Beauty and the Beast


私が一体何をしたというのだろう。


息をぜぇぜぇと荒げながら森の中を走り抜けるも、背後から追ってくる足音の気配は無くならない。
何も悪いことをしなければ、自分が何かの被害にあわずに過ごせるなどという保証は無いが、ナマエはそう思わずにはいられなかった。
故郷の村とは全く違う景色に、自分が一体どこにいるのかも検討がつかない。
とにかく、昨晩急に羽交い絞めにされ、無理矢理乗せられた荷馬車に揺られるままにここまで運ばれてきたのは確かだ。

このままどこへ連れていかれるのかは分からないが、いいところではないというのは確実である。
とにかく、自分をここへ連れてきた男達から逃げなければ。
その一心で視界の悪い森の中、木々を縫うように走るが、体力は限界に近い。

心なしか、背後に迫る気配もなんだか近づいている気がして、ナマエは涙目になる。
嫌だ、嫌だ…と自身の動かなくなる足に言い聞かせても、限界を迎えそうな筋肉は言うことを聞いてくれない。
しかし、そんな時、ひとつの希望がナマエの視界に写った。

遠目にではあるものの、先の方でゆっくりと動く光が見える。
こんな夜更けにこんなところに誰かがいるというのも怪しいが、もっと怪しい人間たちに追われているナマエは、藁にも縋る思いで咄嗟に叫ぶ。

「助けて!」

遠くに見える明りに向かって声をかけると、暗い森の中ぽつりと輝く光はぴたりと止まった。
目をこらしてみると、その明かりを持っているだろう人影はこちらを見て動きを止めたようだ。
見るからに体が大きい男の人のようで、ナマエは安堵でハアッと息を漏らす。

あそこまで走れば、なんとか助けて貰えるかもしれない。
垣間見えた光に、無造作に生える草木に足がすれるのも気にせずに足を動かす。
そうしてやっと、遠目に見えていた明かりが間近に迫った時、ナマエはひとつの違和感に気づいた。
明かりを持って立っているのは、大きな体の男だと思っていたのだが、よくよく見てみれば、人にしては随分と大柄だ。
それに、なんだか体も人間のシルエットとは遠く、肌の色は黒く、なんだが毛深いように見える。
あれ…?なんて疑問を抱いた時、ナマエはここで追っ手の足音が聞こえないことに気がついた。

しかし、限界を迎えた足は、突如として立つ力さえ失い、ナマエは転がるように地面に伏せる。
もう1歩も歩けないというこの状況、ナマエは想像もしていなかった第三の存在を予感し、恐る恐る顔だけ上げる。
明かりを持った大きな存在は、パキリパキリと地面に落ちた枝を踏みしめてこちらにやって来る。
まるで人が歩くかのようにこちらに近づいてくるその異様な存在に、ナマエはゴクリと息を飲んだ。

そしてその存在が持つ光に照らされて現れたその異形は、全身真っ黒の、毛むくじゃらの獣だった。

ああ、私はここで食われて死んでしまうのか。
これまでの短い人生の思い出が走馬灯のように駆け巡る中、ナマエはそのまま力尽き、意識を手放した。





目を覚ますと、最初に視界に入ったのは、見慣れぬ石造りの天井だった。
体の右側から差し込む温かな日差しを感じながら「あぁ、朝なのか…」と寝返りをうち、再び目を閉じる。
しかし数秒後、その状況の『異常』さに気づき、ナマエはむくりとベッドから起き上がった。

おかしい、自分は昨日人に追われて、そして最後は得体の知れない獣に襲われたはずだ。
そのはずなのに、何故私は生きているのだろう。


「気がついたか」

ふいに投げかけられた声に、ナマエは咄嗟に顔を上げる。
声のした方に居たのは、窓際の椅子に腰掛け、大きな体を丸めて本を読んでいる、昨晩遭遇した獣だった。
思わずベッドから跳ね起き後ずさると、黒い毛並みの大きな獣はのそりと立ち上がった。

「落ち着け、食いやしねーよ。…まぁ、この見てくれじゃ説得力ねぇけど」

ふう、と息をついてこちらを向いた獣は、机の上に置いていた水入れからコップに水を注ぎ、「飲め」と言ってナマエの方に持って来た。
びくびくと怯えているナマエに気づいていながらも、大きな黒い獣は容赦なく近寄っり、ナマエの手に無理矢理コップを持たせた。
一瞬襲われるのではないかと震え上がったナマエだったが、黒い獣は本当にコップを渡しただけで、そのまま再び窓際に戻っていき、椅子に腰掛ける。
なんだか拍子抜けした感じはあったが、とりあえず補食されずに済んだという安堵で脱力したナマエは、恐る恐る口を開く。

「な…何で…食べないんですか…?」
「…何で、って言われてもな。俺は人を食わねぇよ」

そんなことはいいから、さっさとその水を飲め。
何となく目を鋭くしてそう言われてしまい、ナマエはハッとして手の中にあるコップに視線を落とす。

「あ、ありがとうございます…」
「おう」

机をコツコツと叩くその獣の所作は、まるで人間のそれである。
そんな獣に呆気にとられながらも、ナマエ喉の乾きを覚えて水を口に含み、冷たいそれを流し込む。
冷たい水は程よく喉を潤し、プハッと息を吐きだしてから落ち着きを取り戻したナマエは、改めて椅子に腰掛ける獣に視線を向ける。
狼のようにもイノシシのようにも、クマにも見えるその風貌の獣を、ナマエはこれまでに見た事がない。
それに二足で歩き、人の言葉を話すなど、聞いたこともない。

