魅惑の殺人鬼

 おかしい。
 静香がそれに気付いたのは、かれこれ一週間前の事だった。

 高校を卒業して、早三ヶ月程。大学生になっての一ヶ月程はそれなりに忙しかったものの、三ヶ月目となるとそれなりに落ち着いた。そんな中、時間さえあえば岩泉の家に遊びに行っていた静香は、何回かのデートに一度くらいの頻度で、岩泉と事に及んでいた。
 そういう事をやりたい盛り。体を重ねる事によって愛を伝える手段を覚えたばかりとあって、恥ずかしながらそれなりの頻度で、二人ベッドに沈んでいた。
 二回目、三回目は行為にぎこちない部分があったものの、回数をこなすと慣れていく部分もあった。特に岩泉は飲み込みが早く、静香が本当に嫌がる事と、本当は嫌ではない部分を見分けられるようになり、静香を随分と翻弄した。

 そして、数週間前の雨の日。蒸し暑い中、岩泉の借りている部屋で二人は絡み合っていた。
 その日は行為に及ぶ前に、岩泉がサプライズでちょっとしたプレゼントを静香に準備していた。いつかのデートで静香が気に入っていたグラスを、揃いで二つ買ってきてくれていたのだ。岩泉の家で使う自身の専用食器をプレゼントされ、静香は大いに喜び、大いに岩泉に感謝した。
 そこから良いムードになり、服を脱ぎながらベッドに倒れ込んだ。
 その最中、プレゼントを貰い、静香が異常に浮かれていたせいか、抱かれながら自身の体がいつもと調子が違う事に気がついた。
 岩泉に少しでも触られただけで体は跳ね、そのくせ意識はぼんやりとしているのに、岩泉に揺さぶられると普段では考えられない程の嬌声を漏らしてしまう。
 そんな自身に戸惑っている静香と同じように、岩泉もその日の静香の様子には驚いているようだった。
 しかし、普段よりも敏感な彼女が、紅潮して戸惑っていながらも、体を震わせて感じている様には得も言えぬ色気が有り、岩泉はそこで頭の中の理性というストッパーを吹き飛ばした。
 回数を重ねた事、岩泉の手管が上達した事、静香がこの日浮かれていた事が重なり、情事は今までにない程の盛り上がりを見せた。
 しかし、あまりに強い快感に揺さぶられ、静香の体力が底をつき、達すると同時に意識を飛ばしてしまった。
 普段ならば、ぐったりとしながらもピロートークをするくらいの元気のある静香が意識を飛ばしたのを見て、岩泉は相当に焦ったらしい。
 静香がピクリとも動かないので、一瞬死んだのかと思って静香の頬を何度か軽く叩いてみても、すぐに静香が目覚める気配が無く、岩泉は呆然としたのだという。
 もしかしてやり過ぎたのだろうかと後悔し、岩泉は直ぐさま静香が息をしているか確認したらしい。その後、静香は意識を取り戻したものの、岩泉には相当に謝られてしまった。悪かった、つい夢中になっちまって……と、あの時の岩泉は本当に申し訳無さそうにしていた。
 そしてあの日以来、岩泉は静香と事に及ぶ事を避けるようになった。避けるというよりは、そういうムードに持っていかないよう、心がけているようだった。
 そして未だに、岩泉はあの時の事を気にしている。無理をさせてしまった、と罪悪感に苛まれているのかもしれないが、もう随分と岩泉とそういう事をしていない。
 そして先に我慢の限界に達したのは、静香の方だった。

「彼氏が手を出してくれない?」
「ちょ、声が大きいってば……!」

 大学でできた、長い間付き合っている彼氏のいる友人に相談を持ちかけてしまうくらいには、静香は自分でもどうしようかと悩んでいた。こんな事を相談するなんて、まるで欲求不満な女じゃないか……と内心で思うものの、それが紛れも無い事実なもので、静香は顔から火でも吹いてしまいそうだ。

