病を孕む希望

とある平日。
静香は自宅近くのスーパーで偶然、岩泉母に出くわした。
静香が通う大学に近いこのスーパーは、岩泉の自宅からは随分と離れた場所にある。
だからこそ、岩泉母が何故わざわざこのスーパーに赴いてきたのか不思議に思った静香ではあったが、答えはあっさりと岩泉母の口から投下された。

「一ったら風邪引いたらしいの」
「えっ」
「この前大雨振降ったでしょ?その時大学から濡れて帰ったらしいのよ。多分そのせいだわ」

少しだけ呆れた様子の岩泉母の持つカゴには、ポカリスエットや胃の消化に優しそうなものが入っている。
「起き上がるのも辛いらしいから、これから夕飯作りに行こうと思ってたの」という岩泉母の言葉に、静香はふと思い立つ。

「あの…。私も一緒に、お見舞いに行ってもいいですか?」
「ええ…それは構わないけど…。静香ちゃん、時間は大丈夫?」
「大丈夫です。今日はもう講義も終わったし、バイトも休みなので」
「そうなの…?」

しかし、静香の「お見舞いに行く」という発言を聞いた岩泉母は、暫くしてニコリと笑みを作る。
なんだか企みでも思いついた、とでもいうような表情の岩泉母の様子に、静香は純粋に首を傾げる。
そうして一緒に買い物をしている間も、岩泉母の機嫌は始終良さげなままだった。
誰かが息子のお見舞いに来てくれると知って、こんなに機嫌が良いのだろうか。
そうして買い物を済ませ、岩泉母の車に乗せて貰い岩泉の借りているアパートの前に着いた時、静香は岩泉母の笑顔の理由を知ることとなる。

「それじゃあ、静香ちゃん。一の夕飯お願いできるかしら?」
「えっ…あ、はい…?」

車を降りた静香は、先程購入した岩泉のための夕飯など諸々が入った買い物袋を渡されて、疑問符を浮かべる。
岩泉のお母さんは、息子の夕飯を作りに来たのではないのだろうか。

「それじゃあ申し訳ないんだけど、私は帰ることにするわね」
「え…?」
「二人きりの方がいいでしょう?」

ウフフと口元に手をあてて微笑む岩泉母の言葉に、静香はやや頬を染める。
動揺した静香の様子を眺めて満足したらしい岩泉のお母さんは、「お邪魔虫は退散しまーす」と言って手を振り、そのまま車に乗って帰って行ってしまった。
それを見送った静香は、暫く呆然としてその場に立ち尽くす。
岩泉のお母さんがスーパーでニヤニヤしていたのはこういう事だったのか…!と気付いても、全ては後の祭である。
そうして買い物袋を片手に持ったまま立っていると、視界の端で数人の子供達が歩いている姿が見えた。
夕暮れ時とあって、陽の光を浴びた子供達の影はぐんと伸びきっている。
そんな自分たちの影を踏みんで遊んでいるのか、きゃっきゃと楽しそうにしている子供達を眺めながら、静香はふぅと息をついた。

こうなってしまったのならしょうがない、と諦め、買い物袋片手に岩泉の住む部屋へと向かう。
ドアの前に立った時、事前に連絡をしておけば良かったと今更ながらに思う。
しかし、もうここまで来てしまったのだからどうしようもないと、インターホンを押した。
周囲にピンポーンという軽快な音が響き、静香はとりあえず中の人間が出て来るのを待つ。
突然部屋を訪れたものだから、きっと岩泉は驚くだろう。

インターホンが鳴ってから暫くして、家の中から足音が聞こえてきた。
そして何の応答も無く、鍵が解除されてドアが開いた。
おもむろに開いたドアの向こうに立っていた岩泉は完全に油断しており、買い物袋を持った静香を見てやや目を見開き、固まった。
やはり、お母さんが来たのだと思ったらしい。

「……何で」
「はじめのお母さんに聞いたよ。風邪大丈夫?」
「…おー…まぁ、朝よりは…」

そう言いながらも、立っているのも少しだるそうな岩泉に気づき、静香はさっさと岩泉を押して家に上がり込んだ。
押されるままに自身の部屋に戻り、静香に寝るよう促された岩泉は、おずおずと布団の中に入り込む。

