もういっそ食べて
3月中旬。
今日から静香の両親は、出身地で行なわれる同窓会に参加するため家を空けることになっていた。
「留守番お願いねー」と言って手を振る二人を見送り、静香は一人家に戻って早速、身支度を始めた。
留守番を頼まれて早々に申し訳ないが、静香はこの日岩泉の新居に遊びに行く約束をとりつけていた。
どこかへ遠出したいところではあったが、岩泉の方に急遽予定が入り、デートの待ち合わせ時間は夕方近くとなった。
どこかに出かけるにしても微妙な時間になってしまい悩んだ結果、岩泉の家で夕飯を一緒に作って食べることにした。
「映画か何か見に行くか?」と申し訳なさそうに言う岩泉であったが、静香としては一緒に夕飯を食べるというだけで一大イベントだった。
岩泉の新居での夕食会の買い出しも兼ねて、スーパーで待ち合わせる。
岩泉と落ち合った後、静香は浮かれるままに精肉コーナーで肉のパックを選んでいた。
もはや旦那様と買い物にやってきた新妻の気分である。
「静香、これも買おうぜ」
買い物かごをいれたカートをガラガラと押している静香の元に戻って来た岩泉は、片手にお菓子の袋、もう片方にはペットポトルのジュースが握っている。
ポイとそれをカゴに放り込み、岩泉はさり気なく静香が片手をかけていたカートを持っていく。
「晩飯何にすんの?」
「ブタの生姜焼きなんてどうかな、あと揚げ出し豆腐も」
カゴの中に入った豆腐を持ち上げてみせると、岩泉は「いいな」と表情を明るくする。
岩泉の好物にお肉とくれば喜んでくれるだろうと思っていた静香は、岩泉のこの反応にホッとする。
会計を済ませてから、二人で買い物袋を下げて歩いていると、本当に新婚さんのようで、静香の表情筋は相変わらずだらしない。
そうして買い物を済ませ、岩泉の新居に訪れた静香は部屋に入って早々、隅に積まれたダンボールに目を止めた。
引っ越しの手伝いをしてから1週間程経っているというのに、整理しきれなかったものがそのまま放置されていたものだから、静香は疑問を口にした。
「ねぇ、この前から部屋の様子が全く変わってない気がするんだけど…」
「変わってねぇからな」
未だ整理のついていない荷物を眺めながら、岩泉は腕組みをして開き直った。
引っ越しの時に「後は俺がやっとく」などと言っていた岩泉であるが、結局その作業に手をつけていなかったようだ。
きっと片付けるのが億劫になったのだろう。
箱の中身を見ると、食器などの台所用品が多く残っているようだった。
どうやら、この1週間は、必要な食器のみを取り出して生活をしていたらしい。
他の箱には、服や本などが詰め込まれたままになっている。
「もう…。折角だから、整理しようよ」
「いや…それは別に後でも…」
「駄目だよ、先延ばしにしてたら、ずっとこのままになるかもしれないでしょ」
「……」
返す言葉もない、と言わんばかりの表情を浮かべる岩泉は、買って来たものを冷蔵庫にしまい、荷物を広げはじめた静香の近くに座る。
適当にダンボールを近場に引き寄せ、岩泉は中に入っている本やノートを取り出し、中身をパラパラと捲った。
「…何で俺、歴史の資料集なんて持って来てんだろ」
「…さぁ」
荷造りは自分で行なったはずなのに、何故この分厚い本を持って来る事にしたのか思い出せないらしい。
別の本と間違えたのか…?と首を傾げながらも、岩泉は歴史の本をとりあえず本棚にしまった。
バレーに関する雑誌が並ぶ中、学校の歴史の教科書だけが異質で浮いていた。
書籍の整理を進めていく岩泉を横目で確認してから、静香は黙々とダンボールにしまってあるお皿やコップなどを取り出し、机の上に並べていく。
新品の無地の小鉢や、使い込まれているであろう恐竜の描かれた平皿など、食器を整理していると、ふと見覚えのあるものが箱から出てきた。
