家に帰るまでがデート
クリスマスも過ぎ、年が明けても、試験日までは静香の勉強漬けの毎日は続いた。
人生を左右する一大イベントを目前に、静香は今まで人生の中で一番勉強していると言いきれる。
外出するのも学校での補講か、塾へ通うかのためだけになり、気分転換するにも近くのスーパーに買い出しに出かけるくらいである。
岩泉に会いたい、とは思うものの、「勉強の邪魔しちゃいけねぇし」と遠慮している岩泉とは、クリスマス以降あまり会えてはいない。
岩泉の方はすでに、大学のバレー部の練習にちょこちょこ顔を出しているらしい。
高校の部活引退以来、やっと大好きなバレーに打ち込めるとあって、わりと生き生きとしている。
私も早く大学合格を決めて、夢のキャンパスライフというものを実感したいなぁ、などと大学生活に思いを馳せる。
好きな勉強をして、サークルに入って、バイトをして、お酒を飲んで、などとイメージを膨らませるも、最終的に行き着くのは「岩泉」とのことだった。
一人暮らしを始める岩泉の家に遊びに行って、夕飯を作るのがとりあえずの静香の目標であり、願望である。
できれば岩泉と一緒にキッチンに立って、一緒にご飯を作って、新婚さんのような気分に浸りたい。
そんなことをにやにやと考えながらベッドに入ったためか、その日静香は妙な夢を見た。
キッチンに立って岩泉と料理をしていたのだが、何かの拍子に岩泉がお玉を放り投げて、静香を抱き上げた。
所謂「お姫様だっこ」というやつで抱き上げられ、静香は慌てて岩泉の首に腕を巻き付けた。
それを見てけらけらと笑った岩泉は、静香を抱えたまま移動して、あろうことかそのままベッドの上に静香を寝かせて覆い被さってきた。
突然の事態に固まる静香に、そんなこと知ったことか、と岩泉は静香の服に手をかける。
待って待って待って!と静香が叫んだ辺りで、目が覚めた。
枕元の時計を確認すると、アラームセットした時間の30分前だった。
なんていかがわしい夢を見ているんだろう…と半ば呆然としていると、充電器にさしていた携帯がピカピカと光っている。
画面に触れて携帯を起動させると、届いている連絡の通知を確認する。
連絡の主は岩泉、「及川の浮気現場」という言葉と共に、商店街で両腕をおばちゃんに掴まれている及川の写真が送られてきていた。
両手に花状態の及川の顔色は写真越しでも悪く、カメラに向かって何か文句を言っている様子が伺える。
撮影者である岩泉に抗議しているのだと、安易に想像がついた。
そんな愉快な写真と共に添えられたメッセージの最後には、「勉強がんばれよ、今度差し入れ持って行く」とさりげない応援の言葉も忍ばせている。
未だ受験戦争まっただ中の静香に、岩泉がこうして連絡をくれるのがとても嬉しかった。
そして一月の半ばにさしかかり、大きな試験も終わり、静香の受験も一山を越えた。
この後にも大学の試験はあるのだが、第一の試験でそこそこの結果が見込めたこともあって、静香は随分と心の余裕ができた。
勉強浸けの日々は続くものの、息抜きくらいしても大丈夫だろう、と早速岩泉に声をかけ、久しぶりにデートの約束をとりつけた。
遊園地に行こうか、という話になり、静香はそれはそれは浮かれていた。
しかし、るんるん気分で迎えたデート当日、生憎の悪天候のために遊園地行きは保留となった。
雨のため、目玉のジェットコースターに乗れないと知った二人は、遊園地へ行くのを次回のデートに繰り越し、この日は岩泉の家でまったりと過ごすことにした。
何故岩泉の家なのかと言えば、話は簡単。この日は岩泉以外の家族が出払っているために、二人きりで存分に過ごせるからである。
「これで頭拭いとけ」
激しい雨に見舞われたせいで濡れてしまった静香の頭に、岩泉はばさりとタオルをかぶせる。
それを受け取り、静香は整えてきた髪型が崩れないよう、そっと水分を拭き取る。
「そんなんじゃ乾かねーぞ」
静香の様子を見かねて呆れたようにそんなことを言うが、岩泉は短い髪に水分を含んだまま放置してしまっている。
それはこちらのセリフだ、と静香はため息をつき、岩泉を見上げる。
「岩泉も髪濡れてるよ」
首にかけているタオルを握り、背伸びをして岩泉の頭にタオルをかぶせる。
