その赤を少しずつ取り戻したい

土曜日、岩泉の通う某大学。
頻繁に交流のある県内バレー部の試合があるらしく、静香は岩泉に内緒で応援に訪れていた。
本当は今日、静香には予定があったのだがその所用も思いのほか早く終わり、丁度岩泉の通う大学の近場であったこともあって今に至る。
岩泉の大学へ来るのは数回目ではあるが、広い大学内の地理には未だに慣れない。

正門前にある学内の地図で体育館の位置を確認してから、静香はなんとか目的の場所にたどり着いた。
見かけないジャージを来た生徒の姿もちらほら有り、彼らの応援にやって来ているであろう私服の人々の姿もある。
練習試合ではあるが、そこそこの数の大学のバレー部が集まっているようで、まるで県内の公式試合のようである。

体育館のエントランスを抜け、静香は入り口付近にある階段を見上げる。
試合の観戦はきっとあちらの方でできるのだろう。
そう思いながら階段を上がり、一体いつ岩泉に連絡をしようかと思案する。
試合中の岩泉に見つかると気が散るような気もするし、携帯にメッセージだけ送って、試合の後にでも声をかけて驚かせよう。

そう企みながら階段を上りきり、静香は空いている観客席に腰掛け一息ついた。
このタイミングで丁度試合が始まったらしく、おねがいしあーす!という選手達の声が体育館内に響き渡る。
その選手の中に岩泉の姿を見つけ、静香は何故かそわそわとしながら居住まいを正した。
機会があればわりと頻繁に岩泉の家に遊びに行く静香ではあるが、最近は電話越しに話すばかりで、こうして会うのは久しぶりである。
そうして岩泉がコートの中へ入って行く姿を眺めていると、静香の座る前の席に、バレー部員であろう女の子3人が腰掛けた。
男子の応援に来ているのだろうから何ら不思議ではない光景を、静香は特に気にもとめなかった。
そうして携帯を取り出し、岩泉宛に『今応援に来てるよ!』とメッセージを入力し、それを送信しようとした時だった。


「岩泉先輩って、かっこいいよね」

前に座る女の子の思わぬ発言に、嫌でも意識をもっていかれた。
ぼそりと投下されたそれに反応を示したのは、この発言をした彼女の両隣に座る女の子二人と、後方に座る静香だった。
静香の後方に腰掛けていた男の人は、肩をびくつかせた静香に気付いて不思議そうな顔をしていたが、今はそれどころではない。

「またそれ…?アンタも好きね、岩泉先輩」
「だってカッコイイじゃん」
「まぁ、分からなくはないけど」

興味半分、恐怖も半分。
複雑な心境のままに、静香は目の前で繰り広げられる試合ではなく、彼女達の話す「岩泉先輩」について耳をそばだてる。

「凄く男らしいしさ…。私この前重たい荷物運んでた時、手伝ってくれたし」
「それ何回も聞いた」
「腕に筋肉とかしっかりとついててね…すっごく男の人!って感じなの」
「ふーん」
「…あの腕に抱きしめられたら、死んじゃうだろうなぁ」

真ん中に座る彼女の発言を聞きながら、静香はぼんやりと岩泉に抱きしめられた時の事を思い出す。
女のような柔らかさのないがっしりとした腕を背中に回され、抱き寄せられた時のあの柄も言えぬ感覚。
自身の力が強いことを分かっていて、少しだけ力加減をしようという意思を持って柔らかく引き寄せてくれる時もあれば、本能のままにきつく抱きしめられることもある。
岩泉の感情の全てが自身に向けられ、包み込まれるあの瞬間は、確かに彼女の言うように、死んでしまうのではないかと思えるくらいに胸を締め付けられる瞬間である。

「あとね、岩泉先輩はあんまり女の子に媚びたりしないでしょ?」
「そのせいで、アンタがアピールしても岩泉先輩なびかないけどね」
「そっ…それは言わないでよ…」

どこか居心地悪そうにする彼女を他所に、後方の席に座る静香は「アピール」という言葉を聞いて硬直した。
静香の知らない間に、岩泉は彼女から、何かしらのアタックされていたということなのだろうか。
急に不安になって青冷めた静香は、前に座る彼女が岩泉にどんなアピールをしたのか気になって、ハラハラしはじめる。

