ベール傘下の恋人
放課後。
部活を終え、着替えを済ませた静香は、岩泉と待ち合わせをしている休憩スペースにいた。
学校創立何十周年かの記念で作られたらしいこの休憩スペースは、全面ガラス張りのちょっとした建物である。
ある程度の大人数で何事か集まる時くらいしか使い道のないこの建物は、学校から外に出るための裏門に近い。
そのために、生徒が帰り時間に待ち合わせ場所として指定する事が多い。
しかし、部活動可能時間も過ぎてしまった今の時間となると、このスペースにいるのは流石に静香一人だけである。
外は雨も降っているせいで随分と暗く、静香は気持ち心細い。
今日は、岩泉家の夕食会にまたもやお呼ばれしたため、静香は岩泉が部活を終えてここにやって来るのを待っていた。
なんでも、岩泉のお父さんが出張先から、美味しいお肉を貰ってきたとのことで、パーティーをするらしい。
そして今日は雨も降るということで、岩泉のお母さんが車で迎えに来てくれるとの事である。
以前に一度岩泉の家に行った事があり、お邪魔するのは2回目になる。
前回程ではないものの、やはり彼氏の家に行くとなると緊張してしまう。
カバンを腰掛けたベンチの隣に置いたまま、静香は時間を持て余すように足をブラブラとさせる。
岩泉、早く来ないかな。
そうして岩泉を待つ為にベンチに腰掛けていた静香は、ふと耳に入った機会音に顔を上げる。
ブウンという機会音の正体は、静香が入学当初からそこにある、古い自動販売機である。
何か買おうかな。いやでも、岩泉もすぐにここに来るだろうし……なんて一人で考えて、ふと静香はある物に気付いた。
自販機のある方向、この建物の入り口に少し沿った場所にある結露したガラスに、何かが描かれている。
それが何なのか確かめる為、静香はゆるりとベンチから立ち上がる。
遠目から見て「まさか」とは思ったが、近くに寄ってみてからそれを再度確認する。
結露したガラスには、静香の背程の大きさのある、てっぺんにハートのある簡略化された傘が描かれていた。
所謂、相合い傘というものである。
結露したガラスに描かれた相合い傘は、時間が経っているためか、少しだけ薄くなっている。
ここにいた誰かが描いたのだろう。
しかし、このガラスによくこれを描こうと思ったものだと、静香は相合い傘の柄の部分をなぞりながら、ある意味感心する。
静香が指を滑らせたことで、ガラスに付着していた水滴が拭き取られ、向こう側の景色がはっきりと見えるようになる。
クリアになったこのガラスも、時間を置いたら先程と同じように曇っていくのだろう。
そんな事を思いながら、静香は無意識に薄れた相合い傘をなぞるように指を滑らせていく。
曇りで薄れてしまった恋にまつわる傘は、10秒程で元の姿を取り戻した。
それを認めて息をついた静香は、ふと何故これがこんなところに描かれていたのだろうという当然の疑問を抱いた。
確かに、結露して白く曇ったガラスを見ると落書きをしたくなる気持ちは分かる。
好きな人との自身の名前を並べ、相合い傘を掻くというのも、なんとなく分かる。
しかし、何故こんなに大きなものを描いたのだろう。
そんなことをぼんやりと思いながらガラスを眺めていると、視界の端で何かが動いた。
ジャリ、と地を踏みしめる鈍い音が耳に届き、静香はハッとしてガラスの向こう側に視点を合わせる。
静香とガラスを挟んでその向こう側、ジャージ姿の岩泉が不思議そうな表情でそこに立っていた。
どうやら部活が終わり、静香を迎えに来てくれたらしい。
肩にはスポーツバッグ、両手はポケットの中に突っ込まれている。
そんな岩泉が首を軽く傾げる姿を、ガラスに描かれた相合い傘越しに見上げた静香は、音も無く呼吸を止めた。
