水も滴る白い不純
夏休みに入っての、初めてのオフの日。
及川家と女バレ主将の家のご家族の車で、地元ではそれなりに人が良く遊びに来る沢にやって来た。
3年生で都合がついた人だけで集まったのだが、男女共に同じくらいの人数が揃った。
沢の流れも穏やかで、水も透き通って美しく、夏の暑さを収めるにはうってつけの冷たさだ。
上流の方に広い場所を見つけ、今日の拠点にするためにそれぞれが荷物を運び出す。
自分たちの使用スペースの整備と同時に、それぞれ身支度を整えてから、すでに水に足を突っ込んでいる人も数人いた。
静香も水着に着替え、パーカーを羽織った状態で流れる水に手をつけていると、背後から名前を呼ばれた。
「栗原ちゃん、今日は誠にありがとうございます」
「…いえ」
ご丁寧にお礼を述べる及川のニヤけ面を殴りたい衝動にかられる。
連られて、及川の近くにいた花巻もお礼を言いに寄って来た。
「いや本当、天使ちゃんを連れて来てくれてありがとう…」
「なぁ…超胸でけぇ、こぼれそう」
「…あんまりいやらしい目で見ないであげてね」
静香達の視線の先では、女子バレー部リベロ(及川曰く、天使ちゃん)がレジャーシートの上にお菓子やジュースなどの荷物を並べていた。
水着に着替え、その上にパーカーを羽織っているものの、その豊満な胸は隠しきれていない。
水着姿の彼女を見た瞬間、男子も女子も一時固まってしまう程である。
勿論静香も思わず凝視してしまったし、ちょっと悔しいが岩泉も驚いて固まっていた。
胸が無いわけではないが、あれほどパンチがあるわけでもないし、スタイルも抜群というわけでも無い。
水着もこの日のために清楚なワンピースタイプのものを新調したものの、周りの女子に比べると色気が足りないような気がする。
憂鬱げに自身の格好を確認していると、ポンと肩を叩かれた。
「ま、栗原ちゃんもその格好、よく岩ちゃんに見せてあげてね」
「…つーかあれ、岩泉と松川、何してんだ?」
花巻の視線の先に、水の近くでしゃがみ込んでいる岩泉と松川の姿が見える。
何をしているのか様子を伺いに近寄ると、岩泉が片手に持っていたバケツをおもむろに水面に突っ込んだ。
そしてバシャリと引き上げたそれを、松川と共に覗き込んでいる。
「何してんのお前ら?」
「あぁ、松川が魚泳いでるっていうから、捕まえた」
「は?」
何喰わぬ顔でバケツの中で泳ぐ小さい魚を見せて来る岩泉に、松川と花巻は感心し、及川は呆れたような顔をする。
「バケツだけで捕まえたわけ?」
「おぉ」
「岩ちゃんは熊か何かなの?」
「あ?」
眉をひきつらせて立ち上がる岩泉を他所に、静香の脳内で川を泳ぐ鮭を陸にはじき飛ばす熊の姿が浮かぶ。
思わず吹き出してしまった静香に、岩泉の恨めしげな視線が突き刺さる。
「…ご、ごめん岩泉」
「へへーん、彼女に笑われてやんのー」
小学生のような発言をしてげらげら笑っている及川に、岩泉の鉄拳が落ちる。
結構痛かったらしく、涙目で「痛い!!」と喚く及川を吐き捨てるような目で眺めている岩泉は、バケツの中の魚を颯爽と逃がした。
「あれ、逃がしちゃっていいの?」
「捕まえててもどうしようもねぇだろ」
「まぁ…そうだな」
すいすいと泳いで行く魚の影を見送っていると、向こうの方にいた温田が何やら男子を呼び寄せていた。
何だ?と首を傾げながら寄って行く岩泉達を見送り、静香は岩場に腰を下ろして水に足をつけた。
ひんやりとした水に触れ、まるで足が引き締まるような心地がする。
ばしゃ、と足をばたつかせて水しぶきをあげると、既に水に胸から下を沈めて歩く、我が部の天使ちゃんこと、リベロが近くを通った。
「あれ、静香ちゃんは泳がないの?」
「うーん、泳ぎたいんだけど髪が濡れるのはちょっと抵抗があるんだよね」
「あー…、岩泉君いるもんねぇ」
