騎士様が怖いリターンズ
ただの偶然だった。
サークルの集まりの帰り、ちょっと小腹が空いたから何か食べよう、というサークル仲間の提案で立ち寄ったサンドイッチの店で、思わぬ再会をした。
「あれ、ジョニー?」
店に入ってすぐに迎えてくれた女の店員さんには、非常に見覚えがあった。
そして懐かしいあだ名を口にした彼女は、高校時代の俺の想い人だった。
「どうしたんだ、井田?」
席についてからも、カウンターの奥で準備をしている栗原さんが気になって仕方が無い。
そんな俺を不審に思ったらしいサークル仲間は、すぐに俺が栗原さんを気にしている事に気付いたらしい。
俺と栗原さんを見比べてから、ニヤリと口端を上げて隣に座るもう一人の友人を肘でつつく。
「なぁオイ、井田の奴あの店員さんに気があるみたいだぜ」
「マジで? あの女の子?」
「そうそう」
「ちょ、もうちょっと声抑えろって……!」
そんなに広くない店内で、普通の声量で喋るものだから、井田は慌てる。
ショーケースの向こう側で準備をしている彼女に、
そもそも、たった少しの時間栗原さんを眺めていただけで、何でこいつらはこんなに察しがいいのだろう。
そんな俺の疑問をまたもや察してなのか、サークルの友人二人は「お前は分かりやすいんだよ」と揃って口にした。
確かに俺はどちらかと言えば分かりやすい人間で、とてもミステリアスという言葉からは遠い性格をしているとは思うが、そこまで言い当てられるとは思いもしない。
「知り合いなんだろ? さっきちょっと喋ってたし」
「……高校3年の時のクラスメイトなんだよ」
「へぇ、で、井田はあの子の事好きなの?」
ニヤリと口端を上げる友人に、慌てて「違う!」と言い返した井田ではあったが、数秒してピタリと動きを止める。
「違う……かも……」
「……お前も大概素直だよな」
意地になったかと思えば、自身無く素直に白状した井田に、友人二人は呆れているやら好感が上がるやら、なんとも不思議な心境に陥る。
栗原さんが好きなのかと言われれば、どちらかと言うと好きである。
時間が経てば、栗原さんの事を忘れられると思っていたが、こうして本人を目の前にすると、当時の切ない気持ちが蘇る。
栗原さんと付き合っている岩泉が幸せそうで、それを羨ましく思っているうちに、いつの間にか栗原さんを目で追うようになってしまった、高校3年の秋。
栗原さんは岩泉しか見ていなかったし、岩泉も栗原さんを大事にしていたし、二人は自分の友達で、とても横から奪い取ってやろうとも思わなかった。
そもそも俺にはそんな度胸も無いし、到底岩泉に敵うはずもない。
戦う前に勝負は決している。
しかし、そんなこと分かっているものの、己の感情というものは制御できないのだ。
先日、高校3年時のクラスでの飲み会があったが、どうしても外せない用事があって参加できなかった。
数年ぶりに会うということで参加をしたいという気持ちもあったが、岩泉と栗原さんと会うかもしれないと思うと、正直期待もあれば恐れもあった。
高校を卒業して数年。
交際というものは山有り谷有り、もしかしたらあの二人は破局しているかもしれない。
しかし、二人が交際を続けているのならば、関係性はより深いものになっているのだろう。
そう思うと、なんとなく同窓会に参加した友人に詳細も尋ねられなかった。
それくらいには未練たらしく思っていたのが実際の所である。
そんな中で、まさか栗原さんとこうして対面することになるとは思わなかった。
「こちら、アイスコーヒーになります」
苦いコーヒーは正直苦手だが、格好つけて注文したそれを栗原さんから受け取る。
会わなかった数年の間で、栗原さんは何だか大人っぽく、綺麗になっている気がした。
