったらナマエが泣いてしまうということは、きっとナマエが聞いたら辛くなるようなことなのだ。
それをあえて伏せて、ナマエを傷つけまいとしようとしている辺りに岩泉の優しさを感じたが、随分と酷い優しさだと思う。
「嫌です…そんなの、絶対に嫌です!」
「なぁ、頼むから言うこと聞いてくれよ」
まるで子供を諭すような声色に、ナマエは駄々をこねかけてハッとする。
やっぱり岩泉にとって、自分は子供でしかないのか。
こんな時に大人の女の人は、何と言って男の人の気を引くのだろう。
交際経験もろくに無い、高校を卒業したてでお酒も飲めない、そんな自分がどうやってこの人の気を変えさせたらいい。
その手段を考えても、結局思いつく事全てが子供っぽく思えてしまう。
だってしょうがないじゃないか、私はまだ大人というものを知らない、ただの背伸びしている子供なのだ。
「ごめんな」
「…やだ」
「…ごめん」
「やだよ!」
我慢できずに涙腺が決壊し、ボロボロと頬に温かい水分が伝う。
ドラマで見るような、大人の女の人はもっと綺麗に、そして静かに涙を流していた。
何も言わずに別れた男に背を向けて、涙を見せずに颯爽と去って行くドラマの中の彼女は、とても凛としていて、そして格好良かった。
なのに、今の自分はなんて様なのだろう。
泣き方なんて子供のそれだ。
擬音をつけるならまさに「エグエグ」
そしてこうも駄々をこねてしまう始末である。
「…俺、実はもうすぐこの部屋を出るんだ」
「悪い。…迷惑なんだ」
岩泉にやんわりと拒絶されていること、自分の情けないことをも痛感して傷ついている時に、まさにトドメの一撃だった。
もしかしたら仕事の都合なのかもしれない、それとも私生活の事でやむなくなのかもしれない。
彼がこの部屋を出て行く理由は定かではないが、しかし。
このタイミングでのこの告白は、どこからどう見ても、目的は"ナマエへの拒絶"だった。
ナマエの脳裏には、走馬灯のように岩泉との思い出が駆け巡る。
初めて話した時の事、一緒にスーパーに行った時の事、食事を作るのを面倒臭がっている彼の家に押し掛けて夕飯を作りに行った時の事、一緒に夕飯を食べるようになった事、日曜日にドライブに連れて行って貰った事、二人でゴジラシリーズの映画を制覇した事。
一緒に過ごした期間は、決して長いとは言えなかった。
しかし、岩泉一という人と過ごした日々は、ナマエにとってはとてもかけがえのないものだった。
結局それは全て、岩泉にとっては迷惑なものでしか無かったのだけれど。
「…わかり、ました」
「………」
「…迷惑をかけて…ごめんなさい…」
ここまでされてしまっては、子供のナマエでさえ諦めざるを得なかった。
結局、浮かれていたのも、夢を見ていたのも自分だけだったけれど、最後の最後くらい格好つけるのだ。
後になって岩泉に「あの時逃した獲物は大きかった」と後悔させてやる。
そんな虚勢を張らなければ、今のナマエはとても立っていられない。
「今まで…ありがとうございました…」
「…あぁ、こちらこそ。ありがとな」
ありがとうと言うくせに、岩泉はこちらを見る事は無かった。
ベランダに両肘をついたまま、夜空に浮かぶ大きな月を眺めている岩泉の姿を目にしっかりと焼き付けて、ナマエはゆっくりとベランダから離れて部屋に戻る。
そして見慣れた部屋を通り過ぎ、廊下に出て玄関に立った時、ナマエは未練がましく振り返った。
もしかしたら、岩泉さんが追いかけて来てくれるかもしれない。
そんな期待を胸に、10秒程その場で待ってみたが、岩泉さんは姿を現さなかった。
結局、それが答えなのだ。
「……うぅ」
ついに嗚咽が抑えられなくなり、ナマエは慌てて岩泉の家のドアを開けて外に出た。
このままでは情けなく泣きわめいてしまう。
そう予感して急いでポケットの中に手を入れるが、そこに入れていたはずの自宅の鍵が無い事に気付いた。
ここに来るまでにはあったはずなのに!と思考を巡らせ、そういえば自分の部屋を出た後に自転車置き場に寄った事を思い出した。
