今日という記念日になればいい
もぞりと寝返りをうった拍子だったのか、腹部に何か重みのあるものが乗ったからなのか。
まだ朝も明けていない時間に、静香はゆっくりと目を覚ました。
昨晩の事があったために、疲労でもっと熟睡してもおかしくはないというのに、思いの他睡魔というものには引きずられなかった。
静香の背中から包み込むように腕を回し、腰から腹にかけて抱きしめるように眠っている岩泉の体温を感じながら、静香は前方に目を向けた。
二人用に敷かれた布団のうち、結局片方だけしか使っておらず、もう片方の布団は乱れ一つ無く整ったままだ。
そろりと自身にかかっている布団に視線を落とすと、皺だらけで汗臭く、あからさまに二人が昨晩何をしていたのかまるで筒抜けだ。
男女二人が同じ部屋、しかも露天付きの場所へ泊まるとなれば予想はつくだろうが、部屋を片付けにやって来た仲居さんに悟らられるのは恥ずかしい。
朝食の時間までに起きだして、あちらの整った布団にも使用した形跡を残さねばならない。
そんな事を考えながら、静香は視線の端で点滅している携帯電話を手に取った。
時刻を確認すると、まだ早朝の5時過ぎである。
朝食までは随分と時間はあるが、今の状態では再度お風呂に入り直さないといけないし、布団も整えないといけないので、もう1時間くらいしたら起きだした方がいいだろう。
そう思いながら、静香はもぞりと寝返りをうち、背中を包んでいた岩泉の方に体を向ける。
昨晩のギラついた瞳は形を潜め、眉間に皺ひとつないあどけない寝顔を晒すこの男は、昨日は中々に静香を寝かせてくれなかった。
静香とて早々に就寝したかったわけではなく、岩泉の思うままに抱かれたいと思っていたのだが、いつも以上にいろんなことをされて、何も考えられなくなってしまった。
そんな昨晩のことを思い出しながら、ほかほかと熱くなる頬を布団に擦りつけると、不意に耳にかかった髪を掬い上げられた。
「はよ…早いな」
静香が身じろいだ事で目を覚ましたのか、ぼんやりと目を開けた岩泉は、静香の頬から首筋にかけて滑るように撫でた。
随分と優しげな手つきは、まるで昨晩を思い出させるようで、そっと視線を逸らした。
もごもごと「おはよう…」と返した静香に、岩泉はクスクスと楽しげに笑う。
「慣れねーな…お前も」
「はじめが慣れるの早いだけでしょ…」
この余裕の差はなんだろう、と思いながらじとりと岩泉を見上げる静香が、何を考えているのかなんて、岩泉にはお見通しらしい。
「男が余裕ねーと、かっこ悪いだろ」
「…余裕のないはじめも好きだよ」
「………不意打ちはやめろ」
流石に照れたらしく、岩泉は大きな手のひらで静香の目を隠し、視界を奪う。
気恥ずかしそうにしているだろう恋人の顔を拝もうと、その手をどかそうとする静香と、なんとか阻止する岩泉とで、暫くじゃれ合いのような攻防が続く。
そのうちだんだん可笑しくなって二人して笑い出し、昨晩の甘い名残を纏うままに起きだして、とりあえず汗を流そうと露天風呂に向かった。
常に温かいお湯が循環しているお湯に浸かり、ふぅ…と息をついたのもつかの間、岩泉が唐突に「お前今元気か?」と意味不明なことを尋ねてくる。
さながら小学生時代の朝の出欠確認のごとく「ハイ、元気です」と素直に返事をした静香だったが、数秒後にこの返事は間違いだったと思い知らされた。
「よし」と言った岩泉はニヤリと笑い、昨夜のごとく静香を湯船から持ち上げ、檜の床に押しつけた。
「えっ…?」と間抜けな声を上げた静香を見下ろすのは、昨晩の獣じみた鋭い目をした恋人である。
「心残りがないようにしねーとな」と言って、ちゃっかり風呂場に持ち込んできたらしい見覚えのある避妊具を振ってみせる岩泉に、静香は言葉を失った。
岩泉は一体、どこでそんなことを覚えてくるのだろう。