高校の頃に比べると、女の人になってしまった彼女をぼうっと眺めていると、目の前に座っている友人が「あの〜」と口を開いた。
「店員さん、井田と知り合いなんすよね?」
「高校の頃、どうでしたコイツ?」
「ちょっ、お前ら……!」
ニヤニヤとしながら静香に声をかける二人に、井田は慌てる。
こちらの恋愛事情を知って興味津々といった友人の態度に流石にヒヤリとしたが、栗原さんはそんな事に気付いた風もなく、記憶を辿るように「そうだなぁ……」と呟いて答えてくれた。
井田はクラスのムードメーカーであったこと、文化祭の劇で一緒に演じる事が多くよく話したこと、体育祭の借り物リレーで呼ばれ驚いたことなど、彼女にとって印象的な出来事をつらつらと並べていく。
当然ながら、そのどれもに心当たりのあった井田は、静香がそれらの出来事を覚えていてくれたという事を素直に嬉しいと思った。
思わず、昔話に花を咲かせる程にお互いに話込んでしまった。
その様子を眺めていた友人二人は、ニヤニヤとした表情から、何やら微笑ましいものを見るような目に変わっていって、若干気恥ずかしかった。
まるで高校時代の自分に戻っていくように、過去の記憶は次から次へと溢れ返る。
話の途中、仕事中だと思い出して慌てて店の奥に引っ込んでいってしまった静香を見送った頃には、井田はすっかり高校3年生だった。
「何だよ、結構仲いいじゃん。つまんね〜」
「まぁな……」
「告んないの?」
「いや……それはその……」
言葉を濁した井田に、友人二人が首を傾げる。
そうなのだ。嬉しい事に栗原さんとは気軽に話せるくらいには、仲が良い方だと自分でも思っている。
しかし、問題はこれから先にあるのだ。
「栗原さん、高校の頃彼氏いたんだよ」
「……」
「……あらら」
一瞬で沈んだ空気を持ち上げようと、友人の一人がおどけてはみたが、空気は大して良くならなかった。
普段は明るい井田が少しだけ切なそうにしているのに気付いて、友人二人は慌てたようにフォローに回る。
「いやでも、高校の頃の話だろ? もしかしたら別れてるかもしれねーじゃん?」
「そうだよ、聞いてみよーぜ」
「おい、馬鹿……!」
友人も慌てたのか「本人に聞いてみよう」と提案し、まるで注文をするかのように「すいませーん!」と片手を上げた。
それを慌てて抑え込んだ井田は、注文票を持ってこちらに来ようとした静香を静止させ「大丈夫だから!」と注文を断った。
「何言ってんだよお前」
「いやでも、聞いてみない事にはわかんねーだろ」
「確かにそうだけど……」
友人の積極性は動揺から来るものではあるが「聞いてみないと分からない」というのは確かである。
そこで「うーん」と唸った後、井田はチラリと静香を盗み見る。
カウンターの奥でコーヒーを入れている彼女には、この店に来ればそれなりに会えるだろう。
だからこそ、別に今岩泉と付き合っているのかいないのか、付き合っていなかったとしたら彼氏はいるのか、と尋ねるのはいつだっていい。
しかし、そのままズルズルと引きずって、後になって「付き合っている人がいる」と言われたらそれはそれでダメージは凄まじいものになるだろう。
早くトドメを刺されたいような、刺されたくないような、陥る心境は複雑である。
「どうすんだ、井田?」
「……とりあえず、」
「うん」
「今日会ったのも何かの縁かもしれないし、栗原さんのバイト上がりの時間聞いて……ご飯に誘ってみる」
「おぉ……!」
良く言ったぞ井田! と友人が二人して肩をバシンと叩いたものだから、井田はテーブルに突っ伏しかけた。
しかし、気付けには丁度良い刺激にはなったように思う。
そうして再び、こちらの方にグラスを下げにやって来た栗原さんにバイトの上がり時間を尋ねると、なんとあと15分くらいで終わりらしい。