自転車の鍵を差しっぱなしにしていて、それを取りに行ったあの時くらいしか、自宅の鍵を落とすような機会はない。
グスグスと鼻をすすり、ナマエはなんとか嗚咽を堪えながら家の扉の前から離れ、廊下の先にある階段を目指す。
はやく家に帰って、毛布でも被ってひとしきり泣きたいところなのに、この寒い中自転車置き場まで行かなければならないというのは非常に辛いものだあった。
悪い事は重なるとは言うが、何もこんなにも酷い仕打ちはあんまりじゃないか、神様。
そんなことを思いながら1階の自転車置き場まで降りて、ナマエは自分の自転車の足下にしゃがみ込む。
この辺りに自宅の鍵が落ちていなかったらどうしようか…というい不安は隠せなかったが、丁度自転車の前輪辺りに目的の鍵をみつけた。
ホッとしてそれを手に取った瞬間、ナマエの表情はこの夜の寒さのように凍り付く。
ナマエの借りている部屋の銀色の鍵は、見慣れた黒い恐竜のキーホルダーにくっついている。
飲み会の帰りに「お前に土産だ」と言って酔っぱらった岩泉が、はじめてナマエにプレゼントしてくれたものだった。
どこかの飲料メーカーとのコラボで、ペットボトルのおまけにくっついていたゴジラのキーホルダーではあったが、ナマエにとってはとても大切なものだった。
だからこそ家の鍵にそれをぶら下げていたのに、こうしてそれを手に取ると未練がましくも彼の事を思い出してしまう自分が悲しかった。
寒い。今夜はなんて冷え込むのだろう。
白く色づく息を視界の端に捕えながら、ナマエはゆっくりとその場から立ち上がろうとした。
しかしその拍子に、体が隣の自転車にぶつかってしまい、数台の自転車がドミノのようにバタバタと倒れて行く。
その様子をぼんやりと眺めながら、ナマエはいよいよ嗚咽を抑えられなくなった。
ひぐひぐと泣きながら倒れた自転車を見下ろして、ゆっくりと倒れたそれたを立てて元に戻して行く。
一体自分は何をやっているのだろう。
そう思わずにはいられない程の不運の連鎖にいっそ笑ってしまいたいと思ったが、胸の内の悲しみはそんなものでは拭えなかった。
今まで岩泉さんにかけた迷惑が、今日という日に全てナマエの身に戻って来ているかのようだ。
そうして自転車を全て片付け終え、ナマエは再び手の中にある自宅の鍵に視線を落とす。
鍵のついている安っぽいゴジラのキーホルダーを見ていたら、次から次へと岩泉さんとの記憶を思い出しそうで、いっそ捨ててしまおうと鍵からそれを外す。
そして取り外したそれを近場の川に投げ捨てようとして、結局それはできずに終わる。
捨てられるはずなどない。
忘れられるはずもない。
自分と岩泉さんのあの思い出の日々は、決して嘘ではなかった。
どうしようもない。
そう思い知って、ナマエはその場にしゃがみ込んだ。
寒さで指も足先もかじかんで、もはや感覚もない。
こうやって誰もいないところで泣くのは格好いいと思っていたが、本人はそれどころではない。
悲しくてわんわんと泣きわめいてしまいたい。
大人になりきれない私は、これだから駄目だったのだ。
「何やってんだお前…!」
そして数分経った頃、座り込んでいるナマエの肩を叩いたのは、岩泉だった。
酷く慌てた様子でナマエを振り向かせ、そのぐちゃぐちゃな泣き顔と体の冷たさに、岩泉は一瞬言葉を失った。
しかしすぐに切り替えるが早いが、岩泉は羽織っていたジャケットを脱いでナマエの肩にかぶせた。
「いくらなんでも、こんなところにずっといたら死ぬぞ!」
「…だって」
「だってじゃねぇ!」
泣いているナマエの事なんてそっちのけで説教を始める岩泉に、ナマエはもはや何も答えられなかった。
感情のままにわんわん泣き、耳を塞いで岩泉の声を遮る。
近所に住む人が窓越しにこちらを伺っている様子も視界の端で見えたが、そんなことに気を回せる余裕もない。
「…なぁ、やめてくれよ…」
耳を塞いではいるが、完璧に音という音は防ぎきれない。
そのせいで岩泉の力ない言葉も、自身の鳴き声の合間で拾ってしまう。
「…なぁ、もっと自分を大事にしろよ…」