「今日は私が夕飯つくるから、はじめは寝てて」
「…おぉ」

問答無用、と言わんばかりの様子の静香に、岩泉は特に反論することなく大人しく寝転んでいる。
そうして買い物袋の中身を漁り始めた静香を、岩泉はベッドに入ったままぼんやりと眺める。
何か言いたいことでもあるのだろうかと顔をあげた静香ではあったが、岩泉が本当にただぼんやりとしている事に気付いてハッとする。
膝立ちで岩泉の寝転ぶベッドに近寄り、岩泉の額に手をあてると、じわりとした熱さが手に伝わった。

「まだ熱あるみたい…」
「ん…寝りゃ治んだろ…」

そう言いながら、岩泉は熱い息を吐いてゆっくりと目を閉じる。
お前の手冷たくて気持ち良いわ…などと言う岩泉を見下ろしながら、静香は額に置いていた手を滑らせ、岩泉の髪に触れる。
いままでずっと寝ていたのだろう、汗をかいたせいで髪は少し湿り気を帯びている。

「…夕飯食べて、今日は早く寝てね」
「…俺、今日ずっと寝てんだけど…眠れる気がしねぇ」
「じゃあ、私がはじめが寝るまで子守唄でも歌ってるよ」
「…なんだそりゃ」

静香のちょっとした冗談に、岩泉は可笑しそうに笑う。
よく見れば顔色はあまり良くないが、全く元気がないというわけでもないようだ。
朝よりは楽になった、というのはどうやら本当らしい。
それに安堵してから、静香はゆっくりと立ち上がり、夕飯の材料の入った買い物袋を持ち上げる。
おかゆにしようか、うどんにしようかと考えながら再び買い物袋に視線を落とすと、ふいにスカートを引っ張られる気配がした。
思わず振り返ると、岩泉はぼんやりとした表情で静香のスカートの端を握っていた。
そうしてツイツイと静香のスカートの裾を引き、岩泉はボソリと「うどん食いたい」と夕飯のリクエストをする。
買い物袋の中身を見て、静香が何を考えているのか察したようだった。
しかし、普段たくましい人が弱っている、という状況にもよるが、ささやかなお願いをしてくるその仕草が、静香の母性本能をくすぐる。
「気合い入れて作るから!」と静香が握りこぶしを掲げてみせると、岩泉は布団に入ったままフッと息を吐くように笑った。
静香の単純なところを笑われたのだとは分かったが、岩泉の満更でもなさそうな表情を見ると、これも悪く無いなと思えてしまうのだから、恋というものは恐ろしい。





30分程で、うどんの下準備は全て終わった。
あとはつゆの中にうどんを入れ、具をのせるだけというところで、静香は岩泉の眠るベッドに向かう。
台所から一枚のドアを挟んだ奥の部屋に足を踏み入れると、カーテンの隙間から差し込む夕陽の光が直撃し、その眩しさに思わず目の前を腕で隠す。
幸い、岩泉が寝ているベッドに光は差し込んでいないようである。
それを確認してから、ベッドで寝ている岩泉を起こさないように、静香はそろりと足音を殺してカーテンに近寄る。
隙間の空いたカーテンを閉め切ってはみたものの、カーテンのレールからひっかけ部分がひとつ外れているせいで、部屋に差し込む光は防ぎきれない。
数分間カーテンと格闘したものの、カーテンレールのひっかけを直さないと無理だと判断し、静香は渋々諦めた。
そうしてチラリと寝ている岩泉の方へと視線を向けるも、夕陽の光が差し込む部屋の中にもかかわらず、眠っている岩泉は目覚めそうにない。

夕飯の準備はできてはいるが、起こしてしまうのはなんだか可哀想である。
そうして未だ眠っている岩泉を起こすべきか起こさないべきか悩んでいると、ごそりと布ズレの音が聞こえた。
どうやら、岩泉が寝返りをうったらしい。
先程まで仰向けに寝転んでいた体勢から横向きになり、静香の立つ方に顔を向けたまま寝息をたてている。