「なびかないというか、気付かれてないんじゃない?先輩鈍そうだし…」
「そうなんだよね…。この前、大学でハロウィンのイベントあったでしょ?それで気合い入れて、結構セクシーな格好で先輩の所行ったんだけど、何て言われたと思う?」
「…寒くねーの?、とか?」
「……何で分かったの?」
「いかにも岩泉先輩が言いそうなことじゃん」

ハロウィンで岩泉へのアピールが上手くいかなかった事をやいやいと話す前の3人を眺めながら、静香の脳内で「セクシーな格好」というワードがぐるぐると回る。
どうやら岩泉は、彼女に色仕掛けをされていたらしい。
それに対する反応がなんとも女泣かせではあると思うが、そこでもし揺るがれでもしたらと思うと、静香は気が気ではない。
岩泉は非常に硬派な人間であるとは思うが、女の人に興味がないわけではないのだ。
それを身を以て知っているが故に、手放しで安心してはいけない緊張感が張りつめる。
そして、それを聞いて妬くなというのが無理な話である。

岩泉に好意を寄せているらしい真ん中に座る彼女は、後ろから見ただけでもスタイルが良く、そして小柄で可愛らしい。
静香は座った体勢のまま自身の胸元に視線を落とし、そして下に下るように太腿から足先にかけて眺める。
自身の体にあまり色気が無いような気がして悲しくなり、静香の心の中で寂しく木枯らしが吹く。
どうしよう…とどこか焦りのようなものを感じ、今日の帰りにセクシーな下着でも買って返ろうかと静香が悩んでいる間に、岩泉達の試合が終わってしまった。
まともに岩泉の勇姿も拝めず、そして岩泉が試合中にもかかわらずにこんなことしか考えていられなかった自分が情けない。

岩泉を信用していないわけではない。
ただ、岩泉がずっと自分の事を好きでいてくれる程の魅力があるのかと聞かれたら、自信たっぷりに頷けないのだ。
はぁ…とため息をつきながら、静香は観覧席から腰を上げた。
丁度お昼の休憩時間に入るらしく、体育館内にいる生徒達や先生達も引き上げていき、観覧席にやってくる人がどんどんと増えていく。
そんな人のながれを縫いながら、気分転換がてら観客席のある二階から降りて、1階にあるエントランス付近に向かう。
何かジュースでも飲もうと、ずらりと並ぶ自動販売機の前に立ちながらジュースを吟味するも、脳裏には彼女達の発言がチラつく。

岩泉は、自分には勿体ないくらいの良い男であると、静香は常々思っている。
硬派で男らしくて、運動神経も良く、大好きなバレーをしている姿が一番カッコいい。
更に周りの事を良く見ていて、さり気なく当然のように気を配り、助けてくれる。
少し言葉遣いは乱暴で無愛想気味ではあるものの、なんだかんだで根の優しい人だ。
岩泉の魅力を挙げればきりがない。
だからこそ、そんな岩泉を好きになる女の子が現れてもおかしくはないし、静香だって彼女の座であぐらをかいてはいられない。

自動販売機にお金を入れて、隣同士に並ぶ飲み物を眺める。
普段から良く飲むミルクティーと、最近発売されたばかりであろう新作のいちごオレとで迷う。
どっちにしようかなぁ…などと指先を彷徨わせていると、ふいに後方から腕が伸びてきた。
ジャージに通した腕は、静香の良く知る気配を纏いながら、迷う事なく飲むヨーグルトのボタンを押した。
ヨーグルトがガタンと落ちてきた瞬間、更に後方で「岩泉〜先行ってるぞ〜」という声が聞こえた。

ゴクリ…と息をのみ、静香はひたすらに自販機の取り出し口に見える飲むヨーグルトに視線を落とす。
昔から、ヨーグルトを好んで飲んでいた岩泉の姿を思い出し、静香は背後に立つ気配が誰であるのか察した。

「……よぉ、来てたんだな」
「……はい」

予想通り、そこに立っていたのは岩泉だった。
そうしてどこか責めるような声色の岩泉は、自販機の取り出し口に手を入れてヨーグルトを掴んだ。

「お前、今日用事あったんじゃねーの?」
「…思ったより早く終わって…来られそうだから応援に来たんだけど…」
「それなら、連絡くれりゃいいのに…」

見間違えたのかと思ったわ、と言って岩泉はヨーグルトにストローをさした。
まさか後輩の女の子が、岩泉の事をカッコいいと言っていて、動揺していて忘れていたなどと言えるはずもない。

