いざ舞踏会へ

某月某日。
進級もさし迫り、就職活動というものもいよいよ始まりを見せた。
将来どうするか、という事を本格的に決めてしまわなければならない時期とあって、静香はごく自然に岩泉に今後どうするのかと尋ねた。
純粋に気になっただけの、「就活どう?」という静香の質問に対し、岩泉はベッドに腰掛けたまま、開いていた旅行雑誌から視線を上げた。

「実は、就職決まりそうなんだよ」
「えっ、そうなの?」

パソコンの前に座っていた静香は、岩泉の思わぬ発言に驚き、マウスを滑らせる手を止めた。
岩泉曰く、今現在、県外の企業にバレーの選手として就職できそうなところであるらしい。
それを聞くや否や、静香は「凄い!」と感心して目を輝かせた。

「もう…なんで教えてくれなかったの?」
「…なんつーか、正直俺も悩んでんだよ」

バレーが好きな岩泉が、バレー選手として就職することに悩むという方が静香には不思議だった。
高校の頃の将来の夢はバレー選手!と、岩泉はクラスの卒業記念冊子にも書いていたはずである。
それなのに何故、という静香の疑問を汲み取ったのか、岩泉はそれについて口を開く。

「そりゃ、仕事でも趣味でも、バレーができたら幸せだろうとは思う。けど例えば普通の会社に就職しても、バレーはできるんだよ。…それに」
「…それに?」
「ずっと選手でいられるとは限らねぇだろ。それを考えるとな…」

特になんとも無さげにそう言った岩泉の言葉には、妙な重さがあった。
その発言に対し、口を半開きにした静香は、なんと言おうかと考えあぐねる。
大学生活中に、岩泉にも思う所があったのだろう。
夢と現実。
それを突きつけられるのは、この時期は特にである。

「まぁ…確定ってわけじゃねーんだけどな。今のところの有力候補ではある」
「そっか…。それじゃ私も、そっちの方で就職先探さなきゃね」
「…え?」

至極当たり前のようにそう答えた静香だったが、それに対して岩泉は間抜けな反応を示した。
まるで予想外だと言わんばかりの表情に、今度は静香の方が不安になる。

「えっ…何…?」
「…いや、その、なんつーか…」

モゴモゴと言い淀んだ後、岩泉は「なんでもねぇよ」と言って誤摩化した。

「それよか、どこ行くか決めたか?」
「…ううん、まだ」

パソコンを前に腕を組んだまま、静香は「うーん」と唸る。
先日デートに行った時、岩泉との会話の流れで「二人で卒業旅行にでも行こうか」という話になった。
社会人になれば休みというものもとりにくくなるだろうし、学生で休みが多く、時間のある時に思い出を作ろう。
そういった意味での「卒業旅行」という話なのだが、ここで問題なのは行先が決まらないことである。
ここへ行こう、あそこへ行こう、などという案が多すぎて、なかなかにまとまらないのだ。
岩泉も、わりと行先にこだわりはないようで「どこでも楽しそうだけどな」という一言のみである。
そんな岩泉も旅行雑誌を開いて旅先を探してくれてはいたのだが、全て見終えたのか雑誌をパタリと閉じてしまった。
そうしてゆっくりとベッドから立ち上がり、先程からパソコンの前でひたすらに検索をしている静香の後方に周り込んで、岩泉も一緒に画面を覗き込む。

「いくらか絞れたか?」
「うーん…調べれば調べる程決まらないというか…」
「ふーん…」

静香が今現在開いているのは、大手旅行代理店のウェブサイトである。
カップルにお勧め!と特集を組まれている旅行先の一覧を見ているのだが、正直どこも魅力的で絞りきれない。
いっそあみだくじでもしてみようか、なんて静香が考えていると、不意に岩泉は後方から腕を伸ばし、静香の肩越しに画面を指差した。

「…逆にさ、旅行じゃねーんだけど…こういう所行ってみるか?」

岩泉が指差したのは、画面の端の方に表示されていたホテルの広告だった。
この辺りでは有名な高級ホテルの広告の下には、カップルでのディナーに…、などと煽り文句が添えられている。
旅行案内記事ではなく、まさかその隣の広告の内容を提案されるとは思わず、静香は不意を打たれて瞬きをする。