付き合い始めた頃の岩泉からでは到底想像のつかないほどの大胆さ、そして明け透けな物言いに静香はいろんな意味で目眩がした。
あの頃の、純情で照れ屋な岩泉はどこに…などと静香は心の内で嘆く。
しかし、歯で包装を噛み、雑に避妊具を開封する岩泉を目の当たりにした瞬間、嘆きも何もかも吹き飛んでしまった。
あぁ、もう、ずるいなぁ。
潔く負けを認めて緩く腕を伸ばせば、馴染みある柔らかい感触に口を塞がれる。
その後は昨晩と同じ、早朝にしては胃もたれしそうな程のフルコースである。
◇
朝からハードな運動をして、これから観光地に繰り出す元気が無くなっている静香を他所に、岩泉は平然とした様子で朝食を頬張っていた。
朝からたくさん食べるなぁ…とある意味感心しながらその様子を眺めていると、きょとんとした顔で「腹減ったのか?」と岩泉は見当違いの発言をする。
天然なんだかそうでないのか。
岩泉一は、それを見極めるのが非常に難しい男である。
そんなこんなで朝食を済ませ、二人身軽な格好で宿を出る。
旅行二日目は、宿を拠点に観光地を巡り、一日目同様にたくさん歩き回ることとなった。
地元名物を食べ歩いたり、眺めの良いところで写真を撮ったり、普段はあまり立ち寄ることもない資料館や美術館を覗いてみたりと、何にでも好奇心旺盛な子供のようにどこにでも足を運んだ。
流石現役バレー部員と元バレー部員といったところで、体力に自信のある二人は、疲労も感じさせぬ程に観光を楽しんだ。
調子に乗っていろんなところに出歩いたせいで、宿に帰って来るのがギリギリになってしまったのは痛かったが、なんとか夕食の時間には間に合った。
今日でこの宿で寝泊まりするのも最後だからと、静香も岩泉も、夕食は時間をかけて味わって食べた。
「風呂、どうする?」
「…そういえば、大浴場に行ってなかったね…」
静香達が泊まる部屋には特別に露天風呂がついているが、多くのお客さんは大浴場を利用する。
ホームページに掲載されていた写真を見ただけではあるが、和の厳かな雰囲気を楽しめる大浴場には、折角なので入っておきたい。
しかし、最後だから露天風呂にもう一度一緒に入るという選択肢も捨てきれずにいると、岩泉は笑いながら「露天風呂は明日の朝にもう1回入りゃいいだろ」と言ってお吸い物をすすった。
確かに、と納得した静香も含め、岩泉も今晩は大浴場へ行く事に決めた。
そうして夕飯を済ませ、二人で着替えを持って廊下を通り部屋を出て、大浴場のあるフロアへとやって来た。
時間が遅い事もあり、人の数は疎らではあるものの、売店にはそれなりの人が集まり、お土産品を物色しているようだった。
お土産コーナーで「気合い!」と達筆で書かれたてぬぐいに視線を奪われている岩泉を引っぱり、「後でお土産物を見よう」と説得してから、二人はとりあえず売店から離れた。
そして、大浴場と書かれた看板の掲げられている入り口の前に立ち、ここで岩泉と別れて、静香は女湯と書かれた赤い暖簾をくぐった。
◇
流石老舗の人気旅館とあって、大浴場の雰囲気からお湯加減まで、非常に満足のいくものだった。
特に和風の庭園を思わせる景色が綺麗で、お風呂でなければ写真に収めたいと思った程である。
気持ち肌もすべすべとしているし、なんだか身も心も綺麗になった気分である。
男湯の方はどんな感じだっただろうか…と岩泉の感想を聞くのを楽しみに、静香はお風呂から上がり、浴衣に着替えて髪を乾かしてから大浴場を出た。
静香の方が長風呂になるだろうから、先に部屋に戻っても大丈夫だと岩泉に伝えはしたが、岩泉はなんとなく待っていてくれそうな気がして、静香はフロア内を見回す。
そうして直ぐに、売店前の長椅子に座る見覚えのある後ろ姿を見つけ、静香は手荷物を抱えて歩き出した。
お風呂上がりで整えた髪は変じゃないだろうか?とガラスに映る自身を確認し、椅子に座る岩泉の背後に寄ってから、静香は軽く手を上げた。