もの凄く当たり前のことのようにサラリと言われた言葉に、静香は少し赤くなる。
ニコリと核心をつく彼女は、天使の笑みを浮かべている。
「髪型、いつもより凝ってるし、崩れたら嫌だよねぇ」
微笑ましげにそう言われては、静香は返す言葉も無い。
もしかして、周りには私が気合いを入れている事が筒抜けなのだろうか。
そう気恥ずかしくなった静香だったが、水面に浮かぶリベロの豊満な胸を目に止めて、急に冷静になった。
でかい。
同じ女子でも怯んでしまいそうなくらいに、羨ましいバストである。
自信の胸元と彼女のそれを見比べて、半ば愕然とするしかなかった。
スイーと泳いでいってしまった悪魔級の巨乳の持ち主を見送り、なにやら遠くの方で始まった男子のじゃれあいを眺めながら、静香はしばし、胸がどうやったら大きくなるか一人で考え込んでいた。
静香の胸囲についての思考も終わり、何をしているのか分からないが、何かを争っている男子達を眺めて10分程経った。
元気だねぇ、とのんびり呟いている松川は、早々にあの喧噪から離脱し、のんびりと水面を漂っている。
まだ沢に到着してから30分も経っていないというのに、すでにクライマックスの雰囲気を漂わせる男子達の体力は底が知れなかったが、流石に20分が経過すると、その勢いも収まってきた。
「あー疲れた…」
「あはは、お疲れ」
水の中を歩いて岩場に引き上げて来た岩泉にタオルを渡す。
サンキュ、と言ってタオルを受け取った岩泉は頭の水分をわしゃしゃと拭き取り、タオルを首にかけた。
男子達の水の掛け合いは、半ば乱闘に発展し、勢いで全体力を使った参加者達は、今は川辺でぐったりとしている。
そんな男子達を笑いながら、女子の何人かは飲み物を配り歩いていた。
その様子を眺めていると、水に足を付けて岩場に腰掛けていた静香の隣に、岩泉がのそりと座った。
水をぽたぽたと滴らせながら、ふぅと息を付く姿がなんだか色っぽい。
水滴が伝う引き締まった体を視界に入れると、まるで見てはいけないものを見ている心地になるので、そろりと視線を正面に向けた。
「あれ、ジュース足りない」
「えぇーまじかよ」
近場の岩場でへたっていた男子ががっくりと言った風に声を漏らす。
充分人数分準備してきたつもりだったが、まさかこんなに早く飲み物が尽きるとは思わなかった。
「じゃぁ、私買って来るよ」
「えっ、それは何か悪いなぁ」
「いいよ、さっきはしゃいで疲れてるんでしょ」
すっと静香が立ち上がると、飲み物を配っていた女子主将がぴたりと動きを止めて、岩泉に視線を向けた。
静香は首を傾げたが、数秒間女子主将と視線を合わせた岩泉は、何かを察して立ち上がった。
「…俺も付いてく」
「えっ」
脱いで揃えていたサンダルに足を入れ、近場に置いていたパーカーを岩泉が颯爽と羽織る。
「流石岩泉!」と親指をたてる女子主将の口元は、楽しそうにニヤついている。
どうやら、2人になれるように気をつかってくれたらしい。
静香はそれに気づいて固まっていたが、岩泉はなんの動揺も無く、さっさと下流の自動販売機がある方に歩いて行く。
「しばらく帰って来なくてもいいよー」という男子の茶化す声に発火しそうになりながらも、静香もサンダルを履いて岩泉の後を追った。
下流へはそれなりに距離があり、徒歩で10分くらいかかる。
自動販売機へ向かう道中、先程の乱闘騒ぎ(水の掛け合い)について話しながら歩いていたが、静香は妙に岩泉の格好が気になってしまって仕方が無い。
なんていい体してるんだ、上半身裸の岩泉を見た時の静香の感想がこれである。
完全に下心丸出しのおっさんのような発想だ。
何気ない会話をしながらも、静香は岩泉の羽織ったパーカーの隙間から見える肌に視線を向けまいと必死に戦っていた。
静香はつくづく、いやらしいことを考えている自分が恥ずかしい。