「……」

無言でベッドに近寄り、縁の空いたスペースにゆっくりと腰掛けて、静香は岩泉の寝顔を覗き込む。
普段はキリッとして鋭いその目は閉じられてしまい、眉間によく寄っている皺もなく、岩泉は寝息をたてている。
そうして暫く岩泉の顔を覗き込んだ後、折角眠っているところを起こすのは可哀想だという結論に至り、静香はふと正面に視線を向けた。
「ベッドに寝転ぶと丁度いい位置にテレビがあるんだ」と岩泉が言っていたが、成る程、丁度良い位置にテレビの画面が据え置かれている。
小さめのテレビの置かれている台には、バレーの試合のDVDが数枚と、リモコンが乗っていた。
そしてその隣にある棚には、バレー関連の雑誌と、何故か高校時代に使った社会の資料集が収められている。
そしてその隣には、静香が岩泉にプレゼントした黒ヤギのパペット人形が置かれている。
しかし、その黒ヤギのパペット人形の首元に赤い何かが巻かれている事に気付き、静香は息を止めた。

いつだったか、静香が編み物をしているところを見かけて興味が湧いたらしい岩泉に、簡単な指編みの仕方を教えたことがあった。
「これくらい簡単なら俺でも出来るな」なんて言いながら30センチ程編んだものの、早々に飽きたらしくそこで諦めてしまった岩泉には、思わず笑ってしまったものだ。
その時に編んだ細く短い毛糸製のそれを、まるでマフラーのようにパペット人形に巻いているのだ。
そして極めつけは、ヤギのパペット人形の傍に置かれている、もう1本の赤い編み物である。
静香の記憶にないことから、恐らく一人でどうにか編んでみたのだろう。
ところどころ編み目の大きさにバラつきがあるものの、黒ヤギのパペット人形に巻かれているマフラーとほぼ同じものである。
そうして静香の脳裏に浮かんだのは、自身が持っている白ヤギのパペット人形である。
ほぼ確信に近い。
きっともうひとつのあの赤い小さなマフラーは、静香が持っている白ヤギの郵便屋さんのパペット人形のためのものだ。
それに気付いて、静香は思わずはぁ〜と息を吐きだして俯いた。
岩泉と付き合いはじめてそれなりになるが、自分はいつも翻弄されてばかりである。
故意にしても故意でなくても、幾度も静香を振り回すこの恋人は、どちらかと言えば男らしい分類に属す人である。
それがどうして、こうも可愛いところすら併せ持つのだろう。
そうして贅沢な悩みに唸っている間に、陽の差す向きが変わり、ベッド縁に腰掛ける静香の方にまで陽の光が当たる。
カーテンから差し込む光を受けて、静香の影は壁沿ってぐんと伸びる。
その影が不意に揺れた気がして、静香はふと視線を壁に向けた。
途端、静香の影の肩付近に、手で作ったキツネの影が現れた。
パクパクと口元を動かして気付いて欲しそうにしているそれに思わず笑いながら、静香はゆっくりと振り返った。

「…起きてたの?」
「おぉ」

ニッと笑い、岩泉は未だ手で作ったキツネの影絵でふざけてみせながら、ゆっくりと上半身を起こした。
汗をたくさんかいているおかげが、岩泉の顔色は幾分か良くなっている。
寝始めてから1時間程ではあるが、少しでも楽になったのだと伺えてホッとする。

「うどんの下準備できてるよ」

クスクスと笑いながら、静香も岩泉の所作をマネして手でキツネを作ってみせる。
光を浴びて伸びて影は、キツネのシルエットを壁に映し出し、岩泉の作り出した少し大きなキツネに話しかける。

「…なんか悪いな」
「気にしないでよ。はじめだって、私のお見舞いに来てくれたことあるじゃない」

パクパクとキツネの口を動かしてみせると、岩泉は静香の家にお見舞いに行った事を思い出したのか、苦笑いを浮かべる。

何ヶ月か前の事だったと思うのだが、静香が高熱を出して寝込んでいた時に、岩泉は静香の家にお見舞いに来てくれた。
その時、休暇を取って家にいた静香の父が玄関に出て、はじめて娘の彼氏と対面した。
平日の昼の時間とあって、まさか静香の父親が家から出て来るとは思わず、岩泉は一瞬頭が真っ白になったらしい。
しかし、なんとかその場をくぐり抜け、静香の部屋に通された岩泉は、「おじさん居るなら言えよ…」と少しだけ疲労した様子だった。
どうやら緊張して気をはっていたようではあったが、静香の父親から岩泉に対する印象はわりと良いものだった。