しかし、ここで静香より先に一人のおじさんが岩泉に近寄り、予想外なことに、長椅子の空いたスペースにどさりと腰掛けた。
「よぉ、あんちゃん。嫁さん待ってんだろ?」
「…まぁ」
「俺も家内を待ってんだよ、女はなんでこうも風呂が長いんだか」
どっこいせ、と見た目に違わぬ親父臭さを漂わせながら、見知らぬおじさんが岩泉の隣に座って話しはじめる。
声をかけようとした静香はタイミングを逃し、前に出した手をそっと戻してから、その場に立ち尽くした。
二人の座る長椅子の後方、わずか1メートル程のところで静香が行き場を失っている事に二人は気付かず、おじさんは楽しげな様子で岩泉に続けて話しかける。
「女は身支度に本当に時間かかるからな〜」とぼやくおじさんの発言を右から左へ聞き流しながら、静香はおじさんの「嫁さん」という言葉に思考を奪われていた。
嫁さん。
それはもしかしなくても、私の事なのだろうか。
「あんちゃん、名前は?」
「…岩泉っす」
「ほお、岩泉君。嫁さんとは順調なの?」
「……さっきも言いましたけど、嫁じゃないっす」
岩泉が言いにくそうにそう応えると、おじさんは「照れるな照れるな!」と言って笑い出した。
それに対し、岩泉は若干居心地が悪そうであるが、どうやら二人は少しだけ面識があるらしい。
大方、大浴場で少し会話をしたくらいの関係なのだろうが、話題が話題だけに、静香はいつ二人の前に出て行こうかとタイミングを図りかねたままだ。
「彼女も嫁も似たようなもんだろ、惚れた女には違いない」
「…そりゃあまぁ、そうっすけど…」
「で、どうなんだ?」
ん?とからかい気味に岩泉に絡んでいくおじさんは、酔っているかのように上機嫌だ。
それに対し、岩泉はどうしたものかと脱力した様子で、渋々と口を開く。
「まぁ…順調だと思います」
「そうかそうか、そりゃ良かった」
心底嬉しそうにするおじさんは、腕を汲組んでうんうんと頷く。
何故そんなに上機嫌なのかと疑問に思ったのは静香だけではなく、岩泉は「何でそんなに嬉しそうなんすか?」と純粋に質問した。
「実は今日、結婚記念日でな。俺が家内にプロポーズしたのもこの旅館で、休みとって旅行に来てんだ」
「そうなんすか…おめでとうございます」
「いや〜ありがとう」
その言葉を待っていた!と言わんばかりに頭を掻いてみせるおじさんは、傍目にも分かる程に幸せそうだ。
恐らく、結婚して10年以上経っているのだろうが、きっと奥さんとは今も円満なのだろう。
それを自慢したいのか、浮かれているのか。
今日ここで会っただけの人でもいいから、誰かに話を聞いて欲しいのかもしれない。
「思い出の場所なんだ。そりゃあ…ちょっといい値段する宿だけど、折角の記念日だしな」
その後も、おじさんは奥さんとの今日という日の惚気話を次々と語る。
ボーナスを貯めて、今日という日に旅行に誘ったら、大喜びして抱きつかれた事。
岩泉と年も近い娘に、「まるで新婚旅行みたいね」と浮かれ具合を呆れられた事。
旅行1週間前から、奥さんはウキウキとしながら荷物の準備に大忙しだった事。
旅行中ずっと上機嫌で、久しぶりに結婚前の彼女といちゃついているような時間を過ごせた事。
サプライズで花束をプレゼントしたら、泣いて喜ばれた事。
たくさんの惚気話を聞いているうちに、静香は岩泉に声をかけることも忘れ、ずっと二人の後方に佇んで話に聞き入っていた。
いいなぁ、結婚しても、このおじさん達のような幸せな夫婦でいたいなぁ…などとぼんやりと立ち尽くす静香を不思議に思い、売店で買い物を済ませたお姉さんが不審げな表情で通り過ぎる。
「なんだったら、相談あれば人生の先輩としてアドバイスするぞ!」
「…はぁ」
おじさんは「なんでも聞いてくれ!」とばかりに鼻を鳴らす。
惚気話をひたすらに聞かされていた岩泉の反応は、まるで気圧されたかのようにぎこちない。
