今でも鮮明に覚えている。
高校に入っての、初めての体育祭。
チームの代表が参加するリレーで、圧倒的なスピードと走りを見せ、まるでヒーローのようにゴールテープを切った彼は、ナマエの世界の中で一番輝いていた。
「リョウは、明日の運動会、たまいれとかけっこに出るんだよね?」
「うん」
ポン酢に浸かった湯豆腐にふーふー息を吹きかけ、熱を冷ましている息子は上目使いに母親を見上げた。
まだ5歳になったばかりで、幼くあどけないものの、父親の面影をそっくりと受け継いでいる。
大きくなったら、旦那のような男らしい青年に成長するのかと思うと、気は早いが今後がとても楽しみだ。
ふふふ、とナマエが笑うと、リョウは良く分かっていない様子で首をかしげ、目の前の湯豆腐を小さな口に入れる。
今時の子供にしては珍しく、父親も息子も揃って豆腐料理が好きなのだ。
お陰で岩泉家の冷蔵庫から豆腐が姿を消す事は無い。
「ごちそうさま」
丁寧に両手を合わせる息子の口元が少し汚れているので、ナマエはティッシュで丁寧に拭きとってやる。
「よし、リョウ。風呂入るぞ」
一足先にご飯を食べ終え、お風呂の準備を整えていた旦那がひょっこりとリビングに顔を出す。
はーい、と言ってドタドタと走り出し、リョウは旦那の足に激突するかのように飛びついた。
「今日は、お船であそぶ!」
「おー。いいけど、あんま長風呂はしねーぞ」
二人揃ってお風呂場に向かうのを見送り、ナマエは洗いものをはじめる。
食器を洗いきる少し前に、そういえば今日干したバスタオルをまだお風呂場の棚に置いていなかったことに気づく。
慌てて畳んだバスタオルの束を手に脱衣所に向かうと、旦那も息子も、まだお風呂の中で、なにやら楽しそうに会話していた。
「ナミちゃんとこね、もうすぐしたら赤ちゃんがうまれるんだって。ナミちゃん、おねえちゃんになるんだって」
「そうか…。じゃ、リョウもお兄ちゃんになるな」
「…おれもおにいちゃん…?」
「そうそう、ナミちゃんの…妹か弟かわからねーけど。リョウの方が大きいんだから、お兄ちゃんだろ?」
楽しげに話している旦那が目に浮かび、ナマエはバスタオルを抱えたまま口元を緩ませる。
盗み聞きをしているようでなんだか申し訳ないのだが、もう少し二人の会話を聞いていたくなった。
「おにいちゃん…」
「そうそう、リョウおにいちゃんだな」
「そっかぁ…!」
ニコーと笑う我が息子の表情が目に浮かぶようだ。
バシャバシャと湯船が揺れる音が聞こえる辺り、随分とはしゃいでいるらしい。
こらこら、と息子が水面を荒立てているのを落ち着かせ、風呂場に再び穏やかな空気が流れる。
ナマエもそろそろ立ち聞きが過ぎるかと思い、バスタオルを抱え直して、声をかけようとした時だった。
「あかちゃんって、どこからくるの?」
ふと、疑問に思ったのだろう。
親のぶちあたる壁というべきか、純粋無垢な質問に旦那が黙ったのが分かって、ナマエは思わず吹き出してしまった。
そのせいで、盗み聞きしていることもばれてしまう。
「ナマエ…そこで何してる…」
お風呂場のドア越しに、不機嫌そうな旦那の声がナマエに届く。
「バスタオルを持ってきただけでーす」
「………」
アハハ…と隠さずに笑うと、無言ではあるものの抗議したげな旦那の表情が脳裏に浮かび、おかしくてたまらない。
笑うナマエを他所に「あかちゃんってどうやってお母さんのお腹に入るの?」と畳み掛けて来る息子の発言に、夫は言葉を濁らせる。
「リョウ、お船のおもちゃはどうしたの?」
ねぇねぇ、と質問責めをされている旦那様が少し可哀想なので、ナマエはさり気なく助け舟を出し、話題を逸らす。