「静香、何飲む?」
「…ミルクティー」
「ん」

ポケットをごそごそと漁ってから、岩泉は小銭を何枚か取り出した。
そうしてちゃりんとお金を投入し迷う事無くボタンを押し、取り出し口に出てきたミルクティーを手に取ってから、それを静香に手渡した。

「お前、いつまでここにいるんだ?」
「折角だから、最後まで観戦してるよ」
「…まぁまぁ遅くなると思うぞ」
「大丈夫だよ、今日はもう予定はないし」
「…そーか」

ヨーグルトを飲みながら、岩泉は暫く何かを思案しているようだった。
その間に静香もミルクティーのキャップを回し、コクリと喉に流し込む。

「…なぁ、帰りにどっかで夕飯食って帰らねぇか?」
「えっ?」

思わぬ誘いに静香がキョトンとしていると、岩泉は「あー」と言いながら頬をかいた。
何故か照れくさそうにしている岩泉に呆気にとられていると、半ば自棄気味に白状する。

「実は…お前に渡すものがあってよ…。夕飯はそのついで」
「な…何…?」
「それは…まぁ、渡してからのお楽しみだ」

内緒だと言って一息にヨーグルトを飲み、岩泉は空になったパックをぺしゃりと潰す。
潰したそれを綺麗にたたみ、それをゴミ箱にぽいと投げ入れたから、岩泉は再び静香に視線を向ける。

「で、どうすんだ?」
「…行く」
「よし」

じゃあ、練習試合が終るまで待っててくれ。
そう言って岩泉は、片手を上げて体育館から出て行った。
お昼休憩に行ったのか、主催校の生徒として仕事があったのかは分からないが、静香のためにここで少し時間を使ってくれた事だけは確かだった。

岩泉の思わぬ誘いに、先程までのモヤモヤなど吹き飛んでいってしまうから単純である。
静香に渡すものがあると言っていたが、一体なんなのだろう。
この前県外遠征に行っていたから、そのお土産だろうかと予想しながら、静香は再び観客席に戻った。
席に座り、お昼ご飯用に持って来たパンを黙々とかじっていると、購買に行ってきたらしい3人の女の子達も席に戻って来た。
今度は来週の講義の課題の話をしているらしく、まだレポートの半分も出来ていないなどと嘆いていた。
岩泉と少しだけ話したせいなのか、静香は余裕を持った面持ちで彼女達の話題に耳を傾ける。
講義の話、部活の話、今度の大学である行事の話、などとりとめのない話題が多かったが、静香の気の抜けたタイミングで再び岩泉の話に戻ってきた。

「あ、聞いてよ!この前ね、注文してた可愛いリップがやっと届いたんだ〜」
「もしかして、岩泉先輩に見せてたやつのこと?」
「えっ…何で知ってるの?」
「私その時、近くにいたよ」

呆れたようにそう言う友人の発言に、真ん中に座る彼女は「ええっ!」と驚いていた。
何だか素が可愛らしい子だなぁ…なんてぼんやりと考えていた静香だったが、思いの外彼女が岩泉と接触しているらしい様子に嫌にドキドキとしはじめた。

「そんな化粧品見せられても、岩泉先輩反応に困っちゃったんじゃないの?」
「それがそんなことも無くって、リップ見た時凄く感心してたもん」
「…どんなリップなの?」
「あ、今持ってるから…ちょっと待って!」

そう言って手持ちの小さいカバンをごそごそと漁り、真ん中に座る彼女はリップを取り出した。
どんなものか非常に気になるが、生憎彼女達の後ろに座る静香からは、リップの姿は伺えない。

「わ〜、すっごく可愛い」
「でしょ?透明なんだけど、塗るとちゃんと色がつくんだよ」
「…本当だ」

透明なリップだけど色がつく、という情報しか得られないまま、リップの姿を拝めない静香はさり気なく体を横に動かしてみる。
しかし、真ん中に集まるようにひっついている彼女達の間には隙間もなく、見る事はやはり叶わない。
そのうち冷静になっていき、「何を盗み聞きをしているんだろう」と自身に呆れた静香は、すくりとその場から立ち上がった。

彼女達の話の聞こえない場所で観戦しようと席を移さなければ、盗み聞きをしてしまう自分が情けない。
はぁ…とため息をつきながら遠くの空いた席に座り、静香は昼休憩の開けた体育館内を見下ろした。