なんと反応すればいいのか困っているようでもあったが、少しだけ無言になった後、岩泉は「じゃあ…」と口を開く。
「1つ聞きたいんすけど」
「うんうん」
「奥さんに、どんなプロポーズしたんすか」
チラ、とおじさんの様子を伺うようにそう尋ねた岩泉と、そのおじさんが目を合わせること3秒。
吹き出すように笑いはじめたおじさんに、岩泉がやや恥ずかげに「なんすか」と食いかかろうとした瞬間、視界の端に映った静香に気付いて、さっと振り向いた。
唖然とした表情で静香を見る岩泉と、顔を赤らめて硬直する静香、そしてそんな二人を見比べるおじさんという、奇妙な光景が出来上がる。
この絶妙なタイミングで、「あなた何してるの〜?」とお風呂から上がったらしいおじさんの奥さんが姿を現す。
いろんな意味で混沌としたこの状況で、おじさんだけは一人楽しげに爆笑している。
「あっはっは、そうか。君が岩泉君の彼女か!」
「ちょっとあなた…、なに若い子に絡んでるの!すみません、うちの主人が…」
「い…いえ…」
申し訳なさそうにする奥さんは、腰掛けに座って未だ笑っているおじさんの肩をバシバシと叩く。
早くあなたも謝りなさい、という奥さんの抗議を受け、おじさんはゆっくりと立ち上がってから「いや〜すまん!」と頭を掻いた。
全く謝るつもりのないおじさんの様子に、奥さんはじとりとした目を向けていたが、岩泉も静香もそれどころではない。
おじさんに「どんなプロポーズをしたのか」尋ねた岩泉の意図ははっきりとは分からない。
ただ純粋に気になっただけなのかもしれないが、その『気になった』というところが問題である。
プロポーズをするつもりなのだろうか、ならば誰に、なんて愚問も甚だしい。
岩泉も静香も硬直している中、不思議そうにしている奥さんを他所に、おじさんは愉快愉快とばかりに岩泉の肩を叩いた。
「悪いな、岩泉君。さっきの質問の事だけど、俺と家内だけの思い出にしたいから、内緒だ」
「そういうのはやっぱり、自分で考えた方がいいと思うぞ!」などと余計なセリフを置き土産に、おじさんはこの場から退散していく。
「ちょっと何か恥ずかしいことでも言ったの?」と奥さんは慌た様子で追いかけはじめる。
「すみません!」とぺこぺこと申し訳なさそうに頭を下げる奥さんを見送りながら、静香は腕の中にある手荷物をぎゅっと抱え直した。
とても岩泉の方を見られないこの状況に、どうしたものかと立ち尽くしていると、岩泉はゆらりと立ち上がった。
「…お前、いつからそこに居たんだよ」
「…5分くらい前かな…」
「最初からじゃねーか…」
声かけろよ…と言いながら、首裏を掻いて岩泉が唸る。
静香も上手い言葉が見つからず、もじもじと立ち尽くしたまま何も言えない。
気恥ずかしい空気を纏う二人を眺めながら、売店に立ち寄っていた老夫婦が「若いわねぇ」と言いながら二人の横を通り過ぎて行く。
傍目から見ても二人の妙な雰囲気は明らかで、このまま他人の好奇の目に晒されるのも居心地が悪いと、先に行動を起こしたのは岩泉だった。
「…俺達も、部屋に戻るぞ」
そう言ってフイと視線を逸らし、スタスタと歩き出した岩泉の後ろ姿を眺めていた静香は、恋人の耳が赤くなっている事に気付いてたまらなくなる。
振り切れそうな想いの矛先をどうするか迷ったが、真っ正面から本人にぶつけたくなって、静香は小走りで岩泉の後を追いかける。
そうして人目があるのも憚らす、岩泉の左腕に勢い良く絡み付いて、肩に頭を押し付けた。
たまにこうやってデートしているカップルを街中で見かけるから、少しくらい許して欲しい。
自身の腕に絡み付いて来た静香に驚き、「おい…」と抗議の声を漏らした岩泉だったが、口元がだらしなく緩んでいる静香を見て毒気を抜かれたらしい。
口を開きかけたものの、その後は制止させるような事も言わず、はぁ…とため息をついて前方に視線を向けた。
