魅惑の心狭さ

前日の文化祭に続いて、本日は青葉城西体育祭の開催日である。
日差しは強いながらも、天候は良く、体育祭日和と言っても過言では無いだろう。

体育祭では縦割りで赤、青、黄の3つに分かれ、それぞれのチームで得点を競う事になる。
ちなみに、静香の所属する3年5組は赤組である。


「もう出番か?」

体育委員の男子生徒は強制的に応援合戦に参加をしなければいけないので、今年も岩泉はこの暑い中ガクランを身に纏っている。
赤く長いハチマキをはためかせ、白い手袋を手にはめる様は、静香の胸をときめかせるには充分だった。
あと数競技で応援の掛け合いがあるため、既に準備をしているらしいが、それでも早すぎるのではないだろうか。

そんな純粋な疑問を浮かべた静香だったが、その答えは岩泉の一言によって解決した。
「写真撮ってもいいぞ?」などと、1週間程前の静香の失態を掘り返すような発言をする岩泉の背中を、抗議の意思を込めてバシンと叩く。
静香の携帯のギャラリーに、去年の体育祭での岩泉の隠し撮り写真が収められていることを、この男は当分忘れてくれそうにも無い。
背中を叩かれたにも関わらず、大して痛がりもせず、けらけらと笑っている岩泉をじとりと睨む。
しかし、岩泉は痛くも痒くもない、といった様子だ。
楽しそうな岩泉に言いたい事は多々あるのだが、招集がかかったこともあり、静香は渋々と選手が待機するスペースへと向かう。

「頑張れよ」

ガッツポーズをし、応援の所作をする岩泉を見ると、俄然やる気も出るというものだ。
頑張る!と静香も小さくガッツポーズをして見せてから、岩泉の激励に答える。
先程岩泉にからかわれて若干むっとしていた静香の切り替えの早さに、岩泉は再び軽快に笑った。


入場門の近くで、運営委員が選手に順番に並ぶよう指示を行なっていた。
静香が出場する競技は、短距離走である。
運営委員の指示通り、列に並び、あと2走者程で終わる前競技の様子を眺めながら、ふと隣の女子生徒に視線を向けた。
共に走り競い合うことになるであろうメンバーを把握しておこう、という無意識な考えの元での行動だったのだが、静香は隣に立っている女子生徒の顔を見て思わず固まってしまった。
あれ、この子はもしかして…と静香が記憶を辿ると同時に、隣の女子生徒は静香を睨んだ。

「何ですか?」
「い…いえ、なんでもないです…」

恐らく2年生であろう彼女に、3年生である静香が怯みながら敬語を使うのは妙な光景だろう。
案の定、静香の後ろに並んでいた他のクラスの3年生が、不思議そうにしていた。

しかし、静香は内心それどころでは無い。
正面を向きながらも、意識は隣に並ぶ女子生徒に向けたまま、彼女を初めて見かけた時の事を思い出していた。

彼女は以前、岩泉に差し入れをすると同時に、告白をした女の子だ。

ゴクリと静香が息を飲んだ時、誘導係の生徒が笛を吹き、入場の合図を選手に送る。
前の選手について小走りで入場しながら、静香は無言で隣の女の子の様子を伺う。
一度も話したこともない後輩ではあるが、なんとなく彼女がピリピリしているのが分かった。
静香が岩泉とつき合っている事を、この後輩の女子生徒は、恐らく知っている。

スタート地点付近で止まった集団は、前から順番に6人ずつレーンに並び、ピストル音を合図に走り出して行く。
4走目である静香まで順番が回ってくるのは、思いの他すぐだった。

スタート地点に立った時、無意識に隣の女の子の方に視線を向ける。
すると、タイミングの悪い事に隣の女子生徒と目が合った。
バチリと鉢合わせた視線は、密やかに火花を散らす。

「位置について、よーい……」

スタートの合図を耳で拾いながら、静香はフゥー…と息を吐き、遠目に見えるゴール地点へ視線を向ける。

頭の中が澄み渡り、遠くにある白いゴールテープを切る事だけが脳内を占める。
かつてない程集中していたために、隣の走者がチラリとこちらを伺った事に、静香は気づかなかった。

パァン!と響いた音と同時に、静香は勢い良く前に飛び出す。
自分が持てる全力を尽くし、とにかく前に向かって疾走する。
自身の視界に写る人影はない。
スタートの反応が一番早かった事が決定打となり、静香はなんとか4走目の1位を勝ち取った。
後でゴールして来た、岩泉に好意を寄せる女子生徒は未だに静香を睨んでいたが、そんなものはどうでも良かった。