そしてそのまま、わしゃわしゃと頭を掻き撫でるように手を動かして、岩泉の短い髪の水分を拭き取る。
腕を伸ばす静香が拭きやすいように身を屈めた岩泉は、されるがままの状態で、反射的に目を閉じている。
手を動かしながら、静香は「今ならキスできるかも」などとと浮ついた事を考える。
年が明けて今日まで、あまり岩泉と会う機会も無かったし、今日のようにデートをするのも当然ながら久しぶりだ。
生憎の雨に見舞われてしまったが、折角の二人きりという状況には変わりない。
「なぁ…もういいだろ」
他の事を考えていたせいか、岩泉の頭をひたすらに拭いてしまっていた。
頭が微妙に揺れるから、岩泉も少し気分が悪くなっているのかもしれない。
それに対して申し訳なくなりつつも、折角のこのチャンスを逃すのは勿体ない、と心のどこかで思う自分がいる。
どうしよう、などと考えながら、静香はうっすらと口を開き、目の前の岩泉をじっと見つめる。
普段は鋭い眼光を讃えてムスッとしていることが多い岩泉ではあるが、そんな恋人がフッと優しく笑って自分を見てくれる事を、静香は知っている。
ほとんど衝動に近かったが、静香は岩泉の頭に被せたタオルをゆるく引いて、岩泉の唇に自身の唇を押し当てた。
岩泉がしてくれるようには、唇同士が上手く重ならず、少し逸れてしまった事が恥ずかしい。
流石の岩泉も、不意打ちのキスには驚いたようだったが、直ぐに切り替えて静香の唇に自身のそれを重ね直した。
ふわりと合わせた唇を離して、静香は苦笑いを浮かべた。
「…私、キス下手だなぁ…」
「ははっ、そうかもな…ちょっとぎこちねぇ感じがする」
頭にタオルをかぶったまま、岩泉は静香の顎を掬い、再びやんわりと口を塞ぐ。
ちゅ、と柔く唇を吸うように合わせて、ピンと背筋を伸ばした静香を認めて、岩泉はからかうように目を細める。
「キスされるのは、上手いのにな」
不敵な岩泉の表情に、ドキリと心臓が跳ねる。
キスなんて、産まれてこのかた岩泉としかしたことがない。
されるのが上手いなんて良く言ったものだ、岩泉がそうした当人じゃないか。
「岩泉のおかげだね」
「…アホ」
静香もからかい返すと、岩泉はキョトンとした後、照れくさそうに視線を逸らした。
そして頭に被ったタオルを外して首にかけてから、静香の額にバチンとデコピンをお見舞いする。
力の加減をしてくれているらしいが、それでも額がじわりと痛む。
痛みを抑えるように額を摩っている静香を他所に、岩泉はキッチンの方に歩いて行き、冷蔵庫の中からペットボトルを取り出した。
「昨日はオレンジジュースあったんだけどな」と言いながら、岩泉はスポーツドリンクを静香に差し出しす。
しかし、未だ額を抑えながら、唇をむぐむぐとさせている静香を視界に入れて、岩泉は思わず吹き出した。
キスがもう少し上手く出来たらなぁ…などと悩んでいた静香は、笑っている岩泉からスポーツドリンクを受け取る。
静香としてはあまり面白く無いが、岩泉は片手にペットボトルを持ったまま、楽しげな様子で腰に手をあてた。
「練習なら付き合うぞ」
そう言ってから、岩泉は静香の唇を指でふにりと押した。
「どうする?」なんて首を傾げる岩泉は、静香がどうするかなんとなく予想がついている。
その話に素直にのるのは恥ずかしい気もしたが、とても魅力的なお誘いには違いない。
暫く言い淀んでから、静香はもごもごと口を動かした。
「なんて?」と聞こえないふりをする岩泉をじとりと睨みながら、「お願いします…」と羞恥に震えながら口にすると、「いーぞ」と軽い返事が返ってきた。
そういう反応をされるのも困るな…と苦笑いを浮かべながら、仁王立ちをしている岩泉を見上げる。
キスの練習に付き合ってやる、と言っておいてそんな気配が無いので、静香は戸惑いが隠せず立ち尽くす。
「…え?練習に付き合ってくれるんだよね?」
「キスに持ち込むところから練習だろ」
何だその「家に帰るまでが遠足」みたいな言い回しは。
本格的、と言っていいのか分からないが、思っていたより序盤からキスの練習をさせてくれるらしい。
こんなところにまで厳しさを発揮するらしい岩泉を見上げながら、静香はうーんと唸る。