「へぇ、静香って意外とそういう……ふーん」
「か、からかわないでよ……」

 あぁ恥ずかしい、言うんじゃ無かった。そう後悔しながら赤面している静香に気付いて、友人は「ごめんごめん」と楽しげに笑った。
 そして詳細を詳しく聞かせて欲しいと聞かれたので、静香は恥を忍んで、自身が気絶してしまった事が原因で手を出して貰えなくなった事を正直に話した。
 そしてその話を聞いてくれた友人は「大事にされてるんだねぇ」と頷き、静香に助言をくれたのだ。

「誘惑してみたら?」

 誘惑、という言葉を聞き、静香はガチリと硬直する。そんな誘うような事、静香は岩泉相手にやったこともないし、出来る気もしない。脳内に浮かぶのは、肉付きの良い女性が色っぽい声で、男の人に体を押し付ける姿である。あんな妖艶な雰囲気を醸し出せる気もしないし、下手をすれば岩泉に嫌われてしまう可能性だってある。
 厭らしい女だと、捨てられたらどうしよう……などと顔を青くした静香の肩を、友人は笑い飛ばすようにバシバシと叩く。

「彼氏も我慢しているだろうから、彼女の静香がお願いすればイチコロだよ」
「……そうかな」
「そうだよ! 逆に、返り討ちに合う心配した方がいいんじゃない?」

 ニヤリと楽しそうに笑う友人に励まされ、静香は苦笑いを浮かべる。本当に大丈夫だろうか、と静香は不安が隠せない。そもそもこんな話をしているという時点で、既に穴があったら入りたい状態である。
 そしてアドバイスをくれるという彼女の話を聞きながら、静香は赤くなったり青くなったりしながらも、岩泉に手を出して貰えるように奮闘する事になった。



 私は一体何をやっているんだろう。
 一泊分の荷物を抱え、静香は岩泉の借りているアパートの部屋の前に立って冷静になる。
 友人のアドバイスを素直に聞き入れ、準備を整えてきているつもりではあるが、岩泉に不審がられないだろうかと不安でしかない。
 しかし、ここまで来てしまった手前後にも引き辛い。女は度胸だとなんとか己を奮いたたせ、静香は意を決してインターホンを押した。
 軽いピンポーンという音の後、ドアの向こうから人が歩いて来る足音が聞こえ、静香は異常な程に緊張しながら、部屋の主人が出て来るのを待つ。
 ギッという音をたてドアを開けた岩泉は、事前の連絡も無く家にやって来た静香を視界に要れ、少なからず驚いたようだった。

「どうしたんだ、急に」

 岩泉の疑問も当然だ。しかし、そこまで理由を考えていなかった静香はむっつりと黙り込み、今になって焦り始める。今日連絡なくここに来たのは、友人の「不意打ちで泊まりに行ってみたら」という助言によるものである。相手は不意の事で準備もできないし、隙をつくにはいいんじゃないか、と言うのが友人の意見である。
 しかし、岩泉を誘惑……否、誘う事に頭がいっぱいで、何故急に押しかけたのかという理由を考えていなかった。しまった……とカバンをぎゅっと握ったまま思い詰めている様子の静香に気付いて何を思ったのか、岩泉は「家族と喧嘩でもしたのか?」と尋ねてきた。
 そう言われても仕方のないようなこの状況。丁度いいカモフラージュになるかと、静香はとりあえず頷いておいた。それに対して「そうか」と頷いた岩泉は、なんの疑いもなく静香を家に招き入れた。

「どんな喧嘩したんだよ」
「えっ……いや、その……お母さんが私のプリン食べちゃって……」

 もっとマシな嘘は思いつかなかったのかと、言った後直ぐに自分を問いつめたくなった。しかし、岩泉は特に不思議に思わなかったのか、座布団の上に腰を下ろした静香にお茶を出してくれた。それどころか「俺も楽しみに取っておいた揚げ出し豆腐食われた事あるわ」と共感してくれた。もしかして、それを理由にお母さんと喧嘩したことがあるのだろうか。その光景を想像すると、少し可愛い。

