予備の心臓が欲しい

2月14日は、言わずと知れたバレンタインである。
好きな男の子に、女の子が愛の籠ったチョコレートを渡すことが通例となっているイベントを控え、静香は近所のショッピングモールに足を運んでいた。

去年のバレンタイン、静香は岩泉に『本命』チョコを渡せてはいない。
席の近くに居たクラスメイトに配る流れで「はい、岩泉にもチョコあげる」と言って小さいチョコをさり気なく手渡すだけに終わった。
本命を背負うには不相応な小さなチョコの包みを破り、「サンキュー」と言ってチョコを早々に口に入れてもごもごと食べている岩泉を見ているだけで、当時の静香は幸せだった。

それが今年はどうだろう。
静香は岩泉の彼女という称号を手にし、堂々と手作りのチョコを渡す権利があるのだ。
当然、気合いも入る。

ショッピングモールのメイン広場に設置された「バレンタイン特設コーナー」に赴き、静香は女性客の間を縫いながら、何を作ろうか吟味する。
岩泉にさり気なく聞いたところ、甘いものは特別好きというわけでもなく、嫌いでもない、しかしあれば食べる、と彼らしい解答をした。
要は特に好き嫌いはない、ということで、静香は棚に並んだパッケージを適当に手に取った。

小さなころころとしたトリュフチョコの写ったキットを眺めながら、これを口に運ぶ岩泉を思い浮かべる。
しかし、岩泉がこの小さいチョコを摘んでいる姿を想像すると、なんだか物足りないような気がする。

手づかみで食べられるような、もっと大きいものがいい。
そう思いながら次に並ぶカップケーキのキットを手に取ると、左側から「静香?」と声をかけられた。

呼びかけのあった方に顔を向けると、そこに立っていたのは有馬だった。
彼女の手には赤いカゴが握られており、その中には板チョコが数枚投げ入れられている。
それだけで、有馬の目的が自身と同じであると察した。

「有馬…及川に手作りのチョコあげるの?」
「…まぁ」

有馬は遠目になり、ハハハと笑ってみせた。
彼氏宛のバレンタインのお菓子の材料を買いにきているのに、何故そんなに覇気がないのだろう。
それについて尋ねると、有馬はお菓子というものをあまり作ったことがないらしく、少し不安であるらしい。

「本当は市販のチョコあげようと思ってたんだけど、『お前の手作りチョコ食べたらお腹壊しそう』って及川に言われてさ。見返したいんだけど…」

ぼそぼそと文句を言う有馬の発言を聞き、静香も遠目になって乾いた笑みを浮かべた。
それは恐らく、「有馬の手作りチョコが食べたい」という素直になれない及川の策略である。
そう言って有馬を焚き付ければ、負けず嫌いな有馬なら意地になると踏んでのことだろう。
そうしてやっきになった彼女が、及川に手作りチョコを持って来るという算段なのだ。
そういう心理戦に頭を使うより、正直に「手作りが欲しい」と言えないものだろうか、と静香は及川を少し不憫に思った。

「静香は何作るの?」
「悩んでるんだけど…今の所カップケーキかなぁ…」

へぇー、と感心したような顔をした有馬は、静香のカゴに入っている商品を覗く。
そして静香がカゴに入れているラッピング袋に目を止め、「これどこに売ってるの?」と口を開いた。
どうやらお菓子を入れる袋を探していたらしい。
しかし、あの有馬が及川にバレンタインの品を用意しているこの光景を、静香はなんとも珍しく感じてしまう。

「…変かな?」
「ううん、いいと思う」

静香が案内したラッピング商品が置かれたコーナーで、上品そうな青い包装紙を手にし、ぎこちない所作でそれをカゴに入れる有馬を眺めながら、静香はそれを微笑ましく思った。
及川と付き合い始めてそれなりにはなるが、未だ恋人という関係に慣れていない有馬の初々しさを、眩しく感じる日が来るとは思わなかった。

静香も岩泉と付き合い始めて、あと数ヶ月程で1年になる。
付き合い始めの頃は、今の有馬のように初々しかった自覚はあるが、今ではそれなりに慣れてしまった。
今はこんな初な反応出来ないなぁ、などと思いながら、静香は岩泉との思い出を振り返る。
そうして走馬灯のように流れて行く岩泉とのさまざまな出来事と、そのあまりの破壊力さを再認識し、静香はぶんぶんと頭を振った。
訂正しよう、やっぱり今でもあまり慣れてはいない。



