さよなら地面
人が生きている間に使うことのできる運というものが有限ならば、私の運と言うものは今日ここで使い果たしてしまったのかもしれない。
「おめでとうございます!1等の2名様温泉旅行です!」
カランカラン、という当選を告げる鐘の音を聞きながら、静香はガラガラくじから飛び出し転がった金色の球体を眺める。
あぁ、本当に当たりなんてあるんだ…と、とても失礼なことをぼんやりと考えながら、周りから巻き起こる拍手を聞いていた。
一緒に買い物に来ていた母も、一瞬意味が分からずにぽかんとしていたが、事実をゆっくりと飲み込み、ばしばしと静香の肩を叩いた。
「すいごいじゃない!お母さん1等が当たったの見たのはじめて!」なんて喜んでいるのを聞きながら、静香は未だに脳内の整理がつかずにいた。
「岩泉一君」
「……何だよ」
昼ご飯である焼きそばを作っている岩泉の背後に立って声をかけると、岩泉は不審そうにやや振り返った。
普段とは違う名前の呼ばれ方をしたから、そんな顔をされても仕方はない。
そんな岩泉のつけている、エプロンの紐が縦結びになっているのを眺めながら、静香はもじもじと指を遊ばせる。
「あの…お誘いがあるんだけど…」
「おー…、ちょっと待て」
フライパンに再び視線を戻し、がしゃがしゃとかき混ぜてから、岩泉はテーブルに置いた二つの皿に焼きそばを盛りつけた。
最初に静香が食べるであろう分量くらいをお皿に分け、残った全てをもうひとつのお皿に盛る。
そうしてフライパンにへばりついた具材を、今度は平等に分けていき、そして最後にひとつ残った肉のきれを箸で摘んだ。
「静香、口空けろ」
「えっ」
口元に小さな豚肉を差し出され、静香は少し戸惑ったものの、そのまま素直にそれを口に入れた。
「これ、良い肉なんだよ」
どうだ?と首を傾ける岩泉を眺めながら、口の中の柔らかい肉を咀嚼する。
なんだか餌付けされている気分ではあるが、確かに…このお肉は中々だ。
「美味しい」
「だろ?」
得意げに笑ってから、岩泉は両手にお皿を持って奥の部屋に移動する。
静香も台所から二人分のお箸とコップを持っていき、先にやきそばが置かれたテーブルの上に、それらを置いた。
「で、何の誘いだ?」
座布団の上に座り、やきそばに箸を入れようと構えた岩泉は、ここで先程の静香の質問について口をひらく。
きっと、今度の日曜日にどこかへ行こう…などと静香が口にすると思っているのだろうが、今回ばかりは規模が違うのだ。
期待と浮かれが入り交じった気持ちのままに、静香は緊張を滲ませながら、ゆっくりと口を開いた。
「実はこの前…スーパーの福引きで1等当たったんだけど」
「…マジかよ…すげぇな」
「で、景品が温泉旅館1泊のペアチケットだったんだ…」
「……おう」
静香がそう言った途端、岩泉は少し固まってぎこちなく返事をした。
もはやこの発言だけで、静香の『誘い』の内容を察してしまったのだ。
なんだかお互いに息を飲んでいるような空間の中、静香はなんとか「一緒に旅行へ行きませんか」と言葉を続けた。
何故今更こんなに恥ずかしがっているのか自分でも分からない。
その緊張が岩泉にも伝わったのか、やきそばに触れた箸は先程から動いていない。
そうして数秒の沈黙が続いた後、この微妙な空気に我慢できなくなったらしい岩泉が、ふぅ…と息を吐き出した。
「…行くか」
「……いいの?」
「断る理由がねぇよ」
表情があからさまに明るくなった静香を眺めてから、岩泉はフッと笑ってから、やっと焼きそばを口に運んだ。
一方、岩泉に「OK」の返事を貰った静香は、箸を置いてから自身のカバンを漁り、旅行雑誌をひっぱりだしだ。
昨日本屋で購入し、岩泉とどこを観光するか参考にしようと思って持って来たものである。