「あれ、このマグカップ…」
つるりとしたマグカップを手に取り、静香は陶器の上に指を滑らせる。
この白いカップの側面には、白ヤギと黒ヤギの郵便屋さんの手描き風のイラストが描かれている。
クリスマスの時だっただろうか、岩泉と日用品を見て回った時に、静香が「欲しいなぁ…」と零したマグカップと同じものだった。
静香の呟きに反応して振り向いた岩泉は、白いマグカップを認めて「ああ…」と見当がついたように声を漏らす。
「…そうそう、これな」
ニッと悪戯っぽく笑った後、岩泉はまだ整理しきれていないダンボールから黒い固まりを取り出し、それを手にはめてみせた。
ぱくぱく、と口元が動いているそれは、静香が岩泉にプレゼントした黒ヤギの郵便屋さんのパペット人形だった。
「遅くなって悪いんだけど、大学合格祝いだ。これのお返し、な」
静香の手にあるマグカップを指して、岩泉は黒ヤギのパペット人形を揺らしてみせる。
そんな岩泉に視線を向けてから、静香は「自分は幸せ者だなぁ…」と漠然とした幸福感に包まれる。
更に、静香の手の中にあるものと色違いの黒いマグカップも出ててきたうえ、「それ俺の」と岩泉が言うものだから、静香の喉元まで熱い何かががこみ上げてくる。
「ありがとう…」
こうして静香が欲しがっていたものを覚えていてくれたこと。
そして、プレゼントしたものを引っ越し先にまで持って来てくれていたことも、凄く嬉しい。
「こんな渡し方になって悪いな…」と言う岩泉は、ダンボールにマグカップを入れていたからこそ、静香が荷物を整理しようと言った時に渋ったのかもしれない。
空気が読めなかったなぁ…と少し反省していると、岩泉はパペット人形を手から外して、本棚の空いたスペースに黒ヤギを座らせた。
その途中に本棚の近くに置いてあったリモコンが落ちそうになっている事に気づき、ついでにそれを置き直した岩泉は、ふとテレビに視線を向けて動きを止める。
「そういや今日…なんかの映画の放送あるって言ってたな…」
「何だっけ…」と言う岩泉の呟きに心当たりがあり、静香はマグカップから視線を上げる。
最近CMで散々に放送すると告知のあった、去年話題になったファンタジー映画の事が言いたいのだろう。
唸っている岩泉にファンタジー映画のタイトルを伝えれば「そうそう、それ」と納得がいったようだった。
「見たことあるのか?」
「ううん。でも去年凄く流行ってたよね…」
「なんかCGがすげぇらしいな」
そう言ってテレビをつけた岩泉は、番組表を開いて映画の放送時間を確認する。
パッと表示された番組表の中央辺りに、件の映画のタイトルが表示されていた。
あの話題作がついに地上波初登場!などという紹介文が書かれた番組の枠は、今日の夜9時から11時までの2時間らしい。
「折角だし、見るか?」
「そうだね…。あ、でも11時まで家にいて大丈夫?」
「おー。明日は予定もねぇし問題ねーよ」
適当にテレビのチャンネルを変えてから、岩泉はテレビのリモコンを机の上に置いた。
そうして再び本の整理を始めた岩泉は、静香に背中を向けるような体勢ででダンボールの中身を取り出す。
「あー…でも、帰り遅くなって平気か?」
「大丈夫大丈夫。明日の夜までお父さんもお母さんも家に帰って来ないし、私も明日特に予定無いから」
「…でも、時間も時間だろ。送る」
「えぇ…それは悪いよ」
ここから静香の家までは、大した距離があるわけでも無い。
送って貰う程のものではないと静香が言うと、岩泉は「うーん」と唸った。
トントン、と本の束を整えて棚に置いた後、岩泉は次は厳選して持って来たであろう漫画を手に取り、ぱらぱらとめくる。
「それか…泊まっていくか?」