「今ね、お父さんの肩にざしょうしてる」
「…座礁?」
乗り上げている、ということなのだろうか。
まさか5歳の息子が、座礁だなんて難しい言葉を知る訳が無いので、おおかた旦那が言葉を教えたのだろう。
しかし、座礁なんて…滅多に使わない単語を教えたものだ。
「いっぱい遊んだから、お父さんの肩でお休みしてるの」
「いっぱい遊んだの?いいなぁ、楽しそうだなぁ」
「楽しいよ!」
「そっかぁ…お母さんも一緒にお風呂入ればよかったなぁ…」
「アホか…」
ボソリと呟いた声は、お風呂の中にいるためか、小さな声の割に良く響いた。
旦那の呆れたような表情が目に浮かぶようだ。
そういう反応をされるのはさらさら分かっていたので、ナマエはむくれたふりをして、内心クスクスと笑った。
そんな自分の様子は、旦那には筒抜けだろう。
しかし、純粋な可愛い可愛い息子だけは、そんな複雑な空気を読めるはずもない。
曇りガラスをそっと開け、顔だけを出して、ドア越しに立っている母親の様子をそっと伺う。
「お母さんも入る…?」
お湯に浸かったせいで、頬を赤く染めた息子は、心配そうにしている。
我が息子の愛らしさに溜らなくなり、「ああもう!」と口に出して、ナマエは身につけていたニットを脱ぎ捨てた。
「おい、待て」とドア越しに静止をかける旦那の様子が伺えたが、知ったことか!と全てを脱ぎ去り、息子を抱えてお風呂場に飛び込んだ。
ぎゃー!とあがる悲鳴や笑い声が、家中に響き渡る。
岩泉家の3人家族の日常は、いつも騒がしい。
そして迎えた翌日、今日は息子の通う幼稚園の運動会である。
お弁当にレジャーシート、カメラ、日よけなどを大きなカバンに詰め込み、幼稚園の門を潜る。
休みの日程が合い、一緒に運動会の応援に行く予定の旦那は、なんと今回保護者対抗リレーに参加する。
愛する息子と旦那の勇士をカメラにばっちり収めるために、カメラ機器の準備に抜かりは無い。
「あ、はじまるよアナタ!」
「見てりゃ分かるよ」
我が子が一生懸命に赤色の玉を拾い、力一杯投げている様をきゃーきゃー言いながら撮影していたら「周りに迷惑だからやめろ」とカメラを旦那に取り上げられてしまった。
落ち着いた様子でカメラを回し始める旦那を見ながら、ナマエはむっとして機械を奪い返そうとする。
しかし、無駄の無い動作でさっさとかわされてしまい、たまいれの競技が終わるまで結局カメラは返してもらえなかった。
「ああ…リョウの勇士を私がカメラに収めたかったのに…」
「安心しろ、俺のがばっちり撮ってる」
ほらよ、と返されたカメラを手に取り、先程の録画映像を再生する。
始めの方は、ナマエの声がたくさん入っているうえ、画面もぐらぐらと揺れがある。
しかし、旦那がカメラを手にした辺りから、ブレも少なく綺麗に録画出来ていたために、ナマエはぐうの音も出ない。
それから数プログラムが過ぎた後に行なわれたリレーの時も、カメラマンは旦那となり、ナマエは必死に我が子の応援に専念していた。
父親の血を強く引き継いでいるようで、リョウも運動は大の得意である。
リレーで一番をとり、嬉しそうに笑ってこちらに手を振る息子に、ナマエも両手をぶんぶんと振返す。
「かっこよかったよ!」と褒めてやらねば、とナマエが考えていると、不意にリョウの隣に女の子がやって来た。
リョウの、所謂幼馴染みという関係にあたるナミちゃんである。
普段は強気なお姉さんタイプの女の子なのだが、何やら照れくさそうにリョウに話しかけている。
人前に出ると、家での甘えたが大部抜ける息子は、ナミちゃんの話を耳にし、ニシシ男の子っぽく笑い、ブイサインをした。