これを持参している時点で、岩泉の答えを静香がすでに予想できていたことに気づき、「何で自信なさげに誘ってきたんだよ…」と岩泉は呆れた様子だった。
「この温泉旅館、結構有名なところなんだよ」
「へぇ…」
そうして広げた雑誌を覗きこみながら、あそこへ行こう、ここへ行こう、と二人で旅行の計画を立て始める。
旅行の計画は1日やそこらで決まるはずも無いので、後日二人の予定の擦り合わせを行なって旅行日を絞り、そこから何日滞在するか、どこを観光するかと本格的に話し合った。
岩泉と遠方に遊びに行くことはそれなりにあったが、一緒に遠出をして宿泊をするのは、これが初めてだった。
まだ旅行へは行っていないというのに、こうして先の事に思いを馳せるだけでも楽しく、静香は暫くの間、頬の筋肉が緩みっぱなしだった。
岩泉に「引き締めた方がいいんじゃねぇの?」と、たまに頬を軽く摘まれたりもしたが、楽しみなものは楽しみなのだから仕方がない。
浮かれに受かれ、地面に足がついていない静香をなんとか岩泉に引き戻されながら、そわそわと待ち続ける事、約一ヶ月。
そうしてついに、旅行日当日を迎えた。
「なんだか、修学旅行思い出すね」
「そうだな…」
新幹線に乗り込み、最低限に抑えた荷物を棚に押し入れてから、静香と岩泉は席に腰掛けた。
部活の遠征の多い岩泉にとっては新幹線は特に珍しくないのだろうが、静香は修学旅行ぶりの乗車だった。
「懐かしいなぁ…」
二人の修学旅行先は、東京だった。
移動手段である新幹線の座席はクラス毎に割り振られていたため、静香も岩泉も、当時は同じ新幹線の同じ車両に乗り合わせていた。
あの頃は岩泉への恋心を自覚したくらいの時期で、静香はいつも目だけで岩泉の姿を追っていた。
「はじめは覚えてないと思うけど、修学旅行での新幹線の席、私たち通路を挟んで隣同士だったんだよ」
「…そうだっけ?」
うーん?と首を捻るはじめは、修学旅行の記憶を必死に思い出そうとしているようだったが、いまいちピンとはきていないようだ。
恐らく、修学旅行の頃の岩泉は、静香の事を大して意識していなかったのだろう。
「よく覚えてんな」
「そりゃぁ、好きな人の事だからね」
今となっては、懐かしい片思い時代の思い出だ。
まさか数年後、こうして一緒に旅行に行くことになるなんて誰が想像できただろうか。
あんな暴露に近い告白をしてしまうことさえ予想外だった。
そんな恥ずかしい思い出も、すでに過去のことと精算してしまっている静香ではあるが、岩泉は若干居心地悪そうに口元を引き結んだ。
「友達と話してても、はじめ達が何を喋ってるのか気になって気になって、集中できなかったなぁ…」
「…そうかよ」
「……照れてる?」
「照れてねぇ」
頑に口を一文字に結ぶ岩泉の頬を、静香はむにむにとつつく。
ちゃんと柔らかい弾力のある頬を堪能していると、眉間に皺を寄せ始めた岩泉に気づき、静香はそっと指を離す。
ちょっと恥ずかしそうにしている岩泉が可笑しくて笑うと、隣の恋人は口先を尖らせて視線を逸らした。
「向こうに着くまで、はじめに片思いしてた頃の話をしようか?」
「…そんなにネタ保たねぇだろ」
「そんなことないよ」
半笑いで静香が岩泉の肩に寄りかかると、岩泉は「う…」と零した。
普段自身の元に「好き好き〜!」と言わんばかりに犬のようにかけてくる静香の事だ。
あながちやりかねないと思ったのか、今度は「言わなくていい」とはっきりと断った。
それが少し残念ではあったが、先程からぎこちない岩泉を見ているとなんだか可哀想になってきた。
しかし、普段は自分が岩泉に翻弄されていることが多いので、狼狽えている岩泉はなんだか新鮮だ。