暫しの沈黙の後、さり気なく投下された言葉ではあったが、その内容に静香は一瞬息を飲んだ。
パラパラと漫画のページがめくられる音だけが狭い室内に響く間、静香はガチリと固まる。
それはどういう意味なのか、恐る恐る岩泉の方に視線を向けるが、こちらに背中を向けているために表情は伺えなかった。
しかし、岩泉は先程から大して変わった様子も無く、黙々と少年漫画を巻数順に並び替えている。
もしかして、意識しているのは私だけなのだろうか。
いかがわしい事を考えていた自分が急に恥ずかしくなり、静香はそれを悟られないために、咄嗟に返事をした。
「いいの…?」
「おー」
「…じゃあ、そうしようかな」
流れるようにあっさりと岩泉の家に泊まる事が決まり、静香はぼんやりと手の中の食器に目を落とす。
新聞紙に厳重に包まれたお皿の白さと同じように、静香の頭の中も真っ白になった。
二つ返事で答えてしまったが、これはどう考えても…あの可能性があるということにしかならないのではないか。
岩泉がこちらを見ていないのをいいことに、静香はやや背中を丸めて俯く。
じんわりと顔に熱が集まるのは仕方が無いと思いながらも、脳裏に過ったのは、薄暗い部屋でベッドに沈む自分と岩泉の姿だった。
あまりにダイレクトな想像をしてしまった恥ずかしさと罪悪感に、静香はぶんぶんと頭を振る。
何を考えているんだ…!と言い聞かせてみたものの、あながち間違いでも無さそうな状況に、静香は内心困り果てる。
いつだったか、お前の受験が終わるまでは手を出さない、と言ったのは岩泉だ。
「手を出す」というのがどういう意味を孕んでいるか分からない静香ではない。
そして今現在、静香の受験は終わり、ここは岩泉が一人暮らしをする新居で、静香が今日一晩泊まったところでお互いに特に問題がないわけなのだ。
驚く程に、何の障害も無い。
このあまりの好条件に、静香はどこか泣きそうになる。
嫌なわけではないのだが、いざその可能性に直面すると、どうすればいいのか分からない。
こんなに意識してしまっている自分の方がおかしいのではないのかと、静香はぐるぐると思い詰める。
「…なぁ」
静香が一人混乱していると、ふいに岩泉に声をかけられた。
ダンボールの中身の整理を終えたらしく、空になったダンボールを崩して折り畳んでいる岩泉の表情は、相変わらず伺えない。
「今さ…俺の家…来客用の布団とか、ねぇんだけど…」
ぼそぼそ、とそんな事を言う岩泉のこの発言に一瞬首を傾げた静香だったが、その真意に気づいて硬直した。
台所やお風呂、トイレを除いた岩泉の部屋にあるのは、本棚やラック、カラーボックス、中央にあるローテーブル、テレビ、パソコン、ベッドくらいである。
この室内のどこをどう見ても、就寝できる場所はひとつしかない。
恐らく、岩泉のこの発言は、遠回しな確認も兼ねているのだろう。
静香からは岩泉の表情は見えないが、先程からじっと固まったまま動かないので、あちらもあちらで緊張しているらしい。
それに少しホッとはしたものの、静香の心臓は順調に高鳴り始めている。
気恥ずかしい沈黙が二人を包み、お互いになんと声をかけたらいいのか悩んでいるのが手に取るように分かる。
そうして暫くの沈黙の後、静香はなけなしの勇気を振り絞った。
「…一緒に寝てもいい?」
ズルズルとフローリングの上を滑りながら移動し、座ったまま動かない岩泉の背中にもたれ掛かるように肩を預けると、岩泉はびくりと体を震わせた。
あからさま過ぎただろうか…と静香は自身の発言に不安になる。
岩泉の背中に持たれたまま頬を寄せ、岩泉の心臓の音を聞くために耳をそばだてて、様子を伺う。
私一人がドキドキしているなんて、とてつもなく恥ずかしいじゃないか。
「…お前、アホなんじゃねーの」
不意に岩泉が振り返ったせいで、背中に寄りかかっていた静香は体勢を崩す。