勝った。
ただその結果だけが、静香の中を占めている。



「栗原さん、迫真の走りだったね」

競技を終えて退場してきた静香は、偶然松川に遭遇した。
先程の静香の走りを見ていたらしい松川は、何故静香がかつてない程の集中して全力で走ったのか、分かっているのだ。
岩泉が告白された時、現場に居合わせたのだから、当然といえば当然なのだが。

「1位とれて良かったね、岩泉も褒めてたよ」
「あ、ありがとう…」

どうやら、途中まで岩泉と一緒に競技を見ていたらしい。
今は応援スペースに移動している岩泉の方に視線を向けてから、松川は両口端を上げて微笑む。
そこまで見透かされていると、やや気恥ずかしい。

「まぁ、岩泉本人は『あいつ超気合い入ってるな』なんて感心してたから、栗原さんが何で気合い入ってるのか分かってなかったけど」

岩泉らしいといえばらしいけど、鈍いよねぇ。
そう続けてハハハと笑う松川に、静香は苦笑いを浮かべる。
反応に困る事を言うなぁ、と内心思いながらも、正直優越感を感じていた。
「それじゃあ、俺この後出番だから」と言って入場門の方に歩いて行く松川を見送り、静香はクラスの待機スペースへと引き上げた。


その後、応援合戦や綱引き、障害物競走、長距離リレーなどの種目が行なわれていき時間はあっという間に過ぎ去っていく。
そして、体育祭の競技も終盤に差し掛かった。

トリの対抗リレーを残し、その前に行なわれるのは、体育祭の目玉である借り物競走だ。
借り物競走に参加できるのは、各クラス男女1人ずつである。
更に言うと、この競技に参加することになるのは、クラスの人気者や目立つ人間であることが非常に多い。
女子には比較的易しいお題に対し、男子は「ネタ枠」として大体が無茶振りに近いお題が出されるのが通例になっている。
聞いた話では、運営側が事前に参加者の周辺情報を念入りに調査し、意図してお題を準備しているのだとか。

去年の体育祭では、静香のクラスのノリの良い体育会系の男子が「キスしたことのある男子」というお題を引いてポカンとしていた。
どうも彼は中学時代、友達とじゃれあって事故的に唇同士をぶつけたことがあったらしい。
それを運営側が調べた上で準備されたお題の内容に羞恥に襲われながらも、彼は事故チューの相手である友達と共にゴールを潜った。
そこで運営の実況担当が読み上げたお題の内容に、連れて来られるままに一緒にゴールした彼の友達は、頭を抱えて踞った。
「んな黒歴史掘り返してんじゃねぇよ!」「忘れたかったのに!」という悲痛な叫びがグラウンドに響き渡ったのは、とても記憶に残っている。
身を削る事にはなるが、ネタとしてはある意味美味しい競技である。

我が3年5組の代表は、女子は委員長、男子は劇で演じた役柄があだ名となってしまったジョニーである。
ジョニーに至っては、調子にのってぶんぶんと3年5組の待機スペースに手を振るので、スペースにいるクラスメイト一同、保護者のような心持ちで彼に手を振り返す。
入場中なのに一人だけ落ち着きの無いジョニーに、苦笑いをするクラスメイトや生徒も数名いた。
選手達に視線を走らせると、集団の中に及川の姿があった。
そういえば、及川は去年も借り物競走に出ていた。
確か、出場選手の女子二人のお題の内容(友達になりたい人だとか、憧れの人だとか)と被って、2人に取り合いされていた気がする。
結局、両手に花状態で3人でゴールし、それが原因で当時の彼女と別れていたような記憶がある。

そんな苦い思い出があるからなのか、集団の中にいる及川は若干元気が無さそうだった。
恐らくこの競技の出場は本意では無いのだろう。
及川は良い意味でも、悪い意味でも目立つのだ。
そのせいで、周りに言われるがままに借り物競走に出場することになったのだと、容易に想像がついた。
現在及川と交際中である、静香の友人との間に亀裂が入らなければいいが、と及川に同情の眼差しを送る。