そうして、迎えたバレンタイン当日、土曜日。

3年生は既に自由登校の時期ではあるが、この日ばかりは男子生徒の登校者数が増える。
理由は言わずもがな、高校生活最後の思い出として「自分に愛のプレゼントをしてくれる女の子」に期待をしているからである。

いつもより参加人数の多い補講を受けながら、静香は机の横にひっかけた紙袋を見やった。
その中には、岩泉へ渡すカップケーキが入っている。
よく食べる岩泉の事を思いたくさん作ってきたのだが、流石に多かったかもしれないと今更になって思う。
まぁ岩泉が食べきれなければ、静香も一緒になって食べればいいか、と一人で勝手に問題を解決させた。
経過する時間を遅く感じながら補講を終え、静香は荷物をまとめてさっさと教室を出た。

静香のバレンタインのお菓子を受け取りにわざわざ学校に来てくれた岩泉は現在、部活中のバレー部の応援(という名の飛び入り参加)に行っている。
補講が終わったらお菓子を持って行く、と昨日電話で伝えると、「楽しみにしとくわ」と岩泉が嬉しそうに笑っていたのを思い出し、静香の足取りも自然と軽やかなものになる。

そして軽い足取りのまま、静香はバレー部が練習をしている第三体育館へやって来た。

しかし、ここに居るであろう岩泉を探して体育館内を見回すも、見覚えのある姿は見られない。
体育館でバレーをしている、と岩泉は言っていたはずなのだが。
おかしいなぁ…と首を捻り、静香が廊下の方を振り返ると、遠目に及川の姿を見つけた。

岩泉は確か、及川達と一緒に部活の応援に行くとも言っていた。
丁度良いタイミングで体育館付近の廊下に現れた及川に声をかけ、静香は早足にそちらへ向かう。

岩泉がどこにいるか知らない?と聞くつもりだったのだが、及川が両手に下げている綺麗な紙袋に視線を奪われ、第一声は別の質問になってしまった。

「それ…全部バレンタインのチョコ?」
「まぁね」

毎年食べきれないんだよねぇ、と言う及川の慣れた様子は、なんというか流石としか言いようがない。
告白をされ、チョコを貰い慣れているがゆえに余裕のある及川を眺めながら、静香は及川の彼女である友人のことが頭を過る。

先日、バレンタインコーナーで偶然有馬と出くわした後、そのまま流れで一緒にお菓子を作ることになった。
静香はカップケーキを、有馬は結局クッキーを作る事にし、二人掛かりであれやこれやと奮闘した。
お菓子作りを不安そうにしていた有馬だったが、クッキー生地を混ぜる手に力が入ってはいても、クッキーはそれなりに上手くいった。
オーブンの中のクッキーの焼き加減をじっと眺めている有馬の様子を、静香は好ましく思った。
焼き上がったクッキーを口に入れ、目を輝かせた有馬は、綺麗な袋にクッキーを滑り込ませ、今日買った包装紙で丁寧にラッピングをしていた。
彼氏に対してつっけんどんな彼女ではあるが、なんだかんだで及川の事が好きなのだ。
そして、この一生懸命な姿を及川に見せたいとも思った。

「本命からの手作りは貰えた?」
「…それはまだ。今日の夕方デートの約束してるから、その時に貰うつもり」

静香の質問にやや目を見開いた及川は、楽しそうにクスクスと笑い出し、口元を軽く握った手で隠した。

「うん…今のでなんとなく分かった」
「?」

何が「分かった」のだろう。
静香が首を傾げると、及川はフッと口を開く。

「栗原ちゃん、有馬と一緒にバレンタインのお菓子作ってたでしょ」
「…ああ」

そういうことか、と静香もここで納得をする。
有馬がバレンタインに手作りのお菓子を作るように仕向けたのは及川なのだ。
きっと彼女がお菓子など作り慣れていないという事も、この男にはお見通しだろう。
静香辺りに相談し、一緒にキッチンに立つ事も予想の範囲内だったのだ。
末恐ろしいと思う。
しかし、そんな策略を張り巡らせていた目の前の男は、思いのほか無邪気で嬉しそうに口元を緩めている。

