緊張と青春の枕
気がつけば、夏休みも終盤にさしかかっていた。
休みのほとんどは部活と受験に向けての補講に費やし、更に空いた時間には課せられた宿題もこなさなければならない。
「くっそ眠い…」
あと数ページで宿題も終わるというのに、午後の2時という睡魔が襲って来る時間帯のせいか、岩泉の腕の動きは億劫だ。
夏休み早々にさっさと宿題を片付けてしまっていた静香は、唸る岩泉の向かいに座り、進路関係の冊子を読んでいた。
午前中の部活の後、岩泉母から『おいしい素麺あるんだけど、お昼食べて行かない?』というお誘いを受け、静香はお言葉に甘えて岩泉家に訪れていた。
お昼をごちそうになってそのまま帰ってしまうのも勿体ない、ということで未だ岩泉宅にいるのだが、眠そうにしている岩泉を見ると申し訳なくなってくる。
「寝る?私帰ろうか?」
「いや、いい。宿題もさっさと終わらせねーといけねぇし…」
のろのろとした動作で、評論文の選択問題の答えに丸印をつける岩泉は、いつもの鋭い目は形を潜め、まぶたは半分くらい落ちている。
大丈夫かなぁ…と思いながら、再び冊子に目を落とした静香だったが、数分後に目の前で響いたゴン!というもの凄い音に再び顔を上げた。
どうやら睡魔との戦いに油断した岩泉は、一瞬意識を手放したために額を机で強打したらしい。
うぉお…と呻いている岩泉に、静香は開いていた冊子を閉じた。
「岩泉、一度寝なよ。そんなんじゃ進まないって」
「……そうする」
のろのろと立ち上がった岩泉は、長い足で机を跨ぎ、静香が背にしていたベッドに腰掛けた。
そして緩慢な動作で静香に顔を向け、申し訳無さそうに眉を下げた。
「悪い、10分くらい経ったら起こしてくれ」
「10分じゃ短いでしょ、せめて1時間くらい寝なよ」
「…おぉ」
ボスン、とベッドに横になった岩泉を見て、ふと静香にある考えが浮かんだ。
いや、今それを言ってどうする、とも思ったが、こんな機会が訪れるのも滅多にないだろう。
ベッドに沈み込んでいる岩泉を眺めながら数秒、言おうか言わまいか悩んだものの、結局言うだけ言ってみることにした。
「ねぇ、岩泉」
「ん…?」
「膝枕しようか?」
ぽんぽん、と静香は自身の太腿を叩いてみせた。
眠そうな顔をしていた岩泉は、静香の発言の意味を理解して、落ちかけている瞼をやや開いた。
疲労が見える顔は「何言っているんだお前」と言いたげな表情をたたえている。
二人の間にたっぷりと沈黙が流れ、その静かさは、1階のキッチンでの生活音が良く聞こえる程である。
まずい、失敗した!と静香は顔を青くする。
「…いや、ごめん。出来心で言ってみただけです。なんでもないです」
「………」
無言の岩泉に、膝枕を提案した静香の方がいたたまれなくなってきた。
両手を振って慌てて訂正すると、岩泉は相変わらずの眠そうな顔でぼそりと呟いた。
「じゃあ頼む」
「…………えっ?」
「…お前…自分で言っておいて何驚いてんだよ」
「い、いや…まさかOKだとは思わなくて」
アハハ…とぎこちなく笑うと、「んだよそれ」と不満そうに呟いた岩泉も、若干照れているようだった。
雰囲気、というものが可視化できるのならば、きっとこの室内にはフワフワしたお花でも浮いているだろう。
そう思えるくらいには浮ついた空気に、静香はドキドキしながらも、おずおずと立ち上がった。
ストンと岩泉のベッドに腰掛け、膝丈のプリーツスカートを丁寧に伸ばし、寝転んでいる岩泉に膝を明け渡す。
「じ、じゃあどうぞ」
「…おう」
むくりと起き上がり、岩泉はやや躊躇いがちな動作で静香の太腿に頭を乗せ、仰向けに寝転がった。
自身の腹の上で手を組んでいたものの、静香と目があった瞬間、岩泉は両手で顔を覆った。
「やべぇ、逆に目ぇ冴えてきた…」
「えぇ…」
「しょうがねぇ、子守唄歌って」
「は?」
「なんでもいいから」
寝かしつけろとでも言うのだろうか。
静香は必死に、幼少の頃母親が自分に歌ってくれていた歌を思い出す。
うろ覚えながら、戸惑いがちに静香が子守唄を歌うと、途端に岩泉は吹き出した。
眠気のせいか、いつもより穏やかに笑っているが、その岩泉の様子から、自分がからかわれていたことに気づく。
「ぶくく…」
「…いーわーいーずーみーく〜ん?」
「悪い…マジで歌うとは思わなかった」
静香の太腿を枕にして笑う岩泉にパチンとデコピンをくらわせると「いてっ」と岩泉は声を漏らした。
どちらかというと、岩泉が甘えているような状況なのに、静香の方が翻弄されているというのはどういうことなのだろう。
諸々と言いたいことはあるが、何だか楽しそうな岩泉を見ているとどうでもよくなってしまう。