「あ」
「…どうかした?」
歩く事数分。
あれ、と岩泉が指差す先に、見覚えのあるタオルが水面に浮かんでいた。
遠目からでも、青城バレー部でよく使っているタオルの柄に似ていように見える。
そういえば、荷物を広げた時に誰かが「俺のタオルねぇ!」と言っていた気がする。
岩泉も同じ事に思い至ったようで、おもむろにサンダルとパーカーを脱いだ。
「悪い、これ持っててくれ」
「あ、うん」
静香にパーカーを渡し、そのままバシャバシャと水の中に入って行く。
岩場から少し離れたところに浮いているタオルが有るところへ泳いで行き、ザパリとタオルを掴み上げた。
水を充分に含んだそれを絞ってから広げ、確信したようにこちらに引き返して来る岩泉を待つ。
やはり、浮かんでいたのは青城バレー部のタオルで、ご丁寧に「温田」と名前が書いてある。
律儀に名前が書いてあるタオルを広げた岩泉は、ハァとあからさまなため息をついた。
「なんでこんな所にタオル落とすんだよ…」
「あー…そういえば温田、カバンのチャック開けっ放しにしてたかも…」
「ったく、世話のやける…」
岩泉がもう一度ギュッと絞ったタオルを受け取ろうと、静香は何気なく両手を伸ばす。
やや高めの岩場に立っていたために、水に浸かったままの岩泉を若干見下ろすような体勢でタオルを手に取ったが、この時腰を屈めた事と、両肩の動きで、羽織っていたパーカーがズルリと肩を滑った。
元々、水着の上に羽織るためだけに持って来たこのパーカーの肩口はそれなりに緩く、今日も何度か静香の肩を滑ってはいたのだが、何もこんなタイミングでズレ落ちなくても、と静香は慌てた。
岩泉の目の前でむき出しに近い肩と胸元を晒す事になったのが恥ずかしくて、静香は曲げた肘で動きを止めたパーカーを急いで着直した。
そして目の前に視線を戻すと、こちらを凝視したままの岩泉が、目を見開いたまま固まっている事に気づく。
「…岩泉?」
「……」
岩泉は無言で静香から視線を逸らし、背中を向けてずんずんと川の方に歩いて行く。
ぽかん、と口をあけたまま、静香は脳裏を過った予感に、心臓がばくばくと鳴りだすのが分かった。
もしかして、もしかしてだけど。
「…岩泉、なんでそっち行くの?」
「……ちょっと泳ぎたい気分なんだよ」
言い訳にしては、少し無理がある。
それは岩泉も分かっているのか、水の中を歩きながら、片手で額を抑えていた。
何言ってんだ俺、と背中が語っているようなものだった。
ふにゃり、と口元が緩んだのが自分でも分かった。
色っぽい水着じゃ無かったかも、とか、大してスタイルよくないし、とか、岩泉の方がずっと色気あるんじゃ、とかそういう不安が一気に吹き飛び、自分もなかなか捨てたものではないのかもしれない、と妙な自信さえついてくる。
静香はおもむろに持っていたタオルとパーカーを置き、自信もパーカーを脱ぎ捨て水の中に入った。
ザブザブと水をかきわけるように歩き、岩泉の背後に寄ると、珍しく力ない声が聞こえた。
「悪いんだけど、暫く一人にしてくれねぇか…」
「やだ」
「うおっ…!?」
背後から岩泉の背中に乗りかかり、首元に腕を回す。
こんなに岩泉にくっついたのは初めてかもしれない、そう思いつつ水着越しに肌と肌を合わせると、流石の岩泉も驚愕の表情で振り返った。
「ちょっお前!何考えてんだボケェ!」
「あはは、岩泉真っ赤だから全然怖く無いや」
「あぁ!?」
岩泉のドスの聞いた怒声すら愛しい、口元をゆるゆると緩めたまま岩泉に抱きついていると、暫くして岩泉は諦めたかのように肩を落として、お腹の辺りまで水面に沈んだ。
「くそ…」と小さく悔しそうな言葉と共に、首に回された静香の手に触れる。
そしてガシリとその腕を掴み、ゆっくりと顔だけ振り返った岩泉は、それはそれは意地の悪い笑みを浮かべていた。