「あー、デートが楽しみ」
「…回りくどい根回しする前に、及川は素直になる努力をした方がいいと思うよ」

そういう表情を、有馬にもっと見せてあげればいいのに、とも思う。
それに彼女を焚き付けるよりも、もっと簡単に愛情の籠った手作りお菓子を受け取る方法は、いくらでもあると思うのだ。
それを及川になんとなく伝えると、目の前の男は苦笑いを浮かべて視線を逸らした。
どうやら、回りくどいことをしている自覚はあるらしい。

及川が視線を逸らしたと同時に、持っている紙袋がガサリと揺れる。
その音を聞いてバレンタインのお菓子に視線を向けた静香は、ハッと当初の目的を思い出した。

「そうだ及川、岩泉どこにいるか知らない?」
「あー…。岩ちゃん達、今中庭の方にいるよ」
「中庭…?」
「そ。あそこにある自動販売機、限定品のゼリー入りジュース売ってるじゃない?あれ飲むついでに休憩に行ってるよ」

俺も途中までは一緒に行ってたんだけど、女の子に呼び出されちゃってさぁ。
モテちゃうのも辛いよね、なんて軽口を叩く及川に無反応でいると、「なんか反応してくれないと俺が恥ずかしいんだけど」と言って及川は急に真顔になった。

「最初から恥ずかしいでしょ。何を今更…」
「……最近さぁ、本当に思うんだけど。栗原ちゃんって岩ちゃんに似てきたよね?」
「…そう?」
「俺のウザ絡みに乗ってくれないところとかそっくり」

自分でウザ絡みの自覚があるのなら、やめればいいのに。
そう思いをこめて及川をじとりと見上げるも、及川はさっさと体育館の中に入って行き、入り口の端の方にバレンタインのプレゼントの山を置いた。
そして近場にいた後輩に声をかけ、「ここに荷物置かせて!」と伝えた後、静香の方に再び戻って来た。
どうやら及川も中庭へ向かうらしく、流れで二人一緒に目的の場所へ向かう。

「…そうだ、栗原ちゃん。いいこと教えてあげるよ」
「…何?」

及川のニヤニヤとした表情は、とても「いいこと」を言おうとしている人間の顔ではない。
しかし、もの凄く話したそうにそわそわとしている及川を見ると、「言うな」とも言えない。
無言で相槌をうち、静香は及川に先の言葉を促した。
そうしてこの男の口から吐き出された言葉はやはり、ろくでもないものだった。


「岩ちゃん、今日の今日まで『ポッキーゲーム』の事知らなかったんだって」

びっくりだよねぇ、と肩をすくめる及川の発言に、静香は二重の意味で耳を疑った。
びっくりだよね、と言いたいのはこちらの方だ。

ポッキゲームとは、1本のポッキーの両端を2人でくわえて食べ進めていくゲームのはずだ。
まず、何故岩泉が「ポッキーゲーム」を知らない、という話題に至ったなのか。
そしてそれを、何故楽しそうに静香に報告してくるのか。
いろいろと聞きたいところはあるが、静香は最も気になったこををまず口にした。

「…余計な事吹き込んだりしてないよね?」

良い意味でも悪い意味でも、岩泉は及川の影響を受けやすいのだ。
以前、及川から「壁ドン」について吹き込まれ、静香の寿命を縮めるように、思いつきで壁ドンを実行した岩泉である。
ポッキーゲームという知識を身につけた岩泉が、軽はずみに、そして気まぐれにそれを実行しないとは言いきれない。
特に最近は、故意にグイグイと距離を詰めて迫られているような気がするので尚更である。
またあんな心臓に悪い目にあう可能性があるのかと思うと、嬉しいような恐ろしいような、矛盾した感情に襲われる。
そんな静香の心境など、岩泉の長年の幼馴染みの及川ならば知っているはずなのだ。
しかしそれにあえて気づかないふりをして、及川は岩泉に『吹き込んだ事』を楽しそうに報告した。

「喜びなよ、栗原ちゃん。及川さんが気をきかせて、岩ちゃんにポッキー1箱渡しておいたから」

にっこり、という擬音をバックに背負って微笑みながら「楽しんでね!」と及川は親指をたてる。
それを見て、静香はその指をへし折りたくなった。
下世話な上に、余計なお世話である。