目玉競技ということもあり、ほとんどの生徒が自分たちのスペースに戻って競技の見学をしたり、選手であるクラスメイトや友人をはやし立てたりしている。
体育祭で一番の盛り上がりを見せる中、借り物競走女子の競技が始まる。
競技の流れは、スタートの合図で走り、20メートル程先に準備されたテーブルの上の封筒に入ったお題を読み、指示された物を持って来るか、人を連れてくるかしてゴール地点へ向かう。
そこで待機している運営委員がお題を読み上げ、走者が持って来た借り物がお題の内容と合致しているか判断し、OKが出るとゴールを認められるのだ。

男子のものに比べると、女子のお題は優しいものだ。
「2年5組の男子生徒」「担任の先生の靴」「金色の弁当箱」「尊敬する先輩」など、去年のものに比べると普通のものが多かった。
そのこともあり、特に何の騒動も起きないまま、女子の競技は無難に終了した。

そしてお次は、本命中の本命、男子の番である。
笛の合図とともに勢い良く走り出した男子達ではあったが、テーブルの上に置かれた封筒を開封し、お題の書かれた札を手に取った瞬間、全員の動きが停止した。
足の裏に接着剤でもついているのか?というくらいに、誰一人として動かないまま10秒が過ぎ去る。

『おおっと!皆立ち止まってしまったぞぉ!今年はそんなにえげつないお題なのかぁ!?』

実況の運営委員だけが、マイク越しに元気に声を張り上げる。
お題の内容を知っているくせに、なんとも白々しい発言だ。

遠目でしか判断できないが、及川はお題を手にしたまま息を飲んでいた。
ジョニーは先程までの威勢はどこへやら、といった様子で硬直したまま、うーんと唸っていた。
他の男子選手達も皆同じような反応を示し、グラウンドが沈黙につつまれるという異常な状況が続く。

これちゃんと競技として成立するの?と見学している外野が不安になりはじめた時、選手達がやっと動いた。

及川は意を決したようにお題から視線を上げ、3年6組のスペースに視線を向けた後、きょろきょろと誰かを探しているようだった。
ジョニーは「どうしよう…」という雰囲気で立ち尽くしていたが、ふと何かを思いついたのか、ものすごい勢いで5組のスペースの方まで走って来た。
目的の物か人物が、どうやら待機スペースにあるらしいと察し、待機しているクラスメイトは顔を見合わせる。
静香も周りをきょろきょろと見渡し、ジョニーの目的のものは何だろうと思考を巡らせる。

しかし、走りよってきたジョニーが発したのは、クラスメイトの誰もが予想もしていないものだった。

「栗原さん、一緒に来て!」

早く!とジェスチャーをするジョニーの言葉に、静香の周りにいた生徒が皆視線をこちらに向ける。
名前を呼ばれた静香自身驚いたものの、赤組チームの得点のこともあるし、と反射的に5組の待機スペースから飛び出した。
ジョニーと並んで走り、1番乗りでゴールについてからやっと「お題は何なのだろう」と考えた。

『はい、1番手は3年5組!さてさてお題を見せてください!』

運営委員の実況の人に、ジョニーがお題の書かれた紙を手渡す。
一体なんなのだろう、と今になって不安になってきた静香を他所に、実況の生徒はをお題を読み上げた。


『お題は…”つき合っている、もしくはつき合ったことのある女子!”』


…は?と思わず静香は言葉を漏らした。
つき合うとは、交際するという意味なのだろうか。

静香の初めての彼氏は、現在交際中の岩泉一、ただ一人である。
当然ジョニーとつき合ってもいないし、そんな色気ある関係になった事も無い。
どういう意味で、ジョニーは自分を連れて来たのだろう。
戸惑いの表情を浮かべる静香に気づいて、実況の生徒はジョニーに『本当に?』と問う。

「いや、実は俺今まで彼女できたこと無いんすよ…。だから正直このお題でゴールは無理です。でも、昨日の劇で栗原さんは俺の彼女の役だったんで、これで許してくださいお願いしまぁす!」

勢い良く頭を下げたジョニーを見て、実況の運営委員は静香に視線とマイクを向ける。

『今のは本当ですか、栗原さん?』
「………はい」

確かに、それは事実である。
静香が苦々しく肯定すると、会場はいろんな意味で盛り上がる。
「それ有りかよ!」「というか彼女いたことないとか公表してやるなよ…」と様々な意見が飛び交っている。