「それで……できれば、今日泊めて欲しいんだけど……いい?」
「そりゃ構わねーけど、俺今からちょっと出かけねぇといけなくなってよ」
「えっ」

 確か暇だと言っていたはず……とこの日を狙って来たというのに、予想外の予定が入っていたらしい。そうでなくても、静香は私情のために急遽岩泉の家にやって来たというだけで、岩泉には迷惑をかけている。これでは余計に迷惑をかけてしまうじゃないか。

「ごめん、無理なら今日私帰るから」
「いいって。一時間くらいしたら戻るから留守頼む」

 ちゃんと鍵はかけとけよ、とまるで母親のような事を言う岩泉は、荷物を持って玄関の方へ歩いて行く。詳しく尋ねると、なんでも友人に借りていたゲーム機を返さなければならなくなったらしい。そういえば、友人に借りたのだと言って、岩泉が古いゲーム機で何度か遊んでいるところを見た気がする。どうやらあれを返すつもりらしい。

「……分かった、帰り待ってるね」
「あぁ」

 靴を履き、出かける準備を整えた岩泉は一度くるりと静香の立つ方に振り返る。静香が一体何を考えて今日ここに来たのか知りもしない岩泉は、罪悪感にかられている様子の静香の頭にポンと手を乗せる。

「そんな顔すんなよ、別に迷惑とか思ってねーから」
「……うん」

 岩泉が本当にそう思っていない事は分かっている。ただ、自分の本当の目的を知ったらどう思われるだろうかと、静香は少しだけ恐ろしく思った。
 岩泉と触れ合う事が好きだ。初めて手を繋いだ時はドキドキとしたし、その手の感触を忘れる事もできなかった。初めてキスをした時も、その唇の柔らかさに酔いしれた。そして初めて肌を合わせた時は、これほどまでに岩泉と肉体的な距離を縮め、身も心も交わる事ができるものなのかと一種の感動さえ覚えてしまった。岩泉に触られるのが好きだ。だからこそ、もっと触られたい、そんな事をしたい。
 こんな欲望にまみれた女を、岩泉は変わらず好いてくれるだろうか。

「じゃあ、行って来る」

 そう言って軽く笑いながら、岩泉は不意に身を屈め、静香の頬に唇を落とした。
 それを認識した瞬間、静香はほんのりと顔を赤らめ、正面に立つ人を見上げた。

「留守番よろしくな」

 普段ならまずありえない行動、柄にも無い事をしても尚楽しそうに笑っている岩泉は、静香の心のモヤを払いのけた。この人は何故こんなにも優しいのだろう。優しくしてくれるのだろう。その答えを、静香は随分前から知っていた。