背後に倒れかけた体を、右手で反射的に支えたものの、その右手を岩泉が掴んで引気上げた。
支えを無くした静香の体は、そのままフローリングに押し付けられる。
静香の顔の横にギッと手をついた岩泉は、神妙な顔で静香を見下ろした。
まるで閉じ込められているように錯覚してしまうこの状況で、岩泉の目には仄かな熱が籠っている。
「分かってんのか」
「…うん」
「…嫌っつっても、逃がさねぇぞ」
「…逃げる気ないから、大丈夫」
フローリングについている岩泉の手に頬を寄せると、岩泉は眉間にぐっと皺を寄せた。
ぎり、と歯ぎしりをしているようにも見える表情のまま、岩泉は静香の肩口に顔を埋め、耳元でぼそりと囁く。
「何するかわかんねぇぞ」
「…岩泉になら、何されてもいいよ」
「………煽んな」
すげー殺し文句だぞ、と文句を言う岩泉は、フローリングに背中をつけている静香に覆い被さったまま動かない。
その状態のまま、そっと岩泉の背中に腕を回そうとした静香だったが、「やめろ」という岩泉の静止の声に、上がりかけた腕を下ろす。
「…ちょっと待て…今何かされたら襲いそうだ」
ふぅー…と自身を落ち着かせるように長く息を吐いた後、岩泉はゆっくりと静香の上から退いた。
そしてフローリングに倒れた状態の静香の腕を引いて起こし、二人して顔を見合わせる。
先程までのやりとりの事もあり、既にゆでダコ状態の静香をまじまじと見ながら、岩泉は照れくさげにカラリと笑った。
「相変わらず、いい反応するな…お前」
「……岩泉は、もうちょっと照れてもいいんじゃないの?」
そりゃあ少しは恥ずかしいようだが、静香よりは随分と余裕そうに見える。
むっとして岩泉を睨み上げたところで、岩泉は嬉しそうにするだけだった。
そうして自身が整理していたダンボールの中がが空になったので、岩泉は静香が机に並べた食器を手に取る。
どうやら台所に持って行ってくれるらしい。
「よし…。さっさと片付け終わらせて、飯食おうぜ。で、映画見て……続きな」
続き、と強調する辺り、岩泉は意地が悪い。
再び硬直した静香に気づかないふりをして、岩泉は部屋に背を向けて台所へ歩いて行く。
本当に、あの男のやる事全てが心臓に悪い。
こうして静香が幾度も思い知らされた事に嘆いたところで、結局どうにもならないのだ。
この後、二人でキッチンに立ち、ブタの生姜焼きに揚げ出し豆腐、味噌汁などを分担して作って夕飯にありついた。
味噌汁を飲む岩泉を盗み見ては、静香は必死ににやけそうになる口元をひきしめる。
ああ、本当に結婚した夫婦みたいだ…とじんわりと噛み締めていると「味噌汁うまいな」などと岩泉が言うものだから、静香は有頂天になる。
始終機嫌良くニコニコしていたせいか、岩泉は呆れたように「お前、表情筋ひきしめた方がいいんじゃねぇの?」と笑って箸を置いた。
「ごちそうさま、旨かった」
そう言ってもらえるのが、こんなに嬉しい事だとは思わなかった。
そうして夕飯を済ませた後片付けを済ませ、映画が始まる前に風呂に入っておこう、というタイミングで別の問題が発生した。
「静香、寝間着これで大丈夫か?」
「…大丈夫です、ごめん…」
まさか今日泊まる事になるとは思いもしなかったので、静香はパジャマも替えの下着も準備などしていなかった。
下着はお風呂に入る前に洗って、乾燥機にかければ直ぐに乾くようなものだからまだいい。
しかし、服となると乾かすのに時間もかかる上、何より寝るには窮屈である。
そこには岩泉も思うところがあったらしく、ラフなTシャツと、スウェットのズボンを探し出し、パジャマとして貸してくれた。
ドキドキしながらそれを受け取りお風呂に入りながら、静香は刻々と近づく夜に、心臓を吐き出しそうになる程に緊張しはじめていた。