『いっそこのまま、お付き合いしてみては?』

正当なゴールになりますよ?と、余計な事を言う実況の生徒に、内心「やめてくれ」と悲鳴を上げる。

「いやいや、栗原さん彼氏いるんすよ。……というか俺、後で彼氏に殴られるんじゃないかなって不安なんすけど…」

赤組の得点になったら許してくれると思います…?などとこそこそと言っているが、マイクで全て筒抜けである。
全部、この運動場のどこかにいる岩泉の耳に入っているのかと思うと、静香はこの場から逃げ出したい衝動にかられた。

「彼女がいないならしょうがない」ということで、ジョニーは借り物競走のゴールを特別に認められた。
しょうがない、と言っているが、運営側の人達はきっとそれを調べていたに違いない。
ジョニーが一体誰を連れて来るのか、それを見せ物にするためにしくまれたお題を、これほどまでに恨むことになるとは思わなかった。
静香の脳裏には、去年の及川の前例が過る。
岩泉と気まずくなったらどうしよう、と不安気な暗い面持ちでゴール地点で待機する。

その後やってきた男子達のお題の内容も中々のもので、ジョニーと静香の件は、他の選手のインパクトにかき消されたのは、救いだったのかもしれない。
一番最後に及川がやっとゴールしたことにより、男子の借り物競走も、終わりを迎えた。



「岩泉、ジョニー帰ってきたぞ」

グラウンドから引き上げ、クラスの待機スペースに戻って来たジョニーと静香に気づいた男子が、嬉々として岩泉に報告する。
一発いったれ!と煽り始めるクラスメイトを視界の端でとらえながら、岩泉はジョニーに顔を向けてから盛大なため息をついた。
それを見て、ジョニーは慌てて「すまん岩泉!」と両手を合わせて許しを請うような姿勢で頭を下げた。

「…俺より、お前につき合ってくれた栗原に礼を言っとけ」

自身の事ではなく、静香を気遣う岩泉の優しさが染み入る。
ひゅー、岩泉君男前ー!と持てはやす外野を鬱陶しそうに眺めながら、岩泉は腕を組んだ。

「ごめんな栗原さん!迷惑かけて…」
「いや、いいよもう…」

岩泉と変な空気にならなければそれでいい。あと、出来ればあまりこの話も掘り返さないで欲しい。
それが静香の本音である。

赤組の得点になったし、と言えば、ジョニーもホッと息を吐いた。
ジョニーもある意味では悪く無いので(お題が悪い)、一方的に謝らせてしまうのは申し訳ない。
こっちこそごめん、いやいや俺もごめん、いや私も…、などと謝罪を繰り返し言い合っていると「いつまでやってんだよ…」と呆れたような岩泉のツッコミが入った。
普段通りの調子で投げられた言葉に、静香も内心でホッと安堵の息をつく。
気まずくなるかも、などと借り物競走中にしていた心配は、静香の杞憂に終わったようだった。
岩泉は心も広いし、こんな事では動じたりしないのだろう。

この後、最後の競技であるチーム対抗リレーに出場した岩泉が、前を走る選手を抜かし、アンカーで1位をぶっちぎる姿を目の当たりにし、静香は借り物競走の事などすっかり頭から吹き飛んだ。
手元にカメラか携帯があれば、1位を取って嬉しそうに笑っている岩泉の姿を収めたというのに、生憎今日はカメラも無く、そして携帯の電池は切れている。
勿体ないなぁ、などと言葉を漏らすと、友達の一人が「あんた彼女なんだから、頼めば写真くらいいつでも撮らせてくれるでしょ?」と最もな事を言われてしまった。


こうして体育祭もあっという間に終わり、後に残ったのは片付けという気の進まない作業である。

体育委員のために率先して片付け作業に参加していたため、帰宅時間もそれなりに遅い時間となる。
テントや入退場門などの大掛かりな物の解体は翌日に行うので、小道具の撤去だけを済ませ、静香は帰り支度を整える。

今日は家に帰ってご飯を食べて、お風呂に入ってさっさと寝てしまおう。
そう思ってそれなりに日が暮れた中を一人歩きながら校門に差し掛かった時、見覚えの後ろ姿がちらりと見えた。

あれ?と疑問に思いながら慌てて駆け寄ると、校門付近の壁に背中を預けて立っているのは、やはり岩泉だった。
男子は片付けも終わっていたので、先に帰っていると思っていたのだが。

