檻は愛と砂糖でできている
ゆっくりと瞼を開けると、日は既に昇りきっていた。
見慣れぬベッドに横たわったまま、静香は寝返りをうって今の時刻を確認する。
午前8時を指す時計に視線を向けると同時に、台所から聞こえてくる生活音に耳をすませる。
じゅうじゅう、と何かを焼いているであろう音を聞きながら、静香は痛む下腹部を摩りつつ、昨日のことをぼんやりと思い出していた。
まるで、夢のようだった。
昨晩、静香に覆い被さり貪るように触れる岩泉に、体の全てを暴かれた。
素肌を重ねる、という行為にすらクラクラとしてしまうというのに、深くまで繋がるのかと思うと、静香の心臓は破れてしまいそうだった。
まるで壊れ物に触れるかのように静香に手を這わせていた岩泉も、かなり緊張しているようだった。
しかし、それも最初のうちだけですぐに目の色が変わっていき、本能のままにいろんな事をされ、静香は頭がどうにかなってしまいそうだった。
求めるようにお互いに絡みあい、なんていやらしいことをしているのだろう、とぼんやりと考えながら、必死に岩泉にすがりついた。
熱に浮かされたようにこちらを見下ろす岩泉の色っぽさはもはや凶器だった。
岩泉の顎を伝う汗が静香の胸元に落ちる情景は言葉にできない程に妖艶で、こんな人に自分は抱かれているのかと思うとたまらなくなった。
強引に、そして優しく揺すられながら一晩かけて、静香は岩泉に男を教えられた。
じわじわと鮮明になっていく記憶に、静香はずるずると布団に潜り込んで羞恥にかられる。
ああ、やっちゃったのか。本当に。
顔を覆いながらベッドを転げ回り、壁にぶつかっても尚落ち着かない。
更に潜り込んでいる布団からは岩泉の匂いがするものだから、静香はぶるぶると震える。
台所からは、お鍋をかき混ぜているのか、鉄同士がコツコツとぶつかる音が聞こえる。
ベッドに既にいない岩泉が朝食を作っている以外無いのだが、静香はベッドに潜り込んだままどうしようかと悩む。
静香も朝食の準備を手伝いたいところなのだが、いかんせん岩泉と顔を合わせるのが恥ずかしい。
脳内には昨晩のめくるめく記憶が既に蘇っており、自身の恥ずかしい行動も発言も思い出して頭を抱える。
しかし、ずっとこのまま悶えているわけにもいかないのも事実である。
スーハーと深呼吸をしてから息を整え、静香は思い切って上半身を起こした。
しかし、次にベッドの端の方にまとめられている下着やら寝間着やらに視線を止めて、内心で悲鳴を上げる。
昨晩これらを静香の肌からはぎ取った岩泉は、全てぽいぽいとフローリングの方に放り投げていたはずだ。
バラバラに散らかっているはずの衣服がここにまとめられているということは、岩泉がこれらを拾い上げてここに置いたという以外に考えられない。
寝間着はともかく、下着を拾われたのかと思うと、静香は脳内の処理が追いつかず、枕に頭を打ち付ける。
一体、何を思いながら散らばった衣服をかき集めたのだろう。
それを想像しようとして、静香は慌てて頭を振った。
そうして数分撃沈した後、もう一度息を整えて体を起こす。
そそくさと下着を身につけ、Tシャツを頭から被って着替えを済ませてから、こっそりと台所の方を覗く。
台所のコンロの前に立っている岩泉が、フライパンで何かを炒めている後ろ姿を確認し、静香はきゅんと胸を高鳴らせる。
一緒に同じ部屋の同じベッドで眠りにつき、翌朝に起きだして朝食を作っている岩泉にもだが、そんな岩泉と同じ空間にいるという事実が中々に飲み込めない。
ラフなTシャツを着ている岩泉の背中をじっと眺めながら、あの背の広さを思い出して、一人勝手に茹で上がる。
もう少し、心の余裕というものが持てればいいのだが、如何せん慣れるまでには時間がかかりそうである。
ふぅー…と細く長く息を吐いてから、静香は浮き上がる心臓をなんとか落ち着ける。
そして台所に立つ男の背後に、そろしそろりと忍び足で近寄っていく。
静香がそのままボスリと岩泉の背中にひっつくようにぶつかると、岩泉はびくりと肩を跳ねさせた。
「…びっくりした…起きてたのか」
「うん…。おはよう、はじめ」
「…はよ」