「…なんか元気ねぇな、お前」

練習試合の片付けを終え、部員達と別れて来たらしい岩泉は、待ち合わせ場所のベンチで項垂れている静香を見て首を傾げた。
不思議そうにしている岩泉はジャージから着替えており、エナメルバックを肩にかけている。
そのエナメルバックには、最近岩泉が押し入れから見つけ出したというゴジラのキーホルダーがぶら下がっているのが、なんとも可愛らしい。

「疲れたか?」
「…そういうわけじゃないよ、大丈夫」

すくりと立ち上がり、静香はふと岩泉を見上げる。
何の気無しの表情でズボンのポケットに手を突っ込み、もの言いたげな様子の静香を見下ろして、岩泉は疑問符を浮かべていた。

「どうしたんだよ、なんかあったのか?」

言えよ、と先を促してくれる岩泉の声色は優しい。
静香が言いにくいことであっても、自分が強制的に発言するように仕向ければ、静香が何を思っているのか白状しやすいと無意識に理解しているのだ。
そういう優しさが岩泉の好きな所のひとつでもあり、なんだか降参してしまいたくなることでもある。
半ばずるいと思いながらも、そういうところに救われている自分がいるのも事実である。
静香は一瞬、岩泉に好意を寄せているであろう女の子の存在の事を話そうとして、少し悩んでからそれを止めた。

「…私、はじめの彼女でいられるように頑張るね」
「…どうした急に」
「だから、その…。わ、私の事好きでいて欲しいというか……」

もごもご、とそう言うと、岩泉は面食らったかのように固まった。
本当にどうした?と聞かれても何も文句も言えない発言をしている自覚はある。
突然の静香の発言内容にちんぷんかんぷんなはずなのに、岩泉一は第一に、相手の事を考えてくれるのだ。

「…安心しろよ、今のでもっと好きになったから」

こっそりと耳打ちするように囁いてから、岩泉は穏やかに笑った。
随分と大人っぽく笑うようになったなぁ、なんて静香がぼんやりと見蕩れていると、岩泉はおもむろに上着のポケットに手を入れ、何かを取り出した。
そしてポケットの中から現れた小さな可愛らしい箱を、静香に差し出す。
例の、静香に渡したいものなのだとすぐに分かったが、静香の予想とは違った者が現れて驚く。
てっきり、県外遠征のお土産だと思っていたのだが、この箱の雰囲気からはそうでないとはっきりと分かった。

「静香、これやるよ」
「…ありがとう。でも、何で…」

今日は記念日か何かだっただろうか?と頭をフル回転させる静香を認めて、岩泉は肩を竦めてみせた。

「理由はねぇよ。ただお前に、プレゼントしたかっただけ」

開けてみろよ、と静香に勧める岩泉に言われるがまま、静香は小さな箱を丁寧に開けた。
そうして中から現れた赤色のスティックを見て、流石の静香もこれが何であるか察した。
キャップを外し本体を軽くひねってみせると、案の定中からは口紅にあたるものが現れる。
しかし、その口紅は赤いどころか透明で、中には小さなピンクの花が封じ込められていた。
はじめて見る綺麗な口紅に目を奪われていると、岩泉が事のいきさつを話してくれた。

岩泉曰く、同じ部活の後輩の女の子が、これと同じものを持っていて何故だか見せてくれたのだと言う。
化粧品になんて詳しいはずもない岩泉ではあるが、流石に口紅がどんなものであるのかは知っていたらしく、透明な口紅を見せられて驚いたのだという。
唇や肌に塗ると赤色になるのだと言って、後輩の女の子が手に塗ってみせてくれたようだ。
肌に塗った瞬間、色が変わった綺麗なそれを見て、静香が喜びそうだと思ったらしい。
さり気なくなんというメーカーのものなのか聞いてから、家に帰ってネットで調べて、注文したのだという。

きっと化粧品を買ってみるなんて、岩泉にとってははじめての事だっただろう。
そうまでして、静香のためにこれを買い、こうして何でもない日にプレゼントして貰えるなんて、自分はなんて贅沢者なのだろうと改めて実感する。
そんな幸福感に包まれると同時に、静香の脳裏には、岩泉の事が好きなあの女の子の事が過った。