「よ、お疲れ」
「岩泉、どうしてここに…」

聞きながら、「ああ、誰か待ってるのか」と思い至って静香は学校の方を振り返る。
もうほとんどの生徒が帰ってしまっているから、残っているのは体育委員か文化祭運営委員くらいだ。

「いや、お前お前。栗原を待ってたんだよ」
「え、うそ。待たせてごめん」

気にすんな、と軽く答えてから、岩泉は壁に預けていた背中を離した。

「これ、うちの母親からお前にだってよ」

そう言って、岩泉は手のひらに収まる程の白い紙袋を差し出し、静香が出した手の上に乗せる。
どうやら、これをわざわざ渡すために待っていてくれたらしい。

「ありがとう…。何が入ってるの?」
「空けてみろよ。…大したもんじゃねぇけど」

ポケットに手を突っ込みながら言う岩泉の言葉を聞いて、静香は小さめな紙袋を空けて中をのぞいた。
中には、たっぷりと具の詰まったサンドイッチが2つ入っていた。
丁寧にラップで包まれているそれは、お店で売られているものではなく、手作りのようだ。
体育祭の後、委員会の仕事で遅くまで残って片付けをしていたこともあり、静香の体も随分と疲労が溜っている。
そして当然お腹も空いているわけで、静香は袋の中のサンドイッチを見て、思わず生唾を飲んだ。
そんな静香の様子を見た岩泉は、フッと吹き出してから緩く頭を傾けた。

「体育祭の後は腹減るだろうから、だとさ」
「…ありがとう、本当に」

岩泉にもう一度お礼を述べ、静香は袋の中の手作りサンドイッチを眺める。
岩泉のお母さんの気遣いにも、謝しなければいけない。
今度何か、菓子折りでも持って行こうかなんて考えを巡らせていると、岩泉はおもむろに自身のカバンの中身を漁りだす。
そして静香が手渡されたものと同じ、白い紙袋を引っ張りだした。
おそらく、その中にも静香のものと同様に、お腹を満たす食料が入っている。

「まだ元気あるか?」

なんとなく、岩泉が何が言いたいのか察した静香は、口元を緩めて「ある!」と返した。



青城の近所にある公園は、もう日暮れ時ということもあり、人の姿は見当たらない。
閑散とした広場に備え付けられたベンチに腰掛け、二人してもぐもぐとパンを口に運ぶ。
静香の紙袋に入っていた量の倍のサンドイッチを、岩泉はぺろりと平らげてしまった。
「晩ご飯食べられるの?」と静香が心配して尋ねると、余裕余裕と平然と返された。
食べ盛りの男子には、これくらいのボリュームがあっても、空腹は満たされないらしい。

「あーあ、学校生活の一大イベントも終わっちゃったね…」
「そうだな…」

この後静香達に待ち受けているのは、バレー部での春校予選、そしてその先にある受験という現実である。


「なんだかんだで、文化祭も体育祭も、今年やったのが一番楽しかったなぁ」
「…俺はもう劇はやりたくねぇ」

散々に練習させられた事を思い出したのだろう、岩泉は苦笑いを浮かべる。
そんな様子の岩泉にクスクスと笑い、静香は岩泉の機嫌をとるように口を開く。

「でも本番のセリフ、ばっちりだったよ。…私もドキドキした」
「…まじで?」
「まじで」
「……ならいーわ」

静香の方をちらりと見てから、岩泉は口元を微かに緩めた。
しかし数秒後、突然岩泉が眉間に皺を寄せたものだから、静香はやや驚き目を見開いた。
何か、嫌な事でも思い出したような反応だった。

「…何かあった?」

静香が恐る恐る様子を伺うと、岩泉はむっつりとした表情で暫く黙った後、重々しく口を開いた。


「アイツ、お前に気があんじゃねーの」


アイツ、とは誰のことを指しているのだろう。
いや、それ意外にも聞きたいことはあるのだが。

「アイツ…って誰?」
「ジョニー」
「…それはないでしょ」

なんだ、という反応を示した静香の応答が気に食わなかったのか、岩泉は不服そうにこちらに視線を向けた。


「よくよく思い返すと、アイツ…お前に頻繁に話しかけてる気がする」
「ジョニーは基本誰にでも話しかけるよ」
「…そりゃ、まぁそうだけど」

静香の発言を否定できないらしい岩泉は、うぐ…と言葉に詰まった。
そもそも、ジョニーは誰とでもすぐに友達になれるし、基本的に誰かと喋っていないと落ち着かない人間である。
別段珍しいことでもない、というのが静香の見解だ。
しかし、複雑そうな表情の岩泉には申し訳ないが、静香は緩む口元を引き締められない。