「ホテルのディナーかぁ…。はじめは行った事ある?」
「行った事ねーけど、お前はこういうの好きなんじゃねぇの?」

見透かされている、と静香はぎくりと背筋を伸ばした。
そりゃあ、こんなロマンチックなところで岩泉と夕食なんて憧れないわけがない。
岩泉との外食は、だいたい行きつけのラーメン屋や定食屋へ赴く事が多く、洒落た店等たまに寄るくらいである。
だいたいお洒落なお店で出される料理の分量は少なく、たくさん食べる岩泉にとっては物足りないということから、二人の食事事情は自然とこうなった。
それに対して静香は、特に不満な部分はないし、満足そうな岩泉を眺めていると胸が温かくなる。
しかし、テレビのドラマでしか見た事が無い、夜の夜景を二人で眺めるあの場面が現実になるというのなら、こんな素晴らしい事はないと思うのも事実である。
それに、こういう所での服装は恐らくドレスコードになるだろう。
カッチリとしたスーツに身を包む岩泉と一緒にこんなところで夕食なんて、なんて素敵な事だろう。

「でも、きっと高いし…」
「旅費に比べれば、そうでもないだろ」
「ドレスコードも必要だし…」
「お前、この前謝恩会あるからドレス買ったって言ってただろ」

行きたいくせに遠慮して、「別に行かなくても大丈夫」というふりをしている静香に気付いていて、岩泉は逃げ道を丁寧に塞いでいく。
普段はわりと素直である静香が、いざ嬉しすぎることに直面すると怖じ気ずく事を、岩泉はよく知っている。

「いいんじゃねーの。俺達もう大学卒業だし、社会人になる記念として」

そうして静香が何も言えなくなったところで、岩泉は最後の仕上げとばかりに、静香を説き伏せる。

「綺麗な格好してきてくれよ」

そう言って笑う恋人を見上げ、静香は観念したかのようにふっと吹き出して、いつの間にか隣に座りこんでいた岩泉にもたれかかった。
岩泉と会うときはいつだって身なりを整えているつもりである。
しかし今度の夕食会の時は、更に気合いを入れてお洒落をしていかなければならないようである。

「はじめも、カッコイイ服装で来てね」
「…カッコイイ服装っつっても、俺スーツしか持ってねぇぞ」

「どんなのがいいんだよ?」なんて静香に尋ねてくる辺り、静香の意見を参考に服でも揃えるつもりなんだろうか。
分かってないなぁ、なんて思いながらも、静香はそれが嬉しくてしょうがない。
静香は岩泉がずっと好きでいてくれるような、女の人でありたいと常々思っている。
身なりを整えるのもその一環であり、そしてそれが岩泉にもあてはまるのかと思うと、口元のだらしなさは隠せない。

「残念、はじめ君はどんな格好でもかっこいいから何でも良いです」
「…なんだそりゃ」

そんな事初めて言われたわ…なんて言いながら、岩泉は寄りかかっている静香をそのままに、マウスを横から奪い、ホテルの広告をクリックした。





どこへ行くか決めるのに数日要することにはなったが、二人は電車に乗って2駅程遠くの、駅前のホテルに行くことにした。
卒業旅行、という当初の目的とは随分と変わってしまってはいるが、新鮮さの意味ではこちらも負けてはいない。
事前にネットで調べているから値段がそれなりにするとは分かってはいるものの、やはり1度の食事に万単位のお金を使うというのは、学生の静香にははじめての事である。
これが大人の世界か…などと考えてしまう静香は既に成人を迎えてはいるが、いまいち大人というものが良く分からない。
大学を卒業し、社会というものに馴染めば分かるのだろうか…なんて頭の片隅で考えながら、静香は待ち合わせ場所に佇んでいた。
駅の構内、硝子張りのカフェチェーン店の前に立ちながらゆっくりと振り返り、今日の自身の格好をチラリと確認する。

大学の卒業式後の謝恩会で着るつもりで買ったワンピースドレスを、まさかこんなに早く着る事になるとは思わなかった。
家で着替えている静香を見て、「何で今それを着るの?」と言いたげに首を傾げた母親に、今日はホテルのディナーへ行くのだと言えば「ふーん」とニヤつかれたのは恥ずかしかった。
おそらく誰と一緒に行くのかは見透かされてしまっている。

それを思い出してブンブンと頭を振り、静香はなんとか自身を落ち着かせるように長く細い息を吐き出す。
浮かれているせいか、なんだか今日は感情の変化が激しい。
そうして少し落ちついたところで、静香は「綺麗な格好をしてきてくれ」なんてしたり顔で言っていた岩泉を思い出しながら、自身の足下に視線を落とした。
新調したパンプスは履きなれないところではあるが、それよりも普段とは違った身綺麗さでここに立つ自身に、静香はふわふわと浮き上がる心地がした。
昼に美容院に赴き、髪もセットして化粧も施し、普段は着ない特別な服を纏っていると思うと、まるでお姫様気分である。