どうしても脳内から離れないピンク色のイメージを誤摩化すように「これでもか!」というくらいに念入りに体を洗いあげたせいで、気持ち体がひりひりとした。
お風呂から出て、乾かし終えた下着を身につけ、岩泉から借りた寝間着に腕を通すだけで絶命てしまいそうである。
「……岩泉、お風呂ありがとう」
「おー…」
静香が風呂に入っている間、適当なバラエティ番組を見ていた岩泉は、ゆっくりと立ち上がる。
そうしてクローゼットから着替えを引っ張り出し、風呂に向かおうとした岩泉だったが、静香の格好に目を止めて静止した。
岩泉一という男は、及川達バレー部の面々の中に混ざると「背が小さい男」に分類されてしまう。
しかし、ほぼ180に近い身長は、平均的な男性から見ても非常に高身長の方に分類される。
そんな岩泉が普段着ている服が静香に合うはずも無く、借りたTシャツはぶかぶかで、首もとと肩口もかなり緩い状態になっている。
自身の服を身に纏ったせいで、なんともいかがわしく見えてしまう格好の静香を、岩泉は無言でまじまじと眺める。
「………」
「…あの…岩泉…」
あんまり見られると恥ずかしいんだけど…、と静香がもじもじとして俯くと、岩泉はハッとして「悪い…」と慌てて謝罪をした。
そうしてそそくさと風呂場へと直行していく岩泉を見送り、静香はへなへなと座り込む。
これは今日、本当に大丈夫なのだろうか。
ドキドキしすぎて死んだりしないよね?と携帯でネット検索をかけてしまうくらいには、静香は冷静でいられななかった。
挙げ句の果てには、この空間にいる事が真に受けられなくなり、部屋の隅の狭いスペースに身を潜める始末である。
「…何してんだお前」
風呂から上がった岩泉が呆れる程度の奇行である。
「狭い所って落ち着くよね……」
「………」
あはは、とかなり無理のある言い訳をしている自覚はある。
しかし、何かをして気を紛らわせていないと落ち着かないのだ。
静香が現実逃避をしているのを察してか、岩泉は無言で静香をじっと見下ろす。
気まずい沈黙が二人の間を流れた後、岩泉はハァと息を吐きだしてから首裏を掻いた。
「…静香」
狭いところに身を潜める静香の前にしゃがみこみ、岩泉は「ん」と言って両手を広げてみせた。
それが「来い」という岩泉の合図であることを知っている静香は、一瞬目を見開く。
じっと静香を見つめる岩泉の短い髪は、未だ水分を含んでいるせいか、しっとりと落ち着いていて普段と少し雰囲気が違って見える。
「オラ、来い」
まるで飼い犬を呼ぶような発言に静香は暫しとまどったものの、岩泉に抱きしめて貰えるのなら、と静香はおずおずと狭いスペースから抜け出した。
そうしてぼすりと岩泉の腕の中に収まり、お風呂上がりの温かさと石けんの匂いをスンと嗅ぐ。
及川がこの場にいれば「栗原ちゃんってちょろいよね」と馬鹿にしたように言うことだろう。
落ち着かせるようにトントンと背中を軽く叩かれ、これではまるであやされているようだと、自身の余裕の無さに申し訳なくなった。
「ごめんね、岩泉…」
「…気にすんな、まぁ…仕方ねぇよ」
罪悪感でいっぱいになりながら岩泉にすり寄った静香のその仕草が、密やかに岩泉のスイッチを踏み抜く。
静香の頭を撫でながら、岩泉はそろりと机の上に置かれたリモコンに視線を向ける。
腕を伸ばしてリモコンを手に取り、テレビ画面を操作して番組表を開いた後、今日見る予定の映画の欄を選択する。
控えめにカチリと録画のボタンを押した岩泉に気づかず、静香はべったりと抱きついたままだった。
「静香」
「…何?」
「悪い、映画は無しだ」
え?と静香が言う前に、岩泉はあろうことか静香を抱き上げた。
急に感じた体の浮遊感に驚いてしがみつくと、岩泉は楽しそうに口端を上げる。