あまりの偶然、そしてタイミングの良さに、自分には縁の遠い恋の女神が微笑んでくれたような気がした。
これはもう声をかけてみるしかない。
友人の後押しもあってか、妙に勢いづいた井田は、静香になんと声をかけて誘おうかと考え始める。
そして、夕飯に誘うなら俺達はお邪魔だろうと、友人二人はここで撤収することになった。
「後で連絡よこせよ!」と言葉を残し去って行った二人には、随分と背中を押して貰った気がする。
「栗原さん、ちょっといい?」
「はい、なんでしょう」
必死で脳内で誘い文句を整えながら、井田は咳払いをした。
友人二人が先に帰って行ったものだから、栗原さんは少しだけ不思議そうにしている。
そんな彼女は注文票を構え、井田が口を開くのを待っていた。
思考の端で、カランカランと店のドアの開く音が店内に小さく響いたが、井田はそれどころではない。
この機会を無駄にしてはいけない。
ただご飯を一緒に食べようと誘うだけだ。
もし栗原さんに彼氏がいたとしても、別に横から奪ってやろうだとか、そういうのではない。
ただ久しぶりに会ったから、ちょっと一緒に話がしたいだけだ。
そう必死に自身に言い聞かせた井田は、静香を読んでから数秒時間を置き、「よし!」と勢いづいて顔を上げる。
「栗原さん、もし良かったらなんだけど、」
この後一緒にご飯でも。
しかし、次に続くはずの言葉は、栗原さんの後ろに立っている人物に気付いた瞬間、音になることなく消え入った。
後ろに誰かが立っていることに気付いたらしい栗原さんも、注文票を構えたままにゆるりと振り返る。
そうして「いらっしゃいませ」と彼女が声をかけようと振り向いた先には、なんと岩泉が立っていた。
高校時代に比べると少し大人びたようにも見えるが、記憶の中の岩泉とはほぼ差異はない。
以前会った時から変わりがないというのは井田を少しだけ安心させたが、状況が状況だけに心臓が煩く鳴りだす。
間の悪い時に、この場で最も居合わせたくない人物と対面してしまい、井田は恐れで開いていた足を閉じて姿勢を正してしまった。
「はじめ! どうしてここに……」
「ん、丁度この辺通りかかったからついでに寄っただけだよ」
はじめ。
栗原さんの口から出た岩泉の呼び名に、井田は全てを悟る。
彼女は確か、高校の頃は「岩泉」と呼んでいたように思う。
それがより近しい者同士の呼び方に変わっており、更にこの二人の親しげな様子はどこからどう見ても、恋人同士のそれである。
先程までどう栗原さんをご飯に誘うか、と盛り上がっていたというのに、岩泉の登場で一気に修羅場へと成り下がる。
「で、もし良かったら何だよ」
井田の先程の発言を聞いていたらしい岩泉は、しれっとした顔で井田の正面の席に腰掛ける。
久しぶりに会ったんだから世間話でもしようぜ、という風に相席したように見えるが、恐らく岩泉は井田を見張るためにそこに座ったのだろう。
平素と変わらないように見えるが、岩泉は妙な静けさを纏っているような気がするし、この様子では井田が先程何をしようとしたのか気付いている。
「あはは……なんでもないって……久しぶりだな岩泉〜」
「……おー、そうだな」
なんとか明るく振る舞ってみせて、疑いの眼差しを送ってくる岩泉をなんとか誤摩化そうと必死に脳内で会議を開く。
もはや、栗原さんをご飯に誘おうだとか、あわよくばもうちょっと話したいとか、そういう事を言っていられる余裕がない。
たらり、と嫌な汗が背中を伝った。
「い、岩泉は何でここに……?」
「今晩、静香と夕飯食う約束してんだよ。その迎え」
「迎え……」
夕飯を一緒に食べる、というワードを耳にし、井田は既に悟りの境地である。
これは、栗原さんをご飯に誘ったところで断られていただろう。