キスに持ち込むと言っても、このまま首に腕を巻き付けて背伸びをすればいいかと岩泉に寄ると、軽くかわされる。
「…なんで逃げるの」
「インパクトが足りねぇ」
なんでキスするのにインパクトがいるんだ、と心の内でツッコミを入れながら、何故かわくわくした様子の岩泉を眺める。
静香がどんな仕掛け方をするか、観察しながら楽しんでいるのだ。
この余裕そうな態度を崩したい、と無意識に対抗意識を燃やした静香は、頭の中でさまざまな案を並べていく。
今までの経験の中で、岩泉が何に強くて何に弱いのかはなんとなく把握している。
そうして岩泉の「弱い」部分に当たるものに思い至ると同時に、はじめてキスをした時、静香の水着姿を見てそろりと視線をそらした岩泉の事を思い出す。
岩泉があまり触れて欲しそうにしない「下心」というものを揺さぶることが、一番効果的なのではないか。
そんな安易な考えのもと、静香はゆっくりと口を開く。
「…岩泉」
「ん?」
静香はすぅと深呼吸し、膝丈まであるスカートの裾を摘んだ。
そしてごくりと息を飲んでから、ゆっくりと裾を軽く持ち上げた。
するりと太腿を滑る布の感触を感じながら、岩泉の方に視線を向けると、目の前の恋人は目に見えて固まった。
「…見たい?」
裸の足をチラリと覗かせてみせるのも、中々に度胸がいるものだ。
しかし、ここまですれば、岩泉だって動揺するだろう。
太腿を少し晒した所で動きを止めると、静香が晒した足を凝視していた岩泉はハッと我に返り、慌てて静香の腕を掴んでスカートを元の状態に戻した。
「アホかお前、何やって…」
抗議の声を上げる岩泉の不意をつき、押し当てるようにキスをすると、思っていたより柔らかく唇同士が重なった。
上手くできたのではないだろうか、と満足げな顔をする静香の様子を見て「ああ、そういう事か…」と理解した岩泉は、悟ったような表情で脱力した。
「ドキドキした?」
「…そういうドキドキは求めてねーよ」
心臓に悪いわ、と文句を言う岩泉は至極真面目な顔で文句を言う。
「でも、しっかり見てたね」と追い打ちをかけると、岩泉は「あー」と唸りながら頭を掻いた。
雨で濡れていたはずの岩泉の髪は、静香が念入りに水分を拭き取ったためか、既に乾いてしまっている。
「…俺も男だからな」
「お前も知ってるだろ」と呟いて、岩泉は静香の背中に腕を緩く回す。
参った、という顔をする岩泉に、静香は勝負をしていたでも無しに「勝った!」と妙な達成感を感じていた。
しかしそれもたった数秒の事で、ゆるく背中に回っていたはずの腕に強引に引き寄せられ、静香は「え?」と間抜けな声を漏らす。
「で、これは誘ってるって受け取っていいんだよな、静香?」
転んでもただでは起きない、とはまさにこの事だ。
足を掬われて転ぶ前に体勢を立て直し、足を引っかけた静香を逆に手中に納める様は華麗なものだ。
さっさと切り替え、形勢逆転。
やられっぱなしは性にあわない、とニヤリと笑う岩泉の発言に、静香は戦く。
故意的にだろうが、大胆な事を言っているのは岩泉のはずなのに、耳元でそんなことを言われた静香の方が茹で上ががる。
ガチリと固まった静香の様子を確認し、岩泉は勝ちを確信する。
「それじゃあ、キスの練習でも続けるか?」
「…け、結構です」
静香の体のラインをなぞるように背中を滑る不穏な手にドキドキしながら、静香は危機感を感じてぶんぶんと首をふった。
自分から色仕掛けをしておいて、元も子もないというのは重々に承知しているが、何せ今回は心構えができていない。
岩泉をからかうためだけの自身の軽はずみな行為が、逆に自分の首を絞める。
「遠慮すんなよ」
岩泉は静香のうなじに手を滑らせ、首にかかっている細身のチェーンに軽く触れる。
クリスマスに岩泉から貰ったネックレスをしっかりとつけてきていた静香を認めて、岩泉は口端をひっそりと上げほくそ笑むが、静香からはその様子を伺う事はできない。
このまま続けてしまえば、きっとキスの練習だけでは終わらない。
食われる。
そんな事を考えながら、今日は無事に家に帰ることができるのだろうか…と静香はデートも早々に現実逃避をはじめた。
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