「どうせ集中できねぇだろ」
岩泉のこの発言には、これから何をしようとしているのか感じさせない爽やかさがあった。
全く持って最もな事を言われ、静香は返す言葉もない。
そして更に驚いた事に、静香を抱き上げた状態で、岩泉はくるりと一回転してみせた。
小さな子供をあやすような所作に言葉すら出なかったものの、静香の肩の力は自然と抜けていく。
ふざけてみせた岩泉に何か言ってやろうと口を開きかけた時、岩泉の行動の真意に思い至り、静香はなんだか泣いてしまいそうになった。
ああ、緊張を解そうとしてくれているんだ。
けらけらと笑う岩泉に腕を回したまま、静香はじわりとこみ上げてくる熱いものに息を詰まらせる。
岩泉の優しさに触れていると、嬉しい反面、強烈な切ない気持ちに襲われる。
大事にして貰っているのだと思わせてくれる恋人に、静香はこの感謝と喜びを、同じようにに伝えたいと思う。
そうして岩泉が実感して、いっそ泣いてしまうくらいに、自分の想いも思い知って欲しい。
急に黙った静香を不審に思ったのか、岩泉は不安げに「どうした…?」と問う。
自分が何かしてしまっただろうか、と思考を巡らせているだろう岩泉にしがみついたまま、静香はゆっくりと口を開いた。
「はじめ」
「…は、」
「好き」
目を見開いた岩泉に唇を寄せてキスをし、「大好き」と囁くと、岩泉は呆気にとられた後、ふっと柔らかく笑った。
こんな風に穏やかに笑う岩泉を見たのは、初めてかもしれない。
「…もう1回言ってくれ」
「はじめ、好きよ…好き、好き…」
以前岩泉も、静香にたくさん好きだと言ってくれたことがあった。
あの時は恥ずかしくて頭がどうにかなってしまいそうだったが、とてつもなく嬉しかったことははっきりと覚えている。
照れくさげににへらと笑っている岩泉も、きっとあの時の静香と同じ気持ちだ。
好き好き好き…と呪文のように唱えていると、岩泉は救い上げるようにキスをして静香の言葉を遮った。
塞がれた言葉は耳には届かないが、未だ静香の心の内では愛の言葉で溢れている。
「…俺も好きだよ」
顔をほんの数センチ程離したところで、岩泉は囁く。
「静香、俺のものになってくれ」
そう言ってもう一度くるりと回ってから、岩泉はゆっくりと静香をベッドに下ろした。
視線を合わせて唇を重ね、お互いに強く抱き合って、相手の体を確かめるように手を這わせる。
どこかで教わったわけでもなく、こうしてお互いを求めるこの行為は、本能そのものだ。
キスの合間に「電気を消して」と静香が小さくお願いをすると、岩泉はぺろりと静香の唇を舐めてから、
無言で立ち上がった。
机の上にあったリモコンを手に取りテレビを消して、その後部屋の電気を落とす。
放り投げるようにリモコンを机の上に置き、岩泉はずかずかとベッドに戻って来た。
そうして、ドサリと静香の隣に腰掛けた岩泉は、おもむろにTシャツを脱ぎ捨てた。
目が慣れるとわりとよく見える程度の暗闇の中、あらわになった引き締まった上半身に目を奪われた。
体を惜しげ無くを晒したまま、岩泉はこちらに向き直り服に手をかけてくるものだから、静香はビクリと肩をはねさせた。
「静香、腕上げろ」
「…うぅ」
妙なうめき声を漏らしながら、静香は目を閉じ、観念したように両腕を上げた。
するりとお腹からTシャツの生地が滑り、岩泉にTシャツをひっぱり脱がされる。
下着のみとなった上半身を晒すことになり、静香は羞恥で胸元を隠す。
脱がせたTシャツを適当に放り投げ、岩泉は下着姿の静香をじっと眺める。
「…あ…あんまり見ないで…」
「……いや、無理だろ」
フッと笑いながら、岩泉は静香の剥き出しの腰を引き寄せ、自身の胸の内に引き寄せた。
剥き出しの肌同士が触れあい、普段抱きしめ合った時とは違う感触と熱を分かち合う。