「あの…貴方は何故、人の言葉を喋ることができるんですか?」
「…まぁ、当然の質問だな」

腕を組み、どっしりと椅子に座る獣は「先に説明した方がはえーな」とぼそりと呟く。
何から話そうかと数秒程思案した後、まとまったのか顔をこちらに向ける。

「俺が言葉を喋る事ができるのは、元人間だからだよ」

獣の率直な答えに、ナマエは目を見開く。

「なんで…今そんな姿に…?」
「ちょっと理由があってな…、3年前にこの姿になって、ずっとこのままだ」
「…理由って…?」
「まぁ、その辺は複雑なんだ。会ったばかりのアンタに話す事じゃない」

言外に、触れてくれるなと言う獣の言葉に、ナマエは口を噤む。
しかし、一体どんなことをしたら人間から獣へと姿が変わってしまうというのだろう。
とても普通とは思えない事態に、ナマエの疑問は尽きない。

「人間の姿に戻れるんですか?」
「…さぁな」

元の姿に戻れる方法を、ここでずっと探しているんだ。
そう言って目を伏せた獣の横顔に、ナマエは息を詰まらせる。
ずっと元に戻る術を探している、ということは、未だにその方法が見つかっていないということだ。
それは彼を見れば明らかなことで、気持ち沈んだ獣の様子に、ナマエは内心で自身の興味本位な発言を後悔する。

きっと、触れて欲しく無いことに触れてしまった。
そう理解し、慌ててナマエがはくはくと口を動かすと、獣はそんな様子の彼女に気づいて、さり気なく話題を変えた。

「まぁ、俺のことはいい。それより、お前に聞きたいことがある」
「…なんでしょう」

空になったコップを無意味にぎゅっぎゅと握りながら、ナマエは獣の様子をそっと伺う。

「近頃、この辺りを妙な連中がうろついてんだよ。しかも、どうにも怪しい匂いがする」

チラリと窓の外に視線を向けてから、獣は再びナマエに顔を向ける。
妙な連中がうろついている、という言葉に心当たりがあり、目をやや見開いたナマエに、獣は「やっぱりな…」と呟いた。

「奴らが何やってんのか調べてぇところではあるんだが、何分俺はこんな姿でな。…この屋敷のある山一体くらいしか、自由に出歩けない」

だからこそ、外からやって来た人間の情報が欲しい。
そう言って腕を組んだ獣は、やや首を傾けてナマエに問う。

「で、お前は昨日、なんで追われてたんだ?」
「…昨日、いや、一昨日かもしれません。変な人達に無理矢理荷馬車に乗せられて、連れて来られたんです。それで、気がつけばここに…」
「……そうか」

そりゃ危ないところだったな、と言った獣の声色は、どこか気遣わしげであった。
どこかぶっきらぼうで粗暴な口調ではあるが、この獣…いやこの人は、元来優しい心根の人間なのだろう。

「じゃああいつらは、お前を誘拐してきた奴らの可能性が高いな…」
「…恐らく」

何故自分が連れてこられのかははっきりとは分からないが、きっと彼らにとってはそんなことはどうでもいい。
金になるのなら、なんでも良かったのだろう。
冷静になった今では、ナマエもその怪しい連中の考えていることの大体の見当がつく。

「…お前以外に、連れて来られた奴は?」
「いえ、私一人です」
「…道中、何もされなかったか?」
「はい」

少しだけ気まずそうに尋ねてくる獣に、ナマエはすらすらと事実を答えていく。
人をも襲うような見た目の大きな獣への恐怖心は、いつの間にか無くなっていた。
元人間なのだと聞いたこともあるが、この人は恐らく、私の味方になってくれる。
そんな確信があった。

「…やっぱ、調べる必要がありそうだな」

何か思い当たることがあったのか、獣はゆらりと椅子から立ち上がった。
そうして部屋から出ていこうと数歩歩いてから、思い出したようにナマエの方に振り返る。

「お前を早く故郷に帰してやりてぇところなんだが、今はこの辺を変な輩がうろついてやがる。…一人でここを出るのは危険だ」
「あと1週間内に、俺の知り合いが屋敷に来る…。あ、そいつは人間だから安心しろ」
「そいつに、お前を故郷に送り届けるように頼むから…それまでは悪いが、ここにいて貰う」

その方が安全だろう、という獣の提案に、ナマエは何の反論も無かった。
それどころか、ナマエを無事に村まで送ってくれる手配もしてくれるというのだから、逆に感謝の念がこみ上げる。

「何から何まで…本当にありがとうございます」
「気にすんな。そのかわり、家事とか手伝ってくれよ」

毛むくじゃらで表情は見えにくいが、大きな黒い獣はニッと笑った。
本音でもあるのだろうが、きっとナマエが肩身が狭くならないようにと、配慮しての発言でもあるのだろう。
それに「はい!」と勢い良く返事をすると、「元気だなお前」なんて獣はケラケラと笑った。

「そういや、名前を聞いてなかったな…。なんて言うんだ?」
「ナマエです」
「そうか…ナマエか」

噛み締めるように再度ナマエの名前を呟いた獣に、ナマエも同じように質問する。

「あの、貴方の名前は?」
「…俺は、…イワ……いや、ハジメだ」
「ハジメ、さん」
「…ハジメでいい。大して歳も違わないだろうしな」

じゃあ、俺は調べもんしてくるから、おとなしく寝とけよ。
そう言って部屋を出ていっ獣を見送り、ナマエは安堵の息をつく。
はじめはどうなるかと思ったが、思わぬ出会いにより、ナマエの身の安全はとりあえず保証された。
ハジメは命の恩人だなぁ…なんて考えながら、ナマエはお言葉に甘えて再び布団に潜り込んだ。

こうして、元人間の獣ハジメと、田舎村の娘ナマエの、奇妙な共同生活が始まった。


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