「息、止めとけよ」
「えっ」
ニヤリと擬音のつくように口端を上げた瞬間、岩泉ごと体が左に傾いた。
バシャン、と静まり返った空間に2人分の水音だけが響き渡る。
水に潜る瞬間まで岩泉に腕を掴まれていたために、二人一緒にダイブして、すぐに水上に顔を出した。
岩泉と違い、今日はまだ水中に潜っていなかった静香は、それなりに整えていた髪型が水で一気に崩れてしまったことを頭の隅で理解し、ひそかに肩を落とした。
「ちょっと、何するの…」
「はは、いい気味」
ムッとしたものの、水を滴らせて楽しそうに笑う岩泉の表情を見ると、どうでも良くなってしまう。
しかし、このまま誤摩化されそうになっているのは、正直面白くない。
「岩泉のスケベ」
「へ、はぁ?」
「さっき私のこと、いやらしい目で見てたくせに」
「……そこは触れないでくれ」
肩まで水に浸かったまま、再び気まずげに視線を逸らす岩泉は、なんだか可愛い。
静香がとクスクス笑うと、岩泉は拗ねたように体を更に水面に沈めた。
「いーや」
「…おい」
半分泳ぐように岩泉の傍に寄って、首に腕を回し再び抱きついた。
体を寄せ合い、水着という薄着のせいで、より岩泉の体温を肌で感じられる。
硬い岩泉の肌の感触は当然ながら、静香のそれとは全く持って異なる。
がっしりとしたたくましい体は、ひんやりとした水の中でも、確かに温かい。
ああ、落ち着くなぁ、とにやけていると、水中で静香の背中に手が添えられた。
「大丈夫大丈夫、私も、岩泉いい体してるなーって思って見てたから、お互い様だよ」
「何だそれ…」
岩泉は呆れたように笑って、冗談まじりに「静香の変態」と軽口を叩いた。
お互いに、下心のある目で見ていた事を告白しあって、なかば開き直って笑う。
暫くそうして水面を漂ってから、岩泉は口惜しげに口を開いた。
「あー…、そろそろ飲み物買って戻らねぇとな」
「そうだねー」
岩泉の体温が名残惜しいけれど、この辺りを誰かが通る可能性があった。
更に帰りが遅いと、上流の方にいる部員達に「何してたの?」などとからかわれ、突っ込まれる恐れもある。
静香は岩泉の首に回していた腕をほどき、水中に浮いていた足を地につけ、立ち上がろうとした。
しかし、静香の動作は、岩泉に両方の二の腕を掴まれたことにより、動きが封じられる。
「、え」
不意に静香の顔に影がかかり、至近距離に岩泉の顔が迫っている事に気づいた時には、静香の頭は真っ白になった。
いわいずみ、と言う呟きは音になることはなく、柔らかな熱に塞がれる。
一瞬だったのか、数秒だったのか、体感時間が狂ってしまうくらいには、静香の頭は混乱し、正確にはどのくらいそうしていたのか良く分からなかった。
ゆっくりと離れた岩泉と見つめ合い、呆気に取られている静香を見て、岩泉は不敵に笑った。
ああ、本当、心臓に悪い。
「やられっぱなしは、性にあわねぇんだよ」
至近距離で見る、水を滴らせる岩泉は、今まで見たどの男の人より色っぽくて、ぼうっと見蕩れてしまうくらいに格好いい。
固まったままの静香を暫く眺めて、岩泉は満足げに口元を緩ませてから、静香の腰に右手を回した。
重心を静香の方に傾かせ、大きな左手で静香の頬を撫でてから、岩泉は再びゆっくりと目を伏せる。
静香も岩泉の肩に手を置いて、そっと目を伏せ、唇が重なる感触を味わう。
ぽたり、とお互いの前髪を伝って、肌に水滴が落ち、すっと流れて行く。
冷たい水の中にいるというのに、酷く熱い。
「…本当、岩泉ってずるい」
「はは、褒め言葉にしか聞こえねー」
こうして、岩泉に全てを持って行かれ、これまで余裕綽々だった静香は、最後の最後で岩泉に陥落させられたのである。
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