そうして岩泉をからかうのをやめ、静香は先程購入した駅弁を袋から取り出した。
少々値は張るが、折角の旅行だからと購入した弁当を岩泉も取り出す。
少し遅めの朝食ではあるが、静香の広げたハンバーグがメインのお弁当も、岩泉のボリュームあるカツがメインの弁当も、どちらも非常に美味しそうだ。
「そのハンバーグうまそうだな」
「食べる?」
デミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグを箸で切り分け、静香は岩泉の弁当の中にそっと置く。
それをひょいと口に運び、「やっぱうまいわ…」とのんびり言う岩泉の隣で、静香は高校時代の疑問をふと思い出した。
当時の修学旅行の片思い時の記憶が蘇ったこともあるが、何気なくお弁当を食べている岩泉を眺めながら「あぁ、好きだなぁ…」などと、しみじみと思った事が大きな要因ではあった。
「高校の時、及川がさ…」
「ん?」
「はじめは女の子にモテない!…って、よく言ってたじゃない?」
「あいつ今も言うぞ」
まぁどうでもいいけどな、とサラリと流してしまえる岩泉は昔、及川にそう言われる度に酷く反応を示していたものだ。
今では静香という恋人がいるからなのか、余裕があるからなのか、大して面白い反応を見せてくれなくなった!と及川が以前会った時に嘆いていた。
「…ちょっとだけ聞いてみたいというか、答えなくてもいいんだけど…。はじめって、私以外から告白されたことないの?」
「……」
「…あ、でも高校の時、後輩の女の子から告白されてたね。それ以外で」
「…覚えてねぇ」
岩泉は、ないとは言いきらなかった。
ああ、この反応は他にも何回かあるな。
静香はスンと鼻を鳴らして察し、そして自身の考えがやはり間違っていなかったことを確認した。
「やっぱりなぁ…。はじめが人気ないのはおかしい、ってずっと思ってたもん」
「何言ってんだよ…」
ないない、と肩を竦めてみせた岩泉は、自身のお弁当の中にあるカツの切れを、静香の弁当の上にそっと置いた。
どうやら、先程のハンバーグお返しらしい。
「…私、変な告白の仕方だったけど、言って良かったなぁ」
岩泉が受けたであろう告白は、静香が彼女になる前のものなのか、後のものなのかは分からない。
しかし、静香が告白しないままに終われば、もしかしたら岩泉は他の誰かと付き合っていたかもしれない。
そんな仮定の話を想像しながら、静香は岩泉が分けてくれたカツを箸で摘んで持ち上げる。
「…んな心配しなくても」とぼそぼそ言う隣の男に視線を向けると、岩泉は気恥ずかしそうに黙り込んだ。
いつもは静香の方が羞恥に染まることが多いというのに、今日はその立場が逆転している。
本当にどうしたのだろう。
「…俺も…お前に聞きたいことあんだけど」
「なに?」
「何で及川は…お前が俺の事好きって知ってたんだ?」
「……」
静香にとっては、苦くも甘い複雑な思い出である。
静香と岩泉が交際に至る事になったきっかけは、静香が岩泉の事を好きだと知っていた及川の八つ当たりが原因だった。
及川の八つ当たり発言により、我慢の限界を迎えた静香が体育館中に「私が岩泉のこと好きなの知ってるでしょ!」と叫んだあの事件は、友人達にたまに掘り返される話題のひとつである。
結果としてうまくいったから良かったものの、もしあそこで岩泉に断られていたらと思うとぞっとする。
それはそれは周りから好奇の目で見られ、居心地の悪い高校生活を送ることになっただろう。
そういう意味でも、岩泉にはとても感謝している。
「…そんな大したことじゃないよ。友達と話してるところを及川が偶然聞いちゃって、それでばれっちゃっただけ」
しかし、まさか静香の気持ちを知った及川が、その後やたらに声をかけてくるようになるとは思わなかった。