 そうして岩泉を見送った静香は、一人留守番しながらぼんやりと考える。
 私は欲張りになっていたのかもしれない。
 結局今日の一件だって、岩泉と交際を始め、傍にいる事が当たり前のようになってしまったからこそ、触れ合う事に慣れてしまったからこそ、それが与えられなくて我が儘を言っていただけなのだ。岩泉の優しさを目の当たりにしたせいか、自身が今まで考えていた事が馬鹿らしくなった。重要なのはそこではないのだと今更になって思い出し、静香は自嘲した。
 「馬鹿だなぁ」なんてぼやきながら、岩泉のベッドの上に横になり、ゆっくりと目を閉じる。干したてなのか布団はふかふかで、いい匂いがする。こうして岩泉に留守番を頼まれている時点で、よくよく考えてみると凄いことなのだ。静香なら岩泉の家に一人置いていてもいい、何をしていてもいい、という岩泉からの信頼の現れなのだ。
 それをしみじみと実感し、静香は岩泉が帰って来たら、今日の事を正直に話そうと心に決めた。本当は母親と喧嘩をしていない事も、最近肌を合わせるような事をしていないから寂しかった事も、そういう事をしたくて今日ここに来た事も、全て。
 遠回しに誘うような事をしなくても、岩泉に面と向かって話してしまえば良かった。岩泉は照れるだろうか、静香をいかがわしい女だと思うだろうか……なんて、自問自答しながら静香はふっと笑う。きっと岩泉は照れるだろう、そして最終的には静香を抱きしめてくれるだろう。……抱いてくれるのだろう。そんな気がする。
 そんな事を考えながらベッドに転がっていたせいか、静香はいつの間にか船を漕ぎだし、眠ってしまっていた。
 そうして次に意識を取り戻したのは、それから二時間後の事だった。ぼんやりと目を覚ました後、時計を確認して自身が昼寝をしてしまっていた事に気付く。しかし、岩泉が帰宅している様子はない。一時間くらいしたら戻ると言っていた気がするが、何かあったのだろうか。
 意識がはっきりと覚醒しないまま、静香は再びゆっくりと目を閉じる。カーテン越しに部屋に差す日差しが心地よく、起きだすのも億劫だ。
 どれくらいの時間そうしていたのか分からない。しかし、意識があるような無いような微睡みの中で、静香は部屋のドアの開く音を耳で拾った。ガチャリと解錠されたドアは鈍い音を立てて閉り、その後に誰かが歩く足音が響く。
 そしてその足音は静香の傍で止まり、暫くそのままそこに居座っていた。きっと岩泉が帰ってきたのだろう。そう思って起き出そうとした静香ではあったが、ここでふと、友人の助言を思い出した。
 彼氏の家で無防備な格好で寝たふりしてみなさい。彼氏も我慢してるとしたら、寝てる静香に何かしてくるかもしれないでしょ。そこをガッといくのよ、ガッと! ……と、彼女の力説している姿が蘇る。
 本当にそうだろうか。
 ほんの少しの好奇心が湧き、静香はそのまま寝た振りをしてみる事にした。何も無ければ、そのまま何事もなかったかのように起き出せばいいだけだ。
 少しだけドキドキとしながらコクリと息を飲み、静香は温かい布団に身を沈め静止する。気持ち寝息を立てるよう意識しながら、ベッドの傍に立つ岩泉がどうするか、気配を窺う。岩泉はその場に立ちつくしているようだった。
 そして数秒後、傍に立っていた気配は動きを見せた。静香の肩を軽く揺すりながら、岩泉は何度か静香の名前を口にした。それでも意識が覚醒しない振りを決め込み、静香は更に様子を窺う。揺すってみても、名前を呼んでも目を覚まさない静香を相手に、岩泉はどうするだろう。ほんの少しの期待と好奇心を胸に、静香はベッドに横たわったまま、心臓の音がうるさくなっていくのを感じた。
 そうして、そんな静香の期待に答えるかのように、傍に立っていた岩泉は、寝ている静香の頬に手を滑らせた。温かく、少しガサガサとした大きな手に撫でられ、静香は口元が緩みそうになるのを必死に引き締める。するりと滑る岩泉の指は、何度か静香の頬を往復し、そして最後に静香の唇を指でなぞった。それがまるで、行為の最中の口づけで、ベトベトになった静香の唇を拭ってくれる時の所作のようで、静香は体温を上昇させた。これでは本当にただの欲求不満な女じゃないか、と内心で焦っていると、不意にベッドがギシリと軋んだ。
 音と振動で、岩泉がベッドに乗り上がったのだと直ぐに分かった。それに静香が息を飲んだ瞬間、岩泉は静香のふくらはぎの辺りに手を置いた。え?と心の内で間抜けな声を漏らした静香ではあったが、しかし、岩泉がふくらはぎに乗せた手を上昇させていくものだから、心の声は悲鳴に変わる。うそでしょ! などと身を固くしている間に、岩泉の手は静香の履いているスカートの中に潜り込み、布を捲り上げる。そしてとうとう太腿が剥き出しになり、あと少し上昇すれば下着が見えてしまうというところで、静香は慌てて飛び起きた。
 そうしてそんな彼女の様子を認めた岩泉は、呆れたような顔で静香を見下ろす。