デコピンをした手で、撫でるように岩泉のツンツンとした髪に触れる。
筋の通った固い髪質は、まさに岩泉本人を表しているようだ。
芯の通ったの髪を撫でていると、岩泉は口を引き結んで目を閉じた。
どうやら寝る体勢に入ったらしいが、頬が少し赤い事に気づいて、静香は思わず破顔した。
この様子だと、さっきの子守唄の下りも照れ隠しなのだろう。
「ハジメ君、ちょっと照れてるよね」
「知らん、おやすみ」
「…ふふ、お休み」
クスクスと笑いながらゆったりと髪を撫でると、岩泉はムッとしていた口元をじんわりと緩めていく。
暫くして、午後の温かな空気と睡魔に負け、岩泉は眠ってしまった。
静かに寝息を立てる岩泉の表情はあどけなく、これがバレーの試合で強烈なスパイクを繰り出し、獣のように闘争心剥き出しで、凶悪な顔をする男と同一人物とは思えない。
静香にとって、世界で一番かっこいい男の子の穏やかな表情を自分が引き出しているのかと思うと、幸せでどうにかなってしまいそうだ。
折角なので、携帯を取り出し岩泉の寝顔をバシャバシャと写真に収める。
画像データを携帯画面で眺めながらニヤニヤしていると、岩泉がおもむろに寝返りをうち、静香の腹部の方にすり寄ってきた。
ああ、岩泉可愛いなぁ…と及川が聞いたら表情を引きつらせそうな思いを浮かべながら、だらしなく緩む口元は引き締められない。
寝顔という貴重なレアショットを手に入れた上、岩泉に膝枕をするという彼女だからこそできる行為を実行できただけで、静香は既に満足だった。
途中でじわじわ足がしびれてきてこようが、静香の膝枕で無防備に爆睡をかます岩泉を見ていられるだけでもはやどうでも良い。
結局、岩泉が寝ている間は、静香は岩泉を隠し撮りしたり、頭を撫でたり、再び進路関係の冊子や英単語帳を読むなどをして過ごした。
約1時間後、目が覚めたのかおもむろに起き上がった岩泉は、静香に背中を向けたままあぐらをかいた。
急に太腿の上が軽くなったものだから、静香は読んでいた本から視線を外し、岩泉の広い背中を眺める。
背中をやや丸め、片手で顔を覆ったまま、無言の岩泉に静香は首を傾げる。
「おはよう、岩泉」
「…はよ」
「……どうかした?」
「いや…その…」
モゴモゴと言い辛そうにしている言葉をしっかりと拾うため、岩泉の方に体を寄せる。
もしかして、寝辛かっただろうかと一瞬不安になったが、続いた岩泉の言葉は予想とは違う物だった。
「これしてもらうの、結構恥ずかしいな…」
「………」
今更、羞恥がこみあげてきたらしい。
照れているのか悶えているのか、岩泉は居たたまれなさそうにしている。
岩泉のこの様子は、日々無意識な岩泉に翻弄されている静香には、珍しい状況に思えた。
背中を向けている岩泉が気づかないことをいいことに、静香は口端をあげる。
「で、どうだった?膝枕」
「はっ?」
「感想聞かせてよ」
「感想っつったって…」
日頃の仕返しだ、とばかりに攻め込むと、岩泉はたじたじといった様子で戸惑った。
ねぇねぇ、と岩泉の背後から肩越しに顔を出すと、サッと顔を背けるのが面白い。
それを何度か繰り返し、観念したのか岩泉は閉ざしていた口を開いた。
「や……」
「や?」
「…柔らかかった」
あとなんかいい匂いした。
耳をすませないと聞き取りにくい程の小さな呟きに、静香も流石に硬直した。
岩泉の耳も赤いが、静香の顔もいつものように染まった。
もしかして私たちは恥ずかしいバカップルなんじゃないだろうか、と流石の静香にもその自覚が芽生えた。
「…やだ、ハジメ君のスケベ」
「なっ…お前が言えっつったんだべや!」
ここで誤摩化さず、素直に言っちゃう辺りが正に岩泉である。
相当な羞恥心に襲われているくせに、強がってベッドから下り、宿題を再開する岩泉はなんだか微笑ましい。
思わず笑うと、宿題に目を落としたまま、岩泉は口元だけムッとへの字に曲げる。
しまった、拗ねてしまったかもしれない。
「ごめんて、ハジメ」
「…別に怒ってねーよ」
未だむっつりとした表情のまま、岩泉は机に肩肘をつき、握ったシャーペンでコツコツと机を叩いた。
既に問題文に視線を走らせている岩泉の様子に、さっきの今で切り替えが随分と早いなぁと静香はある意味感心した。
もうちょっと動揺してくれてもいいのに、と思った矢先、広げられたワークブックに解答を書く岩泉に、静香はふと動きを止めた。
「…ハジメ、その問題の解答欄間違ってるよ」
「あ」
訂正。
存外、岩泉も動揺しているらしかった。
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