自分とはつくりの違う男の体に恐る恐る腕を回し、静香はそっと頬を寄せる。
とくとく規則的に鳴ると心臓の音を聞いて安堵の息をつくと、岩泉の手がするりと腰から背中へと滑り、静香の下着の留め具に辿り着く。
不穏な手がどうするつもりなのか察した静香は、ぎゅっと岩泉に抱きつき、されるがままに身を委ねる。
留め具の下に指を滑り込ませ、かみ合ったホックを外そうとした岩泉だったが、思った以上に上手くホックが外せず、悪戦苦闘する。
10秒程お互いに無言の時間が流れ、その間静香は、背中でせわしなく動く手の気配をすっと感じていた。
「…くそ」
かっこつかねぇ、と悔しそうに零す岩泉の声が耳元で聞こえ、静香は思わずくすくすと笑う。
岩泉も緊張しているのだと思うと、途端に安堵の気持ちがこみ上げる。
こういうことをするのが初めてなのはお互い様なのだと、じわじわと実感して口元が緩む。
「……随分と余裕だな」
笑っている静香を追いつめるように、岩泉はぼそりと囁いてから、静香の胸を覆う下着のホックをパチンと外した。
途端に胸回りの締め付けが緩くなり、先程まで笑っていたはずの静香は急に大人しくなる。
腕の中の彼女が黙り込んだ事に口端を上げ、岩泉は静香の背中を大きな手のひらで撫でる。
ここにあった胸を覆う橋はもう無いのだと、思い知らせるようになぞってから、ゆっくりと静香をベッドに押し倒した。
背中に柔らかい感触を感じ取ると同時にキスを落とされ、静香はぎゅっと目を閉じて岩泉の首に腕を回す。
服を脱ぎ去って抱き合っているせいか、雰囲気のせいか、キスも重ねるだけでは飽き足らず、舌を絡めてた互いを侵食する。
緩くのしかかってくる岩泉の重さすら愛おしく、静香は覚束ないながらもキスの嵐に必死に応える。
そうして暫くキスの応酬を繰り返し、やっと唇を解放された時には、静香は息も絶え絶えになっていた。
静香の顔を挟み込むように肘を付いて覆い被さったままの岩泉は、自身が組み敷いている恋人が呼吸を整えている様を眺めながら、頬をするりと撫でた。
「すげぇ眺め…。目に毒って、こういうのを言うんだろうな」
「…馬鹿」
はぁ、と熱い息を吐いて見上げた岩泉の表情は、獲物を目の前にした獣のようで、静香は背筋をぞくりとさせた。
これまで大事に大事にとっておいたものを今日という日にじっくりと食い尽くしてやろうと、うっとりとこちらを見下ろす視線には、熱も愛も欲望も、全てがないまぜになっている。
今夜この人のものになるのかと思うと、静香はたまらない程の幸福感に襲われた。
「…何だか岩泉も色っぽくて、見てられないや」
「…そうか?」
再び唇を重ねながら合間でそう言えば、岩泉はニッと笑った。
やっていることは酷くいやらしいのに、その笑顔はどこか悪戯を思いついた子供のような無邪気さを孕んでいて、とても今の雰囲気とは噛み合っていない。
しかし、静香の胸を高鳴らせるには充分過ぎる程に様になるのだから、困ったものだ。
「好きなだけ見てろよ。お前になら大サービスしてやっから」
「何それ…」
クスリと笑った静香だったが、見上げた岩泉の目の奥に揺れる熱を確認して、途端に口を閉ざす。
空気が変わったことが、嫌でも分かった。
赤くなって萎縮した静香を認めて岩泉はニヤリと笑い、未だ静香の肩にひっかかったままの下着の紐と肌の間に指を滑り込ませた。
「…俺は見てぇし、触りたい。お前の体の隅から隅まで、全部」
静香の心を手中に収める岩泉は、視線だけで雄弁に語る。
今度はその心を宿す、愛しい愛しい身体が欲しい。
「俺しか知らない静香を、もっと見たい」
なぁ、静香。全部くれよ。
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