もし断られず「岩泉とも約束してるから一緒に食べる?」なんて誘われて出向いたりでもしたら、岩泉にある意味殺されそうである。
一人妙に静かになった井田を他所に、岩泉はメニューに目を走らせる。
そうして岩泉はチラッと井田の手元に残っているサンドイッチに視線を向けた後、注文票を持ったまま待機していた静香を見上げた。
そしてアイスコーヒーとカツサンドを注文し、店の奥に戻って行く栗原さんを見送ってから、岩泉は「そういやお前どこの大学通ってんだ?」と世間話をはじめた。
井田も井田で、岩泉が地元のどの大学に通っているのかはっきりと覚えていなかったため、お互いに大学の事も含めて近況報告をする。
てっきり敵視されて口も聞いて貰えないんじゃ? と不安になっていたが、そんな険悪な事も無く、井田はひそかに安堵する。
それもそうだ。高校生の頃も岩泉は、俺が栗原さんの事好きだと気付いても、避けたり無視したり等はしなかった。
そういう男なのだ、岩泉一という人間は。
だからこそ、俺は栗原さんへの想いを引きずりつつも、諦めてしまったのだから。
「アイスコーヒーをお持ちしました」
注文をして1分程。
ウェイトレス姿の栗原さんが岩泉の注文の品を持ってきたはいいが、彼女の手にあるお盆にはアイスコーヒーしか乗っていなかった。
確かカツサンドも注文していなかっただろうか、という疑問は、当然ながら注文した岩泉の頭にも浮かんだようだ。
「カツサンドは……?」
「これから夕飯なんだから、食べ物は我慢しなよ」
あと10分くらいでバイトも終わるから、と続けて、栗原さんは無慈悲にテーブルの上にアイスコーヒーだけを置いた。
彼女のその言葉に、岩泉は珍しく困ったような顔をする。
「俺今すげー腹へってんだよ……夕飯も食えるし大丈夫だって」
「駄目。この前もそう言ってラーメン食べて帰って、夕飯も無理して食べて一日寝込んだでしょ」
「……」
聞きながら正直耳を疑ったが、岩泉の反応から見るに本当の事のようだ。
岩泉はどうやら、そんなアホらしい状況に陥ったことがあるらしい。
岩泉はどちらかと言えばよく食べる方だったとは思うが、寝込む程に食べるというのは限度があるだろう。
それ程までにその夕飯が食べたかったのか、今回のように「ラーメンも夕飯も食べられる!」とでも言った手前引けなくなったのか。
どちらにしても、あまり格好の良い話ではないことは確かである。
それに呆れたというのが半分、そしてさり気なく惚気話をされたというダメージが井田の心にじわりとのしかかる。
しかし、栗原さんに何も言えず、黙り込んでいる岩泉を見るのはなんだか新鮮である。
例えば、二人が並ぶとそれなりの身長差もあれば体格差もある。
圧倒的に岩泉の方が上手であると、二人を見ても明らかなのに、岩泉は栗原さんに頭が上がらないらしい。
結局、岩泉は栗原さんに言いくるめられ、アイスコーヒーのみであと10分程この店で過ごすことになった。
「……意外」
「何が」
「岩泉って尻に敷かれてんだな」
「……そういうわけじゃねぇと思うんだけどな」
苦笑いを浮かべながら、岩泉は素直にアイスコーヒーを傾ける。
そういえば、岩泉がコーヒーを飲んでいるところを初めて見た気がする。
高校の頃は、昼休みにヨーグルトを良く飲んでいた岩泉も、時の流れと共に少し変わったのだと、なんとなく思った。
「あぁ言われると何も言えねーよ」
「……だな」
今回の件は、岩泉の過去の失敗例があるから、岩泉も大人しく栗原さんの言う事に従ったのだろう。
しかし、彼女に頭が上がらない岩泉というのも感慨深い。
今日は、岩泉の珍しい一面を良く見るなぁ……と思いながら、井田もアイスコーヒーを煽り、残りのサンドイッチを口に放り込む。