「違うからな。この前、大学のOBの先輩がプロポーズについて悩んでたから、何か参考にならないかと思っておっちゃんに聞いただけで……」
「そっか〜」
「…何笑ってんだよ」
岩泉の言う事は、事実なのだろう。
しかし、羞恥が混じった声色でそんな事を言われてしまっては、本当のことであっても照れ隠しにしか聞こえない。
恥ずかしそうにしている岩泉が可愛くて、自身へのプロポーズの参考では無かったと知っても、大してがっかりはしなかった。
静香に『そういう話を聞かれた』とぎこちなくなっている姿の、なんと愛しい事だろう。
ニヤニヤとしている静香の頭を小突く岩泉の手の優しいところが、静香の体をより軽くしていく。
まるでたくさんの風船を体にとりつけられたかのような浮遊感に包まれながら、静香は岩泉にひっついたまま部屋に戻った。
部屋についたら、岩泉に真正面から抱きついてやろうと企んでいたのだが、部屋に入って早々、静香は玄関につまづいて派手に転んだ。
先程までの甘さを払拭する程の醜態に、岩泉は笑いながら「大丈夫かよ」と静香の手を引いて起こしてくれた。
畳に打ち付けた体の鈍い痛みに耐えながら、静香は羞恥で口を閉ざす。
さっきまでは岩泉の方が恥ずかしそうにしていたのに、静香が転けただけでいつもの調子を取り戻したかのように「浴衣は歩き慣れないもんな」などとフォローを入れてくれる始末である。
そうして先程のプロポーズうんぬんの話題を流すように、寝室に敷かれた布団に転がった岩泉は、旅行雑誌をベラリと捲りはじめた。
「土産どうすっかな…」
「そうだね…。もう明日には帰らなきゃいけないし…」
荷物をある程度まとめて、静香も岩泉の隣に寝転び、開かれた旅行雑誌を覗き込む。
開かれているのは、この周辺のお土産物特集の組まれたページである。
さなざまな地元の名産品の写真が並ぶ中に、昨日岩泉と一緒に露天風呂に入った際、一緒に飲んだオレンジジュースも掲載されていた。
どうやら、それなりに有名なものらしい。
「オレンジジュース買って帰ろうよ」
「おー…いいけど、駅で買おうぜ。多分重い」
ぺらりと次のページを捲る岩泉を隣から眺めていると、静香はふと既視感に襲われた。
なんだろう…と疑問に思ったのもつかの間、その既視感の正体に思い至る。
「なんだか、修学旅行みたいだね」
そう言いながら、静香は高校時の旅行の思い出を掘り起こす。
修学旅行の夜は、同室のクラスメイトと枕をつきあわせて、見回りにやってくる先生達の監視の目をかいくぐり、夜遅くまでコソコソとお喋りをしたものだ。
ああいう時は何故か目が冴えてしまって、普段友達と喋らないようなことまで話をして盛り上がったものだ。
その話題と言えば、なんと言ってもこれだろう。
「岩泉君、好きな子いないの?」
「…お前は及川か」
友達同士で泊まりをした時によくある、恋バナというものである。
枕を下敷きにしてうつぶせに布団に入り、頬杖をついている岩泉に寄ってからそう言えば、岩泉は苦笑いを浮かべた。
過去の合宿か何かで、及川も似たような発言をしたのだろう。
静香の意図的な発言を聞いて呆れた表情のままに、岩泉は目の前に広げた旅行雑誌をぺらりとめくる。
「で、どうなの岩泉君?」
「…そういうお前はどうなんだよ」
「岩泉君が言ってくれたら言う」
「……ったく」
ニヤニヤとからかい気味の静香を一瞥し、岩泉は「しょうがねぇな」とため息をついて、暫し何かを思案する。
これはもしかして、静香のどういいうところが好きか教えてくれるのだろうか。
そう期待してそわそわとすること数秒、再び静香の方に視線を向けた岩泉と目があった。
「そろそろ寝るか」
「えっ」
教えてくれないの…?とポカンとしている静香に気付いているくせに、岩泉は雑誌を閉じてから、仰向けに転がる。
そうして何事も無かったかのように部屋と枕元の電気を落とし、暗がりの中で本格的に寝る体勢に入るものだから、静香はポカンとしたまま寝転がる。