「前から言おうと思ってたんだけど、岩泉に変な入れ知恵しないでよ…」
「例えば?」
「例えば…?……ほら、壁ドンとか…」
「へぇ、岩ちゃんに壁ドンされたんだ」
「……」

完全に及川による誘導尋問である。
羞恥心を隠すように、真顔で口を閉ざした静香の様子を見て、及川はニヤリと嫌な笑みを浮かべる。

「いいこと聞いちゃった。今度岩ちゃんからかうネタにしよ」
「ちょっと、やめてよ…」
「いやでーす」

羞恥でうっすらと赤くなりながら抗議する静香など知った事か、と及川は鼻で笑う。

憎たらしい表情を向けられた静香が口元をひきつらせた、丁度その時。
及川の側頭部に握りこぶし大の何かが飛来し、パコンと音をたてて直撃した。
あだっ!と声をあげた及川の足下には、ぐちゃぐちゃに潰された空のパックジュースが転がる。

「何してんだお前…」

軌道の先には、ムスッとした様子の岩泉が立っていた。
及川とだらだらと喋っている間に、いつの間にか目的の中庭付近に辿り着いていたらしい。

「岩ちゃん、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てなきゃ駄目でしょ…!」
「かーちゃんか」

言われなくてもそうするつもりだ、と言って岩泉は自身が投げた空のパックを掴み上げる。
そして近場のゴミかごにぽいっと投げ入れてから、岩泉は静香の方に歩み寄る。

「また及川に何か言われたのか?」
「いや……まぁ…その…」

まさか岩泉が静香に壁ドンをした事をうっかり零してしまったなど、言えるはずも無い。
何でもないです…と静香は言葉を濁したが、岩泉は納得のいっていない様子で「ふーん」と呟いた。
岩泉からの「本当かよ」と言いたげな視線がいたたまれず、静香はスイと目を逸らし、心の内で謝罪する。
ごめん、岩泉。

「…ちょっと待って岩ちゃん、何食べてんの?」

静香と岩泉がじりじりとしていると、及川は岩泉の手に握られたものに視線を止めて口を開いた。
岩泉の左手には、開封済みの上に中がすかすか状態の赤いパッケージが握られている。
それが及川が岩泉に気をきかせて渡した例のポッキーであると、静香はすぐに分かった。

「あ?見てわかんねーのかよ」

岩泉はほとんど空になった箱を振ってみせる。
流石というべきか、岩泉は及川の意図を無視して、ポッキーを早々に胃袋に収めていた。
残り少なくなっているポッキーを3本抜き出し、同時に口に含んでぼりぼりと食べはじめた岩泉は、面倒くさそうに及川を見やった。

「…俺の気遣いは?」
「余計なお世話だボケ」
「……」

返す言葉もない、といった様子の及川に、静香は苦笑いを浮かべる。
及川がどういった意味で岩泉にポッキーを渡したのか、静香が知っている事を岩泉は知らない。
それをなんだか残念なように思いながら、とりあえず岩泉のこの様子ではポッキーゲームに影響された気配はないことを確認する。
及川に見せつけるようにポッキーを食べている岩泉を眺めながら、静香は心の隅で安堵した。

「…あれ、そういえばマッキーとまっつんは?」

ふと、ここにいない他の二人の事に思い至ったらしい及川は、きょろと周りを見渡す。
そういえば、ここに岩泉しかいないのは何故だろう。
及川と静香の当然の疑問を聞き、岩泉は言いにくそうに言葉を濁して、中庭の奥の方に視線を向けた。


「あー…。ジュース買いに来たら、花巻が女子に呼び出されてよ…」
「…え?」
「多分今、奥の方で告白されてる。で、松川は見届けるとか言って、あっちの校舎の影に居る」
「うっそ、まじで!?」

俺も見たい!と言い出した及川は、目を細めて中庭の奥の方に視線を凝らす。
そうして花巻がどの辺りにいるのか確認した後、松川が隠れているだろう校舎裏へ回り込む。
及川につられて、静香もつい中庭の奥の方を覗いてみる。
木の影になって良く見えないが、花巻の向こう側にいる女の子がいるのが分かった。
手に何かを持っているようで、それを勢いよく花巻に差し出している姿が確認できる。
言わずもがな、バレンタインのチョコレートである。