ガラスに描かれた相合い傘は、静香と岩泉の間を遮るように、平面に広がっている。
静香と岩泉の方に張り出しているような、立体的なものではない。
しかし、今この瞬間、静香は岩泉と同じ相合い傘の中にいるような錯覚を起こした。
雨が降り屋根を叩く音、それに矛盾するかのような静けさの中で息を飲んだ静香を見下ろし、岩泉は尚も不思議そうにしていた。
しかし、不自然にガラスが曇っていない部分がある事に気付いたらしい。
それが何なのか解明しようと動いた岩泉の視線は、相合い傘のてっぺんに描かれているハートで止まる。
そして、静香が何故固まっているのか、岩泉もやっと気付いたらしい。
何度か瞬きをした後、無表情でガラスに描かれた相合い傘を再度視線で辿り、そのまま静香の方を見下ろした。
岩泉とまじまじと視線を合わせたことで、静香はここで急に羞恥がこみ上げてきた。
これではまるで、静香が進んで相合い傘を描いたように思われてしまうではないか。
ただ、元々描いてあった相合い傘を自分が描き直しただけで、別に自分から進んでこれを描いたわけではない。
なんと言い訳するべきかと、静香は勝手に一人で焦り始める。
どうしよう、岩泉に見られてしまった、恥ずかしい。
そんな事をぐるりと考え、静香が軽く口を開きかけた時だった。
ガラス越し、無表情のまま動きを見せなかった岩泉が不意に、静香の方に一歩踏み出した。
1センチ程のガラス厚みを挟んではいるが、岩泉と静香との距離は少しだけ近づく。
そして、まるで肩の力を抜くかのように口元を緩め、目を少しだけ細めてから、岩泉は穏やかにフッと笑った。
まるで岩泉が、静香のなぞった相合い傘の中に入ってきたかのようだった。
その光景に見蕩れていた静香は、心の内で「あぁ」と一人ごちる。
もしかしたら。
もしかしたら、ここにこの相合い傘を描いた人も、今の静香と岩泉と同じような事をしていたのかもしれない。したかったのかもしれない。
好きな人と雨を凌ぐこの傘にまつわる、物語があったのかもしれない。
ぼんやりと岩泉を見上げたままだった静香も、ゆるりと口元を緩めた。
そしてガラスにハァと息を吐いて、白い曇りを作り出し、静香は衝動のままにそこに指を滑らせた。
静香によってガラスに書かれた、反転した『すき』という言葉を視界に入れ、岩泉も流石に驚いたようで少しだけ固まった。
思いの外興奮している様子の静香を見下ろし、何やら考えている姿が照れ隠しのようだった。
そわそわ、と返事を待っている静香の事に気付いているのか、それとも自身の進んでの行動なのかは分からない。
岩泉も静香と同じようにガラスに息を吐きかけて、そして指を滑らせようとした。
しかし、期待の眼差しを向ける静香に気付き、気恥ずかしくなったらしい岩泉は、上げていた腕を下ろした。
そしてそのまま首裏を掻き、あろう事か静香の方に背を向けてスタスタと歩き出した。
それには呆気にとられた静香ではあるが、数秒固まった後、慌てて休憩スペースの入り口に走り、岩泉を追いかけた。
「ずるい!」
「ずるくねぇ」
岩泉に追いつくや否や、静香は軽く岩泉の腕を叩いた。
先程、静香は乙女チックに「すき」だと文字で告白したというのに、その返事がないのはあんまりじゃないか。
そんな抗議の意を込めて、岩泉を軽く睨むように見上げてみたが、岩泉はそれに気付かない振りを決め込む。
「つーかお前、あんなもん描いて何やってんだよ…」
「わ、私じゃないよ!誰かが相合い傘を描いてたみたいで…私はそれをなぞっただけで…」
「何でなぞったんだよ」
「…な……なんとなく」
「へぇ?」
「……」
楽しそうな様子でこちらを見下ろす岩泉の視線に耐えきれず、静香はそっと視線を逸らす。
確かに、何故私はあれをなぞったのだろう。