その二人の姿を見た瞬間「あ…」とナマエは思わず声を漏らす。
リョウとナミちゃんに重なるように、蘇る記憶は高校3年生の頃のものだ。
3回目の体育祭、好きな人のかっこいい姿を味わえるのは、これで最後なのだと思っていた。
当時の私はわりと積極的で、周りの人間にばれているくらいには一にしつこくアプローチをかましていた。
しかし、いくらアタックしても、気づかなかったり、対応が雑だったり、つれない態度をとられたりとを繰り返したせいで、ナマエはあまり自信も無かった。
きっとこれで見納めなのだ、と嬉しいやら切ないやらで、一の走る姿を眺めていた。
しかし、走り終えた後、やりきった表情でブイサインをし「勝ったぞ!」と笑う一を見ていたら、そんな感傷的な心情も吹き飛んだ。
ああやっぱり好きだなぁ、かっこいいなぁ、なんて。
こうして簡単に心を奪っていくのだから、男の子ってずるいよなぁ、と心底思った。
「どうした?」
カメラを片手に、静止したナマエの様子を伺う夫は、不思議そうな顔をしていた。
今こうして、当たり前のように隣にいられるのも、時々奇跡なのではないかと思う事がある。
過去の思い出を振り返りながら、ナマエは再びリョウとナミちゃんに視線を向ける。
「初恋かぁ…」
「何だよ、いきなり…」
ナミちゃんが、リョウに密かに想いを寄せていることを分かっていないのは、旦那だけである。
異性からの好意に鈍いこの男を落とすのも、ナマエは随分と苦労をしたものだ。
そんな男の血を継いだ息子をその気にさせるのは、ナミちゃんも随分と苦労しそうである。
「なんでもないよ」
クスクスと笑いながら、隣に座る旦那に寄りかかると「おい」と抗議の言葉が上から聞こえた。
「公衆の面前でやめろ」
「…はぁい」
大人しく旦那から離れると、カメラの電池残量を確認しながら、一がぼやく。
「そういうのは、家に帰ってからにしろ」
「…家に帰っても、大体相手してくれないでしょ」
息子に構ってばっかりじゃないか、時々は私も甘やかして欲しい。
わざとふくれてみせると「ガキかお前は」と呆れた目で見られた。
「もう…一なんて嫌い…」
「ほぉ…」
ぴくり、と眉を動かして動きを止めた旦那は、ピッと音をたててカメラの電源を切った。
「来週の土曜日から連休とれたから、1日だけリョウ実家に預けて、お前と二人でどっかに出かけようと思ってたんだけどなぁ…」
そうか嫌いか、と思わぬ事を言う旦那に、ナマエは目の色を変えた。
「嘘嘘!大好き!超愛してる!!」
「…わっかりやすい奴」
呆れたようにため息をついた旦那は、必死な自身の妻の様相にかすかに口が弧を描く。
優しげな表情をする旦那に見蕩れていると、ふいに運動会の次のプログラムの招集が耳に入る。
『保護者対抗リレーに参加される方は、入場門の方にお集まりください』というアナウンスを聞き、旦那は「よし!」と立ち上がる。
高校生の頃から変わらない、自信ありげな様子の旦那を送り出す。
「頑張ってね、お父さん」
「おう、惚れ直させてやるよ」
得意げに笑う旦那は、ナマエが岩泉一という男に恋するきっかけとなった出来事を知っている。
つき合い始めて暫く経った後に打ち明けたのだが、そんな昔の話を未だに覚えていてくれていることに、ナマエは胸をときめかせるのだ。
愛しいこの人は、きっと今日もしたり顔で、ブイサインを向けてくれるのだろう。そして私は、
「また貴方に恋をする」
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