そわそわ、と落ち着き無く及川が歩いて行った方に視線を向けていると、「見に行きてぇの?」と岩泉は苦笑いを浮かべた。

「…正直、ちょっと気にならない?」
「……まぁな」

気になる、と静香の顔に書いてあるのを読み取り、岩泉は少しだけおかしそうに笑った。
分かりやすい奴だなぁ、と言いたげな顔をする岩泉は、ポンと静香の背中を押して、及川が向かって行った方に歩き始める。
どうやら、岩泉も覗きに参加するらしい。
その後を静香も慌てて追いかけ、岩泉と二人して中庭の様子が伺える校舎裏に足を運ぶ。

裏口のドアを抜け、中庭の方を見れば、校舎影から様子を伺っている松川と及川を見つけた。
図体の大きい男二人が、狭そうに壁に沿って立っている後ろ姿は、なんとも言えないものがある。

「やっぱり…。あの子、マッキーが気にしてた子だよね…?」
「そうそう。女の子の方も花巻に脈ある気がしてたから、予想通りって感じだわ…」
「だよねぇ」

しみじみとそんな事を話している及川と松川に視線を向け、「そうなのか?」と岩泉だけが首を傾げている。
その発言に対して「えぇ…?」と言いたげな表情を浮かべる及川の隣で、松川は「流石岩泉だわ」とある意味感心していた。
この会話を聞いただけで、静香には状況が手に取るように分かる。
花巻といい感じの女の子がいた事を、岩泉だけが分かっていなかったらしい。

「岩ちゃん察し悪過ぎでしょ。こんな調子じゃいつか栗原ちゃんに捨てられちゃうかも…」
「まぁ、ああ見えて栗原さんの関係の事には敏感だから大丈夫だろ」
「…おい、聞こえてんぞ」

こそこそ、と話している二人の会話は、ばっちりと岩泉と静香の耳に届いている。
ぎくりと居心地悪くなっている静香を他所に、岩泉は二人の背中に軽く蹴りをかました。
岩泉の蹴りをくらったせいで、及川と松川は体勢を崩し、足下の草を踏んで物音をたてる。
その気配が中庭にいる花巻に伝わったらしく、花巻は不意にこちらに視線を向けた。

「やばい、静かにして。気づかれちゃう…!」
「いや、もう気づかれてるだろ」

体勢を崩したまま、静止して小さな声でそう言う及川に、岩泉は最もな事を口にした。
しかし、この場にいる人間全員がその事実を理解していても、反射的に「ここには誰もいない」という風を装っていた。
10秒程静寂が流れた後、中庭から話し声が聞こえてきて、野次馬4人は何故か安堵し、覗き見を再開する。

「…マッキー、めちゃくちゃ嬉しそうだね」
「結果は見えたな…」
「今晩は赤飯だね」
「花巻の母ちゃんに電話しねーとな」
「…誰かマッキーママの携帯の番号知らない?」
「俺知ってる」
「何で知ってんの?」

楽しそうに妙な企ての相談をしている及川と松川の後ろで、静香はそわそわと中庭の様子を伺おうとしていた。
人の告白の現場を見るのは無粋だと分かってはいるが、どうしても好奇心が湧いてしまう。
しかし、前にいる大男ふたりに隠れて上手く様子が確認できず、暫くして静香は覗き見を諦めた。

そうして静香はしょうがなく、及川達から1メートル程離れた校舎の壁に背中を預けている岩泉の隣に移動する。
残念そうな表情をしている静香を認めて、岩泉は呆れたように口を開いた。

「…お前も野暮だな」
「…ここにいる岩泉も人の事言えないでしょ」

岩泉を見上げ、静香はトンと岩泉の肩に自身の肩をぶつけて抗議してみせた。
「仰る通りで」と返答した岩泉は、校舎の壁にもたれたまま、左手に握っているポッキーの箱をごそごそと漁った。
残り2本しかないチョコレートを纏った棒を抜き出し、岩泉はそれをじっと眺めてから、おもむろに静香の方に顔を向けた。


「お前もいるか?」

岩泉は抜き出した1本のポッキーを、静香の口元に差し出した。
え?と静香が間抜けな反応を示しても、岩泉の態度は特に変わる事なく平常のままだ。
チョコのついた棒を口元に持って来るということは、このまま食べさせてくれるということでいいのだろうか。

それを伺いながら迷っていると、岩泉は「早くしろ」とばかりにポッキーをプラプラと振る。

そんな岩泉の催促の後、静香は恐る恐るポッキーを口に含んだ。
所謂あーん、というものをされているような気がして少し恥ずかしいが、岩泉はそんなに深く考えていないのだろう。