岩泉の言う後輩の女の子とは、きっと彼女の事だ。
そして、なんと皮肉なことだろう。
彼女が岩泉と接触を図る為なのか、アピールするためだったのかは分からないが、岩泉にこの綺麗なリップを見せた時、岩泉が思い浮かべたのは静香の事だった。

目の前に立つ岩泉を再度見上げると、静香がどんな反応を示してくれるのか観察するように、優しげに静香を見下ろしている。
岩泉も静香も、お互いに好意を抱いているからこそ恋人として付き合っている。
当然ながら、静香は岩泉の事が好きだ。
そしてそれと同じように、岩泉も同じ感情を静香に向けてくれている。
それがとてつもない奇跡なのではないかと今更思ってしまうくらいに、静香には衝撃的な真実だった。

「ありがとう、はじめ…。凄く綺麗…。大事に使うね」

岩泉は、この日静香がうだうだと悩み、不安に思っていた事など知りもしないのだろう。
自身にこの口紅を見せてくれた後輩の女の子に好かれている事にも、きっと気付いていない。
それなのに、こうも静香の不安など吹き飛ばしてしまうのだから、この男は恐ろしい。

無自覚というのは、もしかして罪なのではないだろうか。
そんな事をぼんやりと考えながら、静香がドライフラワーを封じ込めた透明なリップに見蕩れていると、「塗ってみろよ」と岩泉が言う。

「体温によって、いろんな色に変わるんだとよ」
「…そうなの?」

へぇ〜…と感心している静香の隣で、本当に色がつくのかどうか見たいらしい岩泉は、「ほら」と急かす。
自分で購入してきたというのに、実際にどうなるのか静香以上に気にしてそわそわとしている。
そんな岩泉の様子に少しだけ笑ってから、静香は口紅を唇に滑らせた。
塗っている途中に、そういえば岩泉にまじまじと化粧をしているところを見られるのは初めてだなと気付く。
唐突な羞恥心に襲われながらも、なんとか口紅を引ききった静香は、むぐむぐと控えめに唇に乗った紅をなじませた。

「ど…どうかな…?」
「…いいんじゃねぇの?」

何故か緊張している静香を見下ろし、岩泉は楽しそうに笑ってから、静香の手を軽く引いた。
そうして二人して壁沿いに身を寄せてから、岩泉は静香の頬に手を添えて、背を丸める。

「えっ…ちょ、はじめ…」
「誰も来やしねーよ」

確かに、静香がここで岩泉を待っている間、近場を通る生徒の姿を見ていない。
あまり人が通らないスポットなのだろうが、こんなところで…!と静香が慌てるも、岩泉はそんなことはお構い無しに口づける。
途端に上昇した静香の体温に呼応するように、唇に塗った紅の赤みが増していく。

「……お前、いっつも分かりやすいけど、それつけてるとより分かりやすいわ」

重ねた唇を離し、「赤いぞ」なんて至近距離で言ってみせる岩泉の唇も、ほんのりと色づいている。

「…はじめの唇も、」

赤いよ、と続けるはずだった言葉は、岩泉に柔く口づけられた事により音にはならず、静香の中にコトリと落ちた。
始めは驚いて目を見開いていたものの、ちゅっと可愛らしい音をたてて唇を食まれ、静香もゆるりと目を閉じる。
こんなにキスを繰り返したら、体温が上昇して、唇も顔も真っ赤になってしまいそうだ。
そんな事を考えながら次の重なりのために顔の角度を変えると、ふと岩泉の後方で何かが動いた。

どうせ誰も来ない。
そう言った岩泉であったが、岩泉の背後で走り去って行く女の子の姿が一瞬見えた。
その女の子の後を追うように追いかけはじめた友達二人の後ろ姿にも、静香には見覚えがあった。

それに少しだけ心が痛んだが、それを上回る程の優越感が静香の中を支配する。
岩泉とキスできるのも、独り占めてきるのも、自分しかいないのだと思うと、どうしようもない程にたまらなくなった。
ああ、自分はなんて嫌な女だろう。
そんなことを考えながら、静香は岩泉の高さに合わせようとうんと背伸びをする。
だからと言って、彼を譲る気は毛頭ない。

「…積極的だな」
「……だめ?」
「そんなことはねーよ」

大歓迎だ、なんて続けて、岩泉は物陰に隠れるように静香を引き寄せた。
キスの応酬は、まだ暫く終わりそうにない。

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