そうして数ヶ月前のことを思い出している静香を他所に、岩泉はトントンと静香の肩を叩く。
何?と首を傾げると、岩泉は「壁を見ろ」という風に指をさす。
それにつられて、静香の影が伸びる壁に視線を向けると、岩泉は手で何かの形を作り出し、それを静香の肩に乗せた。
岩泉が手で作ったものが何なのかは分からないが、それが光を浴びてシルエットとなったことで、はっきりとそれが何であるのか理解した。
静香の肩でパタパタと羽を広げている影は、ふっくらとした梟である。

「凄い…、それどうやってるの?」
「ん、こうだよ」
「…えっと…」

キツネとイヌなどという簡単な影絵遊びは知っているが、梟の影絵の作り方を知らない静香は、岩泉の手の形を参考にまねてみせる。
そうして手で作ったそれを光にあてると、壁には小ぶりの梟のシルエットが浮かび上がった。
中指と薬指と小指を一緒に動かしてみせると、まるで梟が羽をばたつかせているように見えて、静香は素直に感心する。

「ちゃんと梟に見える…」
「だろ」
「…でも、はじめ詳しいね」

梟の影絵なんて知らなかった静香の純粋な疑問に、岩泉は次にウサギを作ってみせて答える。

「この前、近所の子供に教えて貰った」
「…え?」

なんでも、このアパートの前の公園で小学生が良く遊んでいるらしい。
大学の帰りに、その子供達が影絵で遊んでいるのを見かけて眺めていたら、その子供達が嬉々として教えてくれたらしい。
学校で習ったんだと言いながら岩泉に数々の影絵を披露され、こうして岩泉は影絵を何種類か身につけたのだという。

「…前から思ってたけど、はじめってすぐ子供と仲良くなるよね」
「そうか?」

高校の時だって、公園で遊んでいる子供達と定期的にバレーをしていたこともある岩泉だ。
なんだかんだで子供っぽい一面もある岩泉のことだから、純粋に彼らと楽しめるところがあるのだろう。
更に言えば、子供達に話しかけられても、彼らの目線になって話してくれるところが、岩泉が子供達と仲良くなれる所以ではないかと思う。
しかし、本人にその自覚があまりないというのが、なんとも可笑しい話である。

「…はじめは、子煩悩な良いお父さんになりそうだね」

特に何の思惑も無く口にした静香の言葉に、岩泉は一瞬だけ動きを止めた。
どうしたのだろう、と疑問に思った静香ではあったが、数秒して岩泉が何に驚いたのか思いあたって固まる。
そんなに深い意味はないのだと流してしまえたらいいのだが、それが上手くできずにまごついている静香を見て、岩泉はブフッと吹き出した。

「何慌ててんだよ」
「…べ、別に慌ててない」
「嘘つけ」

「バレバレだ」と言って笑う岩泉は、再び影絵のキツネを作り出し、まるでキスでもするかのようにキツネの口先を静香の唇にちょんと当てる。

「愛妻家にもなりそうだわ」

ちょっとした意地悪なのか、本音なのかは分からない。
しかし、口端を上げて微笑む岩泉は、思わず見蕩れてしまう程に優しげだ。
ごくりと息を飲んだ静香に気付きながらも、岩泉はゆっくりと顔を傾けて距離を縮める。
しかし唇が触れ合う寸前に、岩泉は思いとどまってピタリと動きを止める。

「…風邪うつしちゃ悪いか」

ここで自分が病人であると思い出したらしい。
しかし、ここまできてお預けというのは、静香にも辛い話である。

「欲しい」

岩泉のキスも風邪も、子供も。
その全てを孕んだ言葉の意味に、岩泉は気付いたのかは分からない。
しかし、それを聞いてためらいなく口づけるくらいには、岩泉も欲望に素直ではあるらしい。

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