空腹だというのは本当らしく、それを羨ましそうに見てくる岩泉に、少しだけ優越感を感じた。
「彼女がいるっていうのも、大変なんだな」
「……まぁ、こういうのも悪くねーけどさ」
「……それって惚気?」
「いや、牽制」
牽制、と平然と口にした岩泉と、一瞬目が合った。
「お前、高校の卒業式の時に、静香の下駄箱に手紙入れてただろ」
「ゴホッ」
思わぬ指摘に不意を打たれ、井田はアイスコーヒーを咽せそうになった。
視界の端で、栗原さんと交代で入るであろうウェイターが心配げにこちらを見ていたが、それどころではない。
遡る事数年前。
今と同じように、静香への想いを抱えたまま卒業式を迎えることになった井田は、最後の思い出とばかりに、ささやかなラブレターをしたためた。
差出人の名前などない、ただの想いを書いただけのメモを、彼女の下駄箱にそっと入れた時はそれはそれは緊張した。
岩泉が目を光らせていたということもあり、高校3年の後半は、静香と挨拶を交わすというのが精一杯だった。
だからこそ、最後くらい栗原さんに知っていて貰いたかったのだ。
自分の名前は伝えられなくても、栗原さんの事が好きな、俺のような存在がいたのだと。
しかし、これは本当に予想外だ。
「な……なんで岩泉が知って……」
「俺も手紙見たからな。静香に気があった奴で心辺りあったのお前だけだったし、筆跡も似てたし」
「……」
ばれている。
そう知った瞬間青ざめた井田を他所に、岩泉は自身のペースのままにアイスコーヒーを飲み干した。
これが彼氏の余裕。いや、栗原さんの心をものにしている男の余裕なのか、岩泉には一切の動揺は見られない。
「ついでに言っとくけど、静香はあれがお前からの手紙だって気付いてねーぞ」
「……まぁ、名前書かなかったからな」
ということは、岩泉は差出人が誰だか分かっていて、それを栗原さんに伝えていないという事だ。
彼氏としては、彼女に他の男の存在を知らせたくないと思うだろう。
しかし、岩泉もその例に漏れずに栗原さんに黙っていたのかと思うと、ある意味での感慨深さがあった。
岩泉一という男は、同じ男からみても清々しい程に格好の良い存在である。
真直ぐで裏表も無い、何にでも正面から向き合うその様には、少しだけ憧れていた。
そんな男がひそかに抱える黒い揺らめきのようなものが垣間見えた気がして、井田はゆっくりと口を開いた。
「岩泉って、意外と独占欲強いよな」
「……普通だろ」
少しだけ悩んだようだったが、岩泉は否定をしなかった。
「今思い出したんだけど、体育祭か何かの後に公園で、俺がいるの知ってて栗原さんにチューしてたよな」
「……そういやそんなこともあったな」
すっかりと忘れ去っていたようだが、井田の発言で思い出したらしい。
少しは恥ずかしがればいいものを、岩泉は指摘されても大して動揺もしない。
流石、数年前にあれだけ大胆な事をやってのけた男である。
そうして「懐かしいな」と呟いた岩泉は、腰掛けた椅子の背もたれにゆったりと体重をかける。
「クラスメイトの前で、よくあんな事しようと思ったな」
「そりゃお前が、変な期待する前に叩き折っておこうと思っただけだ」
「ひでえ……」
「俺の幼馴染みの受け売りだよ」
フッと笑いながら、岩泉は自身の本音を隠そうとする気配もなく、腕を組んだ。
岩泉の腕には、いかにも岩泉らしいゴツゴツとした腕時計と、二本のレザー製の細いブレスレットが巻かれている。
そのうちの1本が薄いピンク色で、岩泉にしては意外なチョイスだと思った。
「お前もそろそろ、諦めてくれると助かるんだけどな」
「……諦めてるよ、最初から。でもなかなか、忘れられないんだよこれが」
心というものは、どうやったって思う通りにはならない。