「なんでお前、ちょっと嬉しそうなんだよ…」
「いや…だって…」
「んだよ…」

クスクスと笑いながら、静香はおかしくてたまらない。

「…岩泉、妬いてるんだもん」
「は…?」
「やきもちでしょ、それ」
「………」

やきもち、という言葉を耳にして、岩泉は硬直した。
そして数秒後、やや照れくさげに顔を背けて「悪いかよ」と開き直った。
「悪くないでーす」とふざけながら岩泉の方に寄りかかると、「笑うな」と言って、照れ隠しで肩を押し返された。
それでも尚、楽しそうに肩を震わせている静香を見て、岩泉は諦めたようにため息をついた。

「……お前も、なんだかんだで余裕でてきたな」

「いっつも真っ赤になってるの、見るの楽しいんだけど」と呟き、岩泉はおもむろに静香との距離を詰め、目を伏せる。
あ、キスされる。
そう思って目を閉じた静香だったが、待てども待てども、唇に柔らかな熱の感触はやって来ない。
暫くして恐る恐る目を空けると、至近距離でじっと静香の様子を眺める岩泉と目が合った。
「やられた!」と自覚した瞬間、静香の敗北は決定する。

「そうそう、そういう顔が見てぇんだよ」

ニヤリと笑う表情にすら見蕩れてしまうものだから、静香は悔しいやら恥ずかしいやらで、何とも言えない表情を浮かべる。
しかし、嫌だとは思わないあたりは、惚れた弱味といったところだろう。

私も随分、岩泉に対して拗らせている。
そんな事を回転の鈍い頭で考えていると、不意に岩泉が静香越しに、遠方に視線を向けた。

岩泉がやや目を見開いたのと同時に、静香の後方の方から「おーい」という声が聞こえた気がした。

その声に反応した静香は、岩泉の方に向けていた体の向きを変え、振り返ろうとした。
しかしその瞬間、岩泉にがしりと肩を掴まれ、動きがしっかりと封じられる。

え?と口から間抜けな音が溢れた。

それから1秒も置かずに顔に影がかかり、視界が岩泉でいっぱいになる。
今度こそ触れた唇は、乾燥しているせいか、少しかさついていた。
きっと何度もこの行為を繰り返せば、そんな事は気にならなくなるだろう。
普段の静香ならば、そうやって岩泉に身を委ねて没頭してしまうのだが、今回は状況が違う。

今、静香の後方には、誰かがいるのだ。

二人きりの時、秘め事のようにしか交わしたことのない口づけを、赤の他人に見られている。
あまりの羞恥に、岩泉の肩をバシバシと叩くも、手首を掴まれて抗議を阻まれる。
そしてそのまま手首を伝い、指の隙間に自身の指を滑り込ませ、手を絡めとられる。

「許せよ」と息継ぎの最中に囁いた岩泉は、静香を更に自身に引き寄せる。
重なる吐息と、一等柔らかい感触の応酬に、思考はどんどん覚束なくなっていく。
抗議の意思を込めて岩泉の肩を押していたもう片方の手は、いつの間にか岩泉の制服を握りしめていた。
ふと目を開いた時、岩泉は静香の後方に一瞬視線を向けてから、フッと笑った気がした。

随分と長い間、公園という公共の場所でそうしてキスを繰り返し、やっと解放された時には体中の力が抜けていた。
だらりと岩泉に寄りかかると、難無く静香を受け止めてから、岩泉はぼそりと言葉を零した。


「アイツ、これでもうお前に寄りつかねーだろ」

ギラリと光る岩泉の瞳の奥に、何かが揺らめいた。
ごくりと息を飲んだ静香は、岩泉一という男を、未だ理解できていないのかもしれない。

そんなことをぼんやりと考えながら、のろりと後方を振り返るが、そこには誰の姿も無い。
しかし、岩泉の発言で誰がいたのか察した静香は、抱きとめられたままの状態で、岩泉の肩口に顔を埋める。
牽制を込めて重ねられた唇の感触が未だ消えない上、岩泉にそんなことをされたという事実に、のぼせてしまいそうだ。

ああ、どうしよう。
明日教室でジョニーに会った時、どういう顔をすればいいのか分からない。


back
ALICE+