そんなナマエを見かねたのか、岩泉は不意に、ナマエを包み込むようにふわりと抱きしめた。
急に温かくなった事に驚きはしたものの、ナマエの嗚咽はすぐには止まらない。
それでも、耳元で言葉を連ねる岩泉の声だけは、異様に耳が拾っていた。
岩泉はただひたすらに、ナマエに言い聞かせるように語りだした。
「…お前は俺みたいなのより、同じくらいの歳のやつとか、もっと大事にしてくれる奴と一緒にいた方がいい」
「その方がお前も…きっと幸せだろ…」
「俺、ぶっちゃけあんまり女経験ねぇんだ。学生時代に彼女がいたこともねぇ。就職して付き合ったりはしたけど、俺が原因で全部上手くいかなかった」
「正直何が駄目だったのか分からない。なのにお前と付き合って…お前におんなじような思いさせたくねぇんだ…」
そう言った後、岩泉は一度「いや、」と自身の発言を否定した。
「…お前に…俺が駄目な奴だって思われたくなかったんだ…」
自分の事を純粋に好いてくれる、隣の部屋に住む年下の女の子に惹かれていた。
甲斐甲斐しく家に遊びに来ては、自宅で一生懸命練習してきたであろう手料理を振る舞う彼女が、とても可愛いかった。
一緒にドライブに行こうと誘った時は、年甲斐も無く緊張した。
自分の交際経験の無さ故の不慣れなことをしたとは思ったが、上手くいったことが純粋に嬉しかった。
遅れて来た青春とでも言うのだろうか、彼女の存在は自身の心に甘酸っぱい味を教え込ませた。
一緒にシリーズものの映画をレンタルビデオ屋に借りに行って、夜更かしして鑑賞会をした時、彼女の寝顔を見て自分のものにしたいと思った。
こんなにも異性を欲しいと思ったのははじめてかもしれない。
けれど自分は、女の人と付き合ってみてもどうも上手く行かない。
その原因もわからぬままに彼女に手を出して、もし振られてしまったらどうしよう。
過去に付き合っていた彼女に振られた時でさえ、少なからずショックだったというのに、自身が心奪われた女に捨てられてしまったら、一体どうなってしまうのか。
それが、ただただ恐ろしかった。
だからこそ、彼女を遠ざけたかった。
手に入れたいのに、手に入れる度胸もない。
ならばいっそ、彼女との距離を置いてしまえと、そんな衝動で彼女をつきはなした。
それなのに。
今日彼女が部屋を出て行った後、部屋に戻って静寂に包まれた自分の部屋の真ん中で呆然としてしまったのだ。
彼女がいつも座っている座布団が使われることも、せっせと料理を作っている後ろ姿を眺めることも、一緒になってテレビを見る事も、そしてなによりこの空間で彼女が笑う姿を二度と見られないだと思った瞬間、強烈な虚無感に襲われた。
「ガキは俺だ……。良い歳して、自分の見栄のためにお前を泣かせた」
まるで懺悔のようだった。
今度は今にも泣き出してしまいそうな岩泉とは反対に、ナマエはじわじわと落ち着きを取り戻していく。
先程まで悲しくて声をあげて泣いていたというのに、この切り替えの早さと現金さは、まさに子供のそれだ。
「…岩泉さんは、私の事が嫌いじゃないんですか?」
「……あぁ」
「…そうですか…」
嬉しい…と安堵しているナマエを見て、岩泉の眉がぐっと下がる。
「何で笑ってんだよ…」
「…岩泉さんの迷惑になってないんだったらいいです」
私にもまだチャンスはありますよね…?なんて図太い発言を続けると、岩泉さんが更にぎゅうと力強くナマエを抱きしめた。
「違うんだ…迷惑なんかじゃねぇ…、お前と一緒にいた時間は、俺にとってかけがえのないものだった」
「…私も、岩泉さんと一緒にいる時はすごく大事な時間でした」
両思いですね、なんてナマエが泣きながら笑うと、岩泉さんはついに白旗を上げた。
降参だ、と言わんばかりに、ナマエの呟きに頷いてみせる。
「…好きだ、ナマエ。お前が…どうしようもなく…好きなんだ…」
とても大きな体をしているこの人は、まるで懇願するようにそう囁く。
恋というものは、人を子供に返すものらしい。
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