「起きてると思った」
「……えっ」

 どうやら、寝た振りがバレていたらしい。分かっていて、静香がどんな反応をするかと思ってこういう事をしたのだと、岩泉はサラリと静香に言って退けた。何もかもが筒抜けである。岩泉はなにかちょっとかいをかけてくるだろうか……なんて様子を見ていたのは静香のはずなのに、何故自分の方が翻弄されているのだろう。
 そしてついでとばかりに、他の事も指摘される。

「あとな……お前、本当は今日、家族と喧嘩なんてしてねーだろ」
「……何でそう思うの」
「お前の反応がなんか不審だったからな」

 本当に、全てお見通しらしい。静香が何か隠し事をしているんだろうな、というのはなんとなく分かってはいたが、友人の家にゲーム機を持って行く約束の時間も迫っていたし、とりあえず指摘するのは後回しにしたのだと言う。そして今、それを追及する順番が回ってきたと、岩泉はベッドに腰を落ち着ける。

「で、結局どうしたんだよ」
「……」

 岩泉を誘惑するなんて、夢のまた夢の話なのかもしれない。最初から勘付かれていたのでは、岩泉の不意を打つ事なんてできるわけないじゃないか。そう自身の中でぼやきながら、静香もゆるりと身を起こし、ベッドの上で正座をした。改まったのだという静香の気持ちの表れである。

「あの、引かずに聞いて欲しいんだけど……」
「おぉ」
「お願いというか、なんというか……」

 沸騰しそうになりながら、静香はモゴモゴと口を動かす。静香が何を言い出すのかと、深刻そうな表情を浮かべていた岩泉ではあったが、赤くなっている静香の様子に気付いて、ゆるりと首を傾げた。

「私……その……」
「…おう」
「は、はじめと……」
「……」
「エッチしたい……」
「…………は?」

 静香の泣き入りそうな小さな声を耳にし、岩泉は意味が分からず、少しだけ赤くなって素の声を漏らした。それを「岩泉に呆れられた」のだと勘違いした静香は、真っ赤になって言い訳をはじめた。

「はじめ、この前してる時に私が気絶しちゃって、最近気を遣ってくれてたでしょ?」
「こんな事言うのははしたないって分かってるんだけど、私は大丈夫というか……気を遣わなくても大丈夫というか……」
「気絶しないように体力もちょっとつけてきたし、今日は体調もいいし……」
「……嘘、本当は私がはじめとしたいだけで……」
「……ブフッ」

 何を言っているんだろう、と静香が混乱しはじめた辺りで、呆気にとられていた岩泉が吹き出した。それを見た静香は幻滅されたかと思い、顔を青くして背筋を伸ばした。

「嫌いになった……?」
「ならねーよ」

 なんか深刻な話なのかと思った、と言って岩泉は安堵したように息をついた。それを聞いて同じようにホッと息をついた静香ではあったが、ここで再び自身が大胆な事を口にしてしまった事を思い出した。不安は払いのけたものの、今度は羞恥心に襲われる。ボッと噴火する勢いで染まった静香を見て、岩泉は未だに肩を震わせている。

「わ、笑わないでよ」
「悪い、つい……」

 笑いが収まらないらしい岩泉に静香は文句を言いたくなったが、岩泉の嬉しそうな表情に気付いてしまい、文句は言葉にならなかった。そしてやっと笑いが収まったらしい岩泉は、穏やかな表情でベッドに手をつき、静香との距離をつめた。静香の顔には影がかかり、岩泉の額と静香の額がピタリとくっつく。

「そんなに抱かれてーの?」
「……うん」

 素直にコクリと頷くと、質問を投げかけた岩泉の方が面食らっていた。至近距離で岩泉の照れくさそうな表情を認めた静香は、自身の肩に入った力がゆるりと抜けていくのを他人事のように感じた。