痛いところを突かれ、静香は黙り込む。
無意識に自分がやった事ではあるが、改めてそう指摘されると、静香は何も言えなかった。
そうして屋根のある通路を抜け、雨の降る外に出ようというところで、岩泉はトントンと静香の肩を叩いた。
「傘忘れたから入れてくれ」
「えっ…いいけど……」
それはもしかして、まぎれもなく、正真正銘、相合い傘というものではないだろうか。
ゴクリ、と息を飲んだ静香は、恐る恐る自身の手にある傘に視線を落とす。
先程疑似体験した相合い傘というものの直ぐ後に、本物体験がこんなにも早くできるとは思わなかった。
しかし、こんな女物の傘に、岩泉と自分が入りきるだろうか。
そんな心配を過らせた静香ではあったが、ふとある事に思い至る。
岩泉が、ガラスになんと書くつもりだったのか。
その追及を逃れる岩泉を、追いつめる手段にこの傘が使えるのではないか。
「傘に入れてあげるから、さっきの返事教えてよ」
「は?」
「さっき、ガラスに何て書くつもりだったの?」
ガラスに描かれた相合い傘に入って来てくれた。そして穏やかに笑ってくれた岩泉があそこに書こうとした言葉は、きっと静香にとって嬉しい内容に違いない。
分かっているけれど知りたい。聞きたい。岩泉の口から。
そんな期待を胸に、傘を握って岩泉に視線を向けると、岩泉は一瞬固まった後「あー…」と言葉を濁した。
「……忘れた」
「嘘」
「ご想像にお任せする」
「想像できない!」
「嘘付け、ニヤけてんぞお前」
呆れたような様子で、岩泉はさり気なく静香の持つ傘に手を伸ばす。
言い合いをしている間に奪ってしまおうという魂胆らしいが、静香も静香でそれに気付かないはずもない。
傘を抱え込むようにして隠し、岩泉から遠ざけてから、再度お願いをする。
「教えてよ」「知らねぇ」などと言い合い、とりとめのない攻防が続く。
攻防と言っても、基本的には静香が食い付き、それを岩泉が適当にかわしていく、といった岩泉有利なものである。
しかしこの戦いの結末は、静香の思いつきにより、岩泉にとって思わぬ方向へ向かう。
「ほら、さっさと傘貸せ。帰んぞ」
「……すき」
「…は、」
「私、岩泉が好きだよ」
岩泉の不意を打とうと思った。
それ故に、岩泉を揺さぶる為のこの発言を口にするのは、静香にも少々恥ずかしいものがある。
相合い傘を疑似体験し、浮かれた後だという事もある。
それゆえに意地になっているせいか、もはや静香は自棄だった。
「何を急に…」
「だから、返事聞かせて」
「……」
「ねぇってば、岩泉だけ、」
ずるいよ。
そう続くはずだった言葉は、不意に至近距離に迫った岩泉に唇を重ねられた事で、音になる事無く消えてしまった。
温かく柔らかい感触が触れ合っている間、雨音がやけにうるさく耳に響く。
そうして雨音に隠れるように唇を奪った後、岩泉は静香の意識の全てと、手に持っていた傘をついでとばかりに攫っていった。
「うっせーよ」
乱暴な言葉だった。
しかし、それを吐き出した岩泉の声色は、酷く甘ったるかった。
すぐ正面にある、岩泉の雨のように静かな目に、静香は心臓の音がドクドクと高鳴っていくのを感じた。
「こういう事だろ」
分かったか?と念を押され、静香は無言のままに立ち尽くした。
言いたい事はたくさんある。しかし、今の静香の気持ちをただの一言に収めるのならば、これしかなかった。
「ずるい…」
「…ははっ」
何やっても、結局ずるいんじゃねーか。
そう言って笑いながら、岩泉は攫った静香の傘を開き、静香の方に傾けた。
可愛いと思って選んだ、白を基調とした花柄の傘を手に持つ岩泉は、なんとも意外な組み合わせである。
「それじゃあ、本物の相合い傘するか」
≪
back