同じバレー部の所属ではあったが、お互いに顔と名前を認識している程度で、大して話したこともなかったのだ。
静香をからかっては楽しんでいたようではあったが、どこか見定められているような気がして静香は落ち着かなかった。
「及川、息子のつれて来た彼女を見定めてるお母さんみたいだった」
「あんなかーちゃん嫌だわ」
即答した岩泉は、「なんか嫌がらせとかされたのか?」とこの機会に聞き出す気でいるらしい言葉を続ける。
一瞬、脳裏には及川に散々にからかわれた思い出が過ったが、隣にいる岩泉を見上げると、全てがどうでも良くなった。
「忘れちゃった」
「…本当かよ」
あの時、静香が岩泉への想いを暴露しなかったら、きっと今ここに二人はいない。
静香にはとても岩泉に告白する勇気は無かったし、岩泉もきっと、静香に告白をしようとは思っていなかった。
好きではあるけど踏み出せない、きっとお互いに陥っていた状況は同じだ。
だからこそ、一種のきっかけを与えてくれた及川には、理由はどうだったであれ、今では感謝している。
「お前は……及川の事が好きなのかと思ってた」
ぽつりと岩泉が零した呟きを耳にし、静香はカツをはさんでいた箸の動きを止めた。
一瞬何を言われたのか理解できず、弁当を食べきった岩泉をじっと眺める。
空になった弁当の蓋をし、ビニール袋にそれをしまう岩泉には、なんら変わった様子は見られない。
「…何で」
「静香と及川って、あんま関わりなかっただろ?」
全くといって良い程に関わりがなかったのに、ある日突然慣れ親しんだように話していたから、何かあったのだという事は分かった。
しかしその何かまでは分からず、だからと言って及川にその事を追及すると、自分が静香の事を好きだという事実がばれてしまう。
聞きだしたいが、己の性格上の事や及川との関係もあり、素直に尋ねることなど出来なかった。
しかし、そうこうモヤモヤしている間に、及川と静香はだんだん慣れ親しんでいく。
そんな状況の中、静香が及川に想いを寄せていると思わない方がおかしいだろう。
後半はほぼ自棄気味になっていたが、岩泉は過去の自身の心情を静香に打ち明けた。
それを聞いて驚くなというのが無理な話で、静香は呆気に取られたまま、摘んでいたカツを弁当の上にぽとりと落とした。
「はじめって…私の事好きだったんだね…」
「…だから、そう言っただろ」
”俺もお前の事好きなんだけど”
そう言って静香のとんでも告白に答えてくれたのは、確かに紛れも無く、この男だった。
「ああ、もう…」と唸って腕を組み、無理に睡眠の体勢に入った岩泉の様子を確認し、静香口元はだらしなく緩む。
なんでこんな事を暴露してしまったのか、とでも思っているのだろう。
目を閉じた岩泉の耳は、少し赤い。
「私も、はじめの事好きだったよ」
「……」
「今も大好き」
「……」
「…聞いてる?」
「聞こえてっから、それ以上言うな」
寝る体勢に入っているというのに、岩泉の眉間には深い皺が刻まれている。
内心で何かと戦っているらしい岩泉を尻目に、静香はクスクスと笑って岩泉の肩に頭を乗せる。
「今日のはじめは照れ屋さんだね」
「…うっせ」
普段と違う様子の恋人をからかいながら、その原因が二人での旅行なのではないかと静香は思い至る。
もしかしたら、岩泉も浮かれているのかもしれない…なんて。
「旅行楽しみだね」
「……おー」
「温泉旅館も、いい部屋だと良いね」
「…おー」
「一緒に温泉入ろうね」
「………」
静香の最後の言葉に、岩泉はついに寝たふりを決め込んだ。
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