かなり強引ではあるが、どうやら誤摩化すつもりらしい。
一瞬食い下がろうかと思ったが、あんまりしつこく尋ねるのもどうかと思い、静香も大人しく布団に潜り込む。
昨晩は一緒の布団で絡み合うように抱き合って眠ったから、なんだか一人で入る布団は広々としている気がした。
明日にはこの宿を出て行かなければならないし、旅行二日目とあってそれなりに疲労も溜っている。
瞼もそれなりに重たいので、さっさと寝てしまうのが適切なのだが、もう少しだけ起きていたいと思うのも事実である。
チラリと隣に顔を向けると、岩泉はしっかりと目を閉じていた。
疲労を感じているのは岩泉も同じらしく、静香も潔く諦めて目を閉じる。
しかし、その数秒後。
トントン、と布団を叩くような音が聞こえ、静香が瞼を上げてゆっくりと隣に顔を向けると、岩泉が目を開けてこちらに体を向けていた。
そのまま寝てしまうものだと思っていたのに。
驚いて目を見開いた静香の様子を見て少しだけ笑った後、岩泉は自身の布団のスペースを空け、手招きした。
こっちに来い、と言葉無く誘われている事に気付いて、静香は一瞬固まる。
しかし、すぐに自身が潜っていた布団から抜け出して、岩泉の腕の中に転がり込んだ。
思わず漏れた「えへへ」という笑い声に、岩泉は静香の背中を軽く叩いて応える。
「本当、分かりやすい奴…」
呆れたような声色ではあるが、岩泉は少しだけ笑みを纏いながら静香を引き寄せた。
それが嬉しくて、静香は岩泉にすりすりと身を寄せる。
「…この旅行中、結局あっちの布団は使わずに終わっちゃったね…」
「…洗濯が楽でいいだろ」
「あはは、仲居さんに感謝されるね」
部屋を片付けにやってくる仲居さんにとっては、布団が綺麗なままだと整理しやすいだろう。
軽率にそんなことを考えた静香だったが、そこである事に気付く。
二つ並べた布団、片方はぐちゃぐちゃで片方が整っていたら、この部屋に泊まっていた二人が何をしていたのか筒抜けである。
それを誤摩化そうと今朝起床した時に考えたのに、その後岩泉と露天風呂でたっぷり時間を使ったせいで、綺麗なままだった布団を乱すことをすっかりと忘れていた。
ということは、今朝顔を合わせた仲居さんには、昨晩二人が事に及んでいたことを察していたのだろうか。
今更に羞恥がこみ上げ悶えている静香に気付かず、岩泉は優しい手つきで頭を撫でてくれる。
「今度また一緒に、旅行行こうな」
「…そうだね。次は…もっと遠出してみたいな」
甘やかな岩泉の声色に、静香は今更恥ずかしがっているのも馬鹿らしくなって、これ以上深く考えることはやめた。
年頃の男女が露天付きの部屋に泊まれば、そういう事をしたっておかしくないだろうと開き直り、岩泉の胸元に顔を埋めたまま目を閉じる。
スンと控えめに匂いをかげば、岩泉からはお風呂上がりの石鹸の匂いがした。
匂いを嗅がれた事に気付いたらしく「何してんだよ…」と呆れた様子の岩泉の声が頭上から落とされた。
「…あのさ、」
「なに?」
「さっきの話、」
「…?」
「風呂から帰る時、俺が話してたおっちゃんとの話」
「…うん」
まるで呟くように話す岩泉の声に耳を傾けながら、静香は微睡むように布団に沈む。
先程、そのおじさんと話していた内容を静香に聞かれて固まっていたというのに、何故話す気になったのか疑問に思ったが、岩泉に撫でられている頭が心地よくて、とりあえずそのまま相槌をうつ。
「風呂に入った時に、丁度あのおっちゃんが隣で体洗ってたんだ。そこで少し話して、誰と一緒に来てるんだって聞かれたから、彼女と来たって言ったんだ。そしたら、ずっと静香の事、嫁さん呼ばわりしてよ」
「…うん」
「何度言っても、お前の事嫁さん嫁さんばっかり言ってさ。その上、風呂入ってる間は、ずっとこの温泉の効能を事細かに聞かされて逆上せるかと思った」