カチリとコンロの火を止め、岩泉は背中に身を寄せている静香の方に振り返り、身を屈めて視線を合わせた。
「その…体、大丈夫か?」
「えっ…あ…うん」
照れくさげにぼそぼそと静香の体調を心配してくれる岩泉につられて、静香もカァー…と赤くなってこくこくと頷く。
先程から沸騰ばかりしているせいで安易に照れだす静香の様子を見た岩泉も、じわりと赤くなって視線を逸らした。
ぶわりと花が咲いているのではないか、と錯覚してしまうようなふわふわした空気が二人の間を流れ、双方たまらなくなりつつも、何かを必死に耐える。
しかし、岩泉は直ぐに正面の静香に視線を戻してから、穏やかな笑みを浮かべて静香の頬に手を滑らせた。
お互いに自然に目を閉じて、音も無く唇を重ねる。
触れるだけのその行為の後少し距離をとってから顔を見合わせ、二人してふっと吹き出した。
「…もうちょっとで朝飯できっから、シャワー浴びてこい」
「ありがとう…朝ご飯の準備手伝えなくてごめんね」
「気にすんな。…昨日は無理させたからな」
ぽんぽん、と静香の頭を軽く叩いて、岩泉は静香にお風呂場に行くように促した。
右手に持った菜箸を再び持ち上げ、フライパンを火にかけ直した岩泉の様子を認めて、静香はお言葉に甘える事にした。
そうしてシャワーを浴びるために岩泉から離れ、静香が背中を向けたタイミングで、不意に腹部に腕を回された。
「シャワーを浴びてこい」と言ったはずの岩泉に早々に引き止められ、静香は驚いて立ち止まる。
そして背後から抱きしめるように立つ岩泉は、静香の肩口に顔を埋めてから、耳元でそっと囁いた。
「静香」
「…何?」
「…すげぇ、可愛かった」
昨晩、男を教え込まれている最中にも、熱い息を吐きながら囁かれた言葉である。
めくるめく記憶を掘り起こされ、静香は案の定初々しい反応を見せる。
当然、自身の彼女がそんな反応を示す事等分かりきっている岩泉はクスクスと笑い、静香をあっさりと腕から解放した。
トンと背中を押してから「ゆっくり浴びて来い」などと言われたが、静香は落ち着いてシャワーなど浴びられるはずも無かったか。
上の空で汗を流し、静香が着替えを済ませた時には、岩泉は机の上に朝食を並べていた。
昨日の残りを温め直したものと、岩泉特製の小ぶりの丼が乗っている食卓につき、二人で手をあわせて朝食にありついた。
予想通りというかなんというか、岩泉は丼物が好きらしく、朝と夜はだいたい一品ものを食べているらしい。
最近のマイブームは卵かけごはんにアレンジを加えたものらしく、どんなものと一緒に食べると美味しいか、岩泉は熱弁していた。
そうして朝食を済ませ、この後どうする?と言う岩泉に、静香は昨日の事を思い出して提案する。
「昨日見逃した映画見る?」
「ああ…いいな」
結局、映画を見ることなく事に及んだ二人は、噂の話題作のことなどすっかりと忘れ去っていた。
ふたり揃ってベッドを背もたれにして座り、録画しておいたファンタジー映画を見ることにした。
壮大な音楽をバックに幕を開けたこの映画は、街に住む男の子が不思議な宝石を見つけた事から始まるファンタジー超大作である。
冒頭で近所にある不思議な家の中に忍び込み、宝石を見つけた少年は輝く緑の石に見蕩れていた。
そうして少年が宝石を持ち帰ると、幼馴染みの女の子が少年の家に遊びに来ていた。
『もう、どこに行ってたの?今日は一緒に買い物に行く約束してたじゃない!』
『ああ、そういえばそうだったかも』
ぷりぷりと頬を膨らませる幼馴染みに見向きもせず、少年はポケットに入れた宝石を忙しなく触っている。
そんな二人の様子を見ながら、静香は不満げな顔をしている幼馴染みの女の子に目を奪われる。
整った顔立ちに凛とした瞳のこの女の子に似た誰かを、どこかで見た事があるような気がする。
誰だっただろうか、と静香が密かに思考を巡らせている隣で、岩泉は映画館宜しくポップコーンを黙々と食べていた。
先程朝食を食べたばかりだというのに、よくお腹に入っていくものだとある意味感心する。
たまに「ん」と言って静香の方に袋を差し出してくれるので、静香も頷きながらポップコーンを口に運ぶ。