だからこそ、今日だって妙な気を起こして栗原さんに声をかけようとしていたのだ。
正直、栗原さんに彼氏がいようがいまいが、どっちでも良かった。
ただ一緒に話でもできたら嬉しい、という純粋な、どうしようもない未練という名前の感情のせいだった。
「同じ女に惚れたよしみだ、力になれることがありゃ協力するぞ」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべた岩泉は、そうして楽しそうに目を細める。
「まぁ、静香は俺が貰うけどな」
カラリと笑いながら、恐ろしい程の清々しさを纏って放たれた言葉に、井田も流石に面食らった。
とんでもない口説き文句のようなものが同級生の口から溢れて呆然とする事数秒、着替えを済ませた静香が二人の座る席の前に立った。
「お待たせ!」と寄って来た栗原さんの手には、この店の持ち帰り用の小さい紙袋が握られている。
私服が可愛くて和んだのもつかの間、岩泉と会う為にお洒落をしているのだと気付いて、井田は気付くんじゃなかったと少しだけ後悔した。
「どうしたんだ、それ?」
「カツサンド。さっきはお預けみたいにしちゃったけど、半分くらいなら食べても大丈夫かなと思って……」
岩泉に夕飯まで食べ物を我慢するように強く言った後に、少し可哀想になって結局カツサンドをテイクアウトする事にしたらしい。
先程岩泉に有無を言わせなかった栗原さんではあったが、今の彼女はただの可愛いらしい存在でしかない。
岩泉の事を考えてのこの行動なのだろうが、成る程。岩泉は別に尻に敷かれているというわけではないようだ。
「サンキューな。……それじゃあ今日は、少し遠出すっか」
「えっ」
「それ食うだろ? 遠くにドライブがてら腹空かせて、夕飯食べに行けば問題ねーだろ」
そう言うや否や、岩泉はスボンのポケットから車の鍵を取り出した。
チャリンと金属同士が擦れ合う音がするそれを指にひっかけ、岩泉はテーブルの上に置かれた伝票を手に取る。
もはやその発言だけで、これから岩泉が運転する車で二人でデートがてら夕飯を食べに行くのだと分かってしまい、井田は遠い目でぼんやりとする。
何で俺はここにいるのだろう、と十数分前の自身の行動を後悔するも、何もかもが手遅れである。
先に帰って行った友人と一緒に、逃げるように帰れば良かった。
あぁ、何だかこの惨めに思えぬ程の敗北感には酷い既視感がある。
「ジョニーは帰らないの?」
席を立ち、会計に向かった岩泉の後について行こうとした栗原さんは、未だ席に座ったままの井田の方を振り返る。
きっと彼女は、井田がこの15分程で随分と振り回されているなど、思いつきもしないのだ。
そしてこれから、岩泉の運転する車に乗り込み、手に持ったサンドイッチを二人仲良く半分こして、デートに繰り出すのだ。
「いや……俺、もうちょっとここにいるわ」
「そう?」
不思議そうにしながらも、栗原さんは相変わらずの笑顔で「それじゃあ、またねジョニー!」と手を振って店を出て行った。
最後に自分のあだ名を呼んで貰えて嬉しいと思ってしまうくらいには、今の井田は随分と弱り切っていた。
机の上に置きっぱなしにしていた携帯がチカチカと光る。
きっと先に帰った友人達が、結果を気にしてメッセージを送ってきているのだ。
視界の端、ガラス戸から見える車に乗り込んだ岩泉と栗原さんが、こちらに手を振っている。
「彼女欲しいなぁ……」
手を振り返しながら、思わず零してしまった井田の独り言を耳にした店員さんが、不審がるような視線を向けてきたものだから、井田は更に少しだけ傷ついた。
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