パキリ、と口に入れたポッキーを1度噛み砕くと、それを持っていた岩泉の手がスルリと離れる。
口の中にチョコの甘さが広がり、それをもっと味わおうと静香が舌を動かした時、岩泉は唐突に静香の顎をクイと持ち上げた。

「なに?」の「な」の字が静香の脳に過るよりも先に、岩泉はそのまま、静香のくわえたポッキーの先にかじりついた。

急激に近づいた顔と顔の距離、1本のポッキーを二人でくわえているこの状況。
更に追い打ちをかけるように、静香の視界の端には、及川と松川の後ろ姿が伺えて硬直する。

岩泉には散々に不意を打たれてはいるが、静香はそれなりに岩泉の突飛な行動に慣れているつもりだった。
今日の及川の発言により、いつか思い出したかのようにポッキーゲームのまねごとをやりだすかもしれないとはうっすらと思っていたが、まさか数分後にこんな大胆なことをされるとは思いもしない。

静香が呆気にとられて硬直している事など分かっているくせに、岩泉は神妙な顔でパキリとポッキーを食べ進める。
パキパキと棒を噛み砕きながら、静かに静香の様子を眺めていた岩泉は、あと一口で唇が触れ合う寸前で動きを止めた。

呆気にとられたままの静香は、目の前に迫る岩泉と見つめ合う。
やや目を細めた岩泉に「どうする?」と視線で尋ねられているような気がして、静香は心の内で「あぁ…」をため息をついた。

どうするもこうするもない。
ここまできたのならいっそ、最後まで。

じわりと赤くなりながら静香はゆっくりと目を閉じ、口に含んだポッキーをほんの少しだけ食べ進め、岩泉に意思を示した。
静香が距離を縮めた事を確認し、岩泉は残りのポッキーを一息に口に含み、同時に唇同士を重ね合わせた。

「あの子、進路はどうなの?」
「詳しくは知らないけど、大学進学って花巻が言ってたような…」
「そっか…。どこの大学行くんだろ。県外だったら付き合い始めて早々に遠距離だよね…」

及川達が花巻の今後の交際事情について心配している背後で、岩泉に柔く唇を食まれた静香は背筋をぞくりとさせた。
二人が近くにいるというのに、こんなことをしてきた岩泉にもだが、それをすんなり受け入れてしまった自分にも衝撃だった。
軽く触れるようなささやかなキスだというのに、酷くいやらしい事をしているように感じて、静香はくらりと目眩がした。

そうして重ねた唇は早々に音も無く離れ、岩泉は何食わぬ顔で校舎の壁に背中を預け、正面を向く。
ボリボリとポッキーを咀嚼している音だけが、この静寂に響く。

「ちょっと君たち、ポッキーの音うるさい」
「へーへー」

不満そうに一瞬振り返った及川は、適当な対応をする岩泉に視線をくれただけで、すぐに中庭の花巻達に視線を戻す。
硬直して俯いている静香に気づかぬ及川は、「マッキーにあの子のこともっと詳しく聞かなきゃね」と意気込んでいた。
まさか及川も、自分がけしかけた「ポッキーゲーム」が背後で行なわれたとは思いもしないだろう。
こちらの様子に気づいていない及川と松川を確認し、岩泉は小さな声でぼそりと呟く。

「…なぁ、ポッキーゲームって知ってるか?」

そして極めつけに、この質問である。
まじまじとそんな事を言ってのける岩泉は、今日本当にポッキーゲームという知識を身につけたのだろう。
「知ってるよ馬鹿」、と静香は八つ当たり気味に岩泉の肩に軽く頭突きをした。
それは静香にとって、ほんのささやかな悪態だった。
それに大して動じることなく、岩泉はマイペースに最後の1本になってしまったポッキーを袋から引き抜く。

「んだよ…、知らねーの俺だけかよ…」

不満そうにそんなことを言っている岩泉であるが、文句を言いたいのはこちらの方だ。
隣から聞こえる控えめな咀嚼音を聞きながら、静香はズルズルとしゃがみ込む。

その際にガサリと揺れた紙袋の中のバレンタインのお菓子が視界に入り、静香は今日本来の目的をやっと思い出した。


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