「……お前……本当に素直だよな」
「だって……岩泉は素直な子が好きなんでしょ?」

 前にそう言っていたじゃないか。そう心の内で呟きながら、静香はそっと目を伏せた。岩泉との距離が、先程よりも近い。

「お前の素直なところが好きなんだよ」

 その言い方だと語弊がある。そう言って、岩泉はやんわりと静香の唇を食んだ。同時に腰を引き寄せられ、静香は目を閉じて岩泉の肩に両手を置いた。普段から鍛えているために引き締まった岩泉の肌は、どこもかしかも硬く、女の静香とはまるで違う。しかし、今幾度も重ねている唇や頬だけは、ふわりと柔らかく、触れていると溶けてしまいそうだ。

「悪い。そういう事したくないわけじゃねぇんだ。この前静香に無理させすぎたから、自重してたんだよ。逆に不安にさせちまったな」
「ううん。私も……気絶してごめん」
「そりゃ……俺のせいだろ」

 気絶させてごめん、と口にした岩泉だったが、ひっかかりを覚えて静止する。

「……なんか今、俺すげー事言ったな」
「そう?」
「静香が気絶するくらい、いろいろやっちまったって事だろ」

 何を言ってるんだ俺は……などと気恥ずかしそうにしながら、岩泉は自身の唇に指を当て口元を隠した。

「いい機会だから、俺もちょっと聞きてぇんだけど」
「……?」
「俺とそういう事するの、嫌じゃねぇか?」
「……嫌じゃないよ」
「ちゃんと、気持ち良いか?」

 あまりにストレートな事を聞かれ、静香は一瞬言葉を失った。しかし、目の前でやや視線を逸らしている岩泉の目には、少しだけ不安の色が窺えた。もしかして、静香が体に痛みを感じているのではないかと心配しているのだろうか。無理をしているんじゃないかと、気にしているのだろうか。……そんなこと無いのに。

「……はじめに触られてるだけで、気持ち良いよ」

 気絶しちゃうくらい。
 羞恥に殺されそうになりながら、静香まぎれもない本音を口にした。
 そしてそれを聞いた岩泉はピタリと静止し、静香を引き寄せたまま、深く長いため息をついた。

「マゾかよ、俺は……」
「えっ……?」

 少しだけ項垂れた後、岩泉はゆるりと顔を上げて、一旦抱き寄せていた静香から距離を取った。

「静香、出かけるぞ」
「えっ、今から……? どこに……」
「ラブホ」

 ラブホ、と岩泉の口から放たれた言葉を反芻し、静香はビシリと固まる。ラブホというのは、言わずもがなラブホテルの事で、そこに男女カップルが行くとなれば、やることは一つである。今日は岩泉とそういう事をするためにやって来たというのに、今更羞恥心がこみ上げて来るのは何故だろう。

「なんで? 別にここでも……」
「今日隣の部屋の男帰ってきてんだよ。声聞かれるかもしれねーぞ、我慢できんのか?」
「……」

 岩泉と肌を合わせるのは久しぶりである。恐らく、行為中に声を抑える事は難しい。全く持って岩泉の言う通りだ。そしてその岩泉本人は、ベッドの傍に置いてある棚の引き出しを開け、奥からゴムをを取り出した。久しぶりにそれを目にして、静香は熱が収まらないままに視線を逸らした。

「私、ラブホテル行ったことなくて勝手とか分からないんだけど、大丈夫かな?」
「当たり前だ、俺だってねーよ」

 行ったら行ったで、どうにかなるだろ。そう言って岩泉は静香の手を攫い、足早に玄関に向かう。まるで急いでいるかのような強引さのある岩泉に手を引かれながら、静香は慌てて持参したカバンを掴んだ。靴を履く岩泉の後ろ姿を眺めながら、自分たちはいかがわしい事をするために出かけるのだと実感し、静香はそっと岩泉の背に身を寄せた。この湧き上がる気持ちの矛先は、目の前のこの男に受け止めてもらう他無いのだ。

「……どうした?」
「ううん……なんでもない」

 静香の頭からは、今日の当初の目的が岩泉を誘惑する事だったことなど、綺麗さっぱり抜け落ちてしまっていた。

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