もそもそと塩のきいたポップコーンを咀嚼し、画面の中の主人公が通りすがりの不審なおじさんに遭遇したタイミングで、静香はハッと思い至る。
「あの女の子、美雪ちゃんに似てない?」
「…そうか?」
主人公の隣に立ち、不審なおじさんをいぶかしんでいる可愛い女の子は、先月会った岩泉のいとこの美雪ちゃんに雰囲気が似ている気がする。
気の強そうなところにも彼女の面影を感じながら、静香は1月前の出来事を振り返る。
岩泉のいとこである美雪ちゃんに、果たし状を渡された時の事は記憶に新しい。
「ねぇ、はじめ」
静香はコトリ、と岩泉の肩にもたれる。
「…何」
岩泉も寄りかかった静香に応えるように頭を傾けるが、手だけはポップコーンの袋の中に突っ込んだままだ。
「前に、美雪ちゃんが私に手紙くれたことあったじゃない?」
「…あぁ、果たし状のやつな」
その果たし状を受け取り、指定の日に公園に赴いたものの、なんだかんだあって彼女とはあまり話せずに終わってしまった。
小学生達とのバレーのラリーでミスし、罰ゲームで「静香の好きなところ10個」を皆の前で言わされるはめになった岩泉の発言に、美雪ちゃんはあの場から逃げ出してしまったのだ。
その美雪ちゃんを追いかけ、何を言ったのかは分からないが、岩泉は美雪ちゃんを励まして戻って来た。
「美雪ちゃんとはじめ、一緒に公園に戻って来たでしょ」
「…おぉ」
「あの時、美雪ちゃんに何言ったの?」
きっと傷ついたであろう彼女を、いかに励ましたのだろう。
そして、それまでに静香を嫌煙していた彼女が態度を改める程の事である。
あの時、岩泉に詳しく聞いても適当にはぐらかされてしまったが、そろそろ教えてくれてもいいのではないか。
その思いを込めて岩泉を見上げると、岩泉は丁寧にポップコーンの袋をたたんでいた。
「…まぁ、教えても構わねぇんだが」
「うん」
「お前、また悶えることになるかもしれねぇんだけど、」
大丈夫か?
平然とそんなことを言いながら、岩泉はポップコーンの空袋を小さくまとめて、ぽいとゴミ箱に放り投げた。
その言葉を聞いた静香は、無言になった後、岩泉にもたれかかっていた体を起こしてから足を抱え込んで座り直す。
悶えることになるって何だ、と一瞬考えたが、その内容がなんとなく分かって静香はごくりと息を飲む。
要は、静香にとって嬉しい事ではあるのだが、心臓に悪い事であるらしい。
赤らめるというよりは顔を青ざめさせた静香に、岩泉は不服そうに口を尖らせる。
「何だよ、聞きたくねぇの?」
「いや…そういうわけでは…」
静香がさり気なく距離をとると、岩泉も面白がって距離をじりじりと詰めて来る。
ベッドを沿うようにずるずると逃走を計るも、限りのある空間では逃げきることなど無理な話で、早々に壁際に追いつめられた静香は座ったまま縮こまる。
すぐ隣にまで寄ってきている岩泉は、愉快そうに静香にわざと体重をかけた。
「何で逃げんの?」
「…だって……」
もごもご、と口ごもりながら、静香は内心焦る。
心の準備ができていないので少し待って欲しい、というのが本音である。
しかし、これまでの経験上、岩泉は待ってはくれない。
静香が心の奥底で嫌がっていないということが分かっているからこそ、容赦無くぐいぐいと、甘い檻に追い込むのが岩泉一という男だ。
「美雪に言った事だけど、ぶっちゃけ、ほとんどお前に言ったようなもんだぞ」
「…えっ、そうなの?」
教えて貰ったような心当たりが特に無いので、静香は「いつ?」と首を傾げる。
すると岩泉は足を立てて座ったまま、ニヤリと口端を上げた。
まるでその質問を待っていた、という表情の岩泉に、静香は見蕩れる。
「昨日、ベッドの中で、死ぬほど」
強調するようにわざと文節毎に言葉を口にする岩泉に、静香はガチリと歯を食いしばった。
強烈な羞恥に襲われ、なんとか耐えようとしている静香を他所に、隣の男は相変わらずである。
「もう1回、教えてやろうか?」
「…いえ、結構です」
「遠慮すんなよ」
もはや映画の内容など二人の頭には入っておらず、こうして後ほど、第二鑑賞会が開催されることとなった。
≪back
ALICE+