「…そんなに仲良くなってたんだ」
惚気話や温泉についての話を散々に聞かされ、うんざりとしている岩泉が目に浮かんで、静香はクスクスと笑う。
「風呂から出ても、静香を待ってる間ずっと喋ってるしよ…まぁ、その辺はお前も盗み聞きしてただろうけど」
「………」
「でもさ、なんつーかこう…、聞いててちょっと羨ましかった」
ぼそりと落とされた発言に、静香はゆるりと目を見開いた。
何故だろう、岩泉がどこか緊張しているように感じる。
「結婚して20年になるんだとさ。子供もいて、記念日には一緒に旅行行って、プレゼント渡したりして、それで奥さんも喜んでくれて、おっちゃんも惚気言いふらしたくなるくらい浮かれててさ…。なんつーか、ああいうのが理想なんだろうなー…って思ってよ」
「…それで、どんなプロポーズしたのか気になったの?」
岩泉のあまり触れて欲しく無いところを、尋ねている自覚はあった。
プロポーズに悩むOBの先輩へのアドバイスになるかと思って聞いた、と言った岩泉ではあるが、本当のところはどうなのだろう。
それを知りたいと下心を孕んだ質問を投げた静香ではあったが、岩泉の答えはそんな期待を華麗にかわす。
「そうなんだよ…。先輩も結構悩んでたから、参考にするのに良いと思ったんだけどな…」
「…そっか」
純粋に先輩の事を心配しているらしい岩泉の反応に、静香はひっそりと拍子抜けする。
本当に先輩のためだけに尋ねただけで、岩泉自身が気になったわけではないらしい。
それならば、静香に盗み聞きされた時になんであんなに恥ずかしそうにしていたのだろう。
期待してしまうから思わせぶりなことはしないで欲しい…、と心の中で理不尽な八つ当たりをしながら、静香が身じろいだ時だった。
「嘘」
唐突に落とされた言葉に、静香は「え?」と間抜けな声を上げる。
同時に頭を上げられないように抱え込むように頭を岩泉の胸に押し付けられ、静香はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
岩泉から漂う石鹸の匂いが、いっぱいに広がっていく。
「本当は、俺もちょっと聞きたかった」
理想の家庭を持つおじさんに、最愛の奥さんに何と言って結婚を申し込んだのか、岩泉も気になったのだと正直に白状する。
何故気になったのか、それが何を意味するのか、分からない静香ではない。
岩泉の思わぬ暴露に近い発言に、二人して息を飲んで黙り込む。
意図しての発言なのかと思ったが、岩泉も固まってしまっている辺りそうでもないらしい。
黙っていたって良かったというのに、そういうところを正直に話してしまうところは、本当に岩泉らしいと思う。
二人の体を包む布団の中に一緒にいるせいなのか、体温が上昇したせいなのか、二人を囲う空気が酷く熱い。
これはもしかして、遠回しなプロポーズというやつなのだろうか…とぐるぐると沸騰しはじめた静香は、何と答えるべきなのか迷って口を開きかけるが、言葉は音にならずにそのままだ。
そんな彼女の様子に気付いているのか、見当がついているのか、先に口を開いたのは岩泉の方だった。
「…あちぃな」
「…うん」
本当に、逆上せてしまうんじゃないかと思えるくらいに、熱い。
「…脱ぐか」
甘い提案を囁きながら、岩泉の手は既に布団の中に潜り込み、静香の浴衣を締める帯に触れる。
持て余した熱を、肌を合わせることで誤摩化そうとしているらしい。
「…もっと熱くなっちゃうね」
昨日も今朝も、散々に肌を合わせたというのに、静香にはその提案を断るという選択肢は無い。
眠気はすでに、遥か彼方へと吹き飛んで行ってしまった。
顔を上げて岩泉の首に腕を回して口づけた瞬間、布団の中でスルリと帯が解かれた。
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