「悪い、待たせた」

静香が待つ事、15分程。
待ち合わせの時間ギリギリのタイミングで、岩泉も姿を現した。
カツリと靴音を鳴らし、目の前に現れた岩泉の姿に、静香は呆気にとられて何も言えない。
カッチリとしたスーツをピシリと着込み、深みのある色のネクタイを締め、更に少し前髪を上げていることに気付いてポカンとする。
明らかに、普段の岩泉らしからぬキラキラとしたオーラが漂っているように見えるのだが、これは静香の錯覚なのだろうか。
そうして、静香にあまりにもじっと見られている事にいたたまれなくなったのか、岩泉は首裏をかきなからボソボソと口を開く。

「…気合い入れ過ぎたか?」
「ううん!そんなことない!」

ははぁ〜という感心に近い声を上げ、静香はいろんな角度から岩泉の格好を眺める。
普段はカジュアルな格好が多く、特に家にいる時なんかはTシャツなどのラフなものばかり着ている岩泉のキッチリとした服装は、相当に珍しい。
それに、恐らく岩泉もここに来る前に美容院に行ってきたのだろう。
以前会った時より少し髪が短くなっている上、こんなに綺麗に髪を整えられている恋人を見るのは初めてである。
それ程までに、今日のために準備をしてくれたのかと思うと静香は感涙しそうになった。
そしてあわよくば、記念に写真を撮って保存をしておきたい。

「はじめ、ちょっと記念に写真撮ってもいい?」

小ぶりのバッグから携帯を取り出した静香は、ほぼ真顔である。

「…なぁ、普通逆じゃねぇ?」
「何が?」
「こういうのは男が女の格好見て、綺麗だとかなんとか…そう言うやつだろ…」

静香にキャーキャー言われているのが恥ずかしいのか、岩泉はそわそわと視線を彷徨わせている。
岩泉が普段の調子を狂わせている。
それに気付いたこともあるが、妙に浮き足立っていたせいか、静香は半ば余裕のある気持ちで岩泉を見上げる。
そしてワンピースの裾をつまみ、軽く持ち上げて小首を傾げてみせてしまうくらいには、舞い上がっていた。

「綺麗かな?」

こんなこと、面と向かって尋ねたのは初めてかもしれない。
しかし静香には、ある意味での確信があった。
きっと普段行かない美容院に行って髪まで整え、バッチリと決まった格好で現れた岩泉も、静香と動揺に浮かれている。
へへへ、とまるでご褒美を待つ犬のように笑う静香を見下ろし、岩泉は不意をつかれたかのように何度か瞬きを繰り返す。
そして肩の力を抜くように息を吐いた後、岩泉は慕うような眼差しで口を開いた。

「綺麗だ」

あまりに真面目な顔でそんな事を言われたものだから、今度は静香が静止する。
そりゃあ、このムードで「綺麗だよ」などとお世辞であっても言ってくれるのであろうとは思っていたが、岩泉の口からいざそれが出ると驚いてしまうのだ。
岩泉の言葉はいつだって真直ぐだ。
だからこそなのか、こうして身構えていても胸の中心を打ち抜いていく。
まるで岩泉が放つ、強烈なスパイクのようだ。

「…写真は後にしようぜ。時間もねぇし、行こう」

今度は静香が調子を崩した事に気付いて、岩泉は普段の余裕を取り戻す。
争う必要なんてないくせに、まるで攻防戦をしているかのように錯覚してしまうこのやり取りをする二人は、おそらく一般的にバカップルと呼ばれてしまうものだろう。
二人して何をやっているんだか…なんて、呆れながらも、静香の口元は緩んだままだ。
岩泉に褒めてもらえて嬉しい、ディナーに誘ってもらえて嬉しい、こうして服装に気合いを入れてきて貰えて嬉しい、褒めてもらえて嬉しい。
嬉しいばかりが積み重なり、まるで夢の中にいるのではないかと不安になる程である。
そして二人して駅を出て、目的地へ向かう道すがら、静香は自身の胸に手を当てる。

「どうしよう、緊張してきた…」
「んな肩の力入れなくても、大丈夫だろ」
「…はじめだって、本当はあんまり余裕ないでしょ。こういうところ初めてだし」
「まぁな…。けど、お前もだろ」
「うん…」
「一緒に慣れていけばいいじゃねーか」

気負う必要はない。
そう続けて静香の頭にポン、と手を置いた岩泉の服の袖には、何故だか小さな葉っぱがくっついていた。
それを指摘すると、岩泉はちょっと恥ずかしそうにパパッと葉っぱを払い落とした。
一体どこを歩いてきたのか。
高校時代、及川達と何故だかかくれんぼをしていて、草影に隠れていて葉っぱだらけになっていた岩泉の事を思い出し、静香はクスクスと笑う。

「決まらねぇな、くそ…」

そう言ってちょっと悔しそうにする岩泉の、そんなところも愛おしい。

back
ALICE+