ちぼうけ


くぁ、と大きな欠伸をひとつし、空気を体内へと吸い込んだ。肩にかけたままのタオルケットで、ガシガシと掻くように乱暴に髪の毛に着いた水分をふき取り、ふたが開いたままとなっていた洗濯機の中へと放り込む。パサ、と情けない音を立てて床の上へと落ちたソレには、見て見ない振りをした。
質素な作りのリビングへと通ずるドアを開けると、中から「おかえり〜」と気の抜けた声が聞こえた。声を発したのは、悟浄を風呂場へと追いやった張本人、なまえだった。


この日、正午も1時間を過ぎた頃。悟浄の生活リズムを完璧に把握しているであろうなまえが、起床してくるタイミングを見計らって家を訪問してきた。愛しい恋人の姿に、その小さな体を思い切り抱きしめようとしたところで──「くさい!」の一言と共に、その身体は悟浄の腕をすり抜けていった。


その言葉を聞き、悟浄はなまえを抱きしめようとした腕の形のまま──自業自得とは言え──衝撃を受け固まっていた。
そういえば、昨日酒場で酒を飲み煙草を吸った後、風呂に入らずそのままベッドに転がるようにして眠ってしまったことを思い出して。「…風呂に入ってくるわ」と若干うなだれながら踵を返した悟浄に、なまえはにこやかに手を振って見せたのだった。


「──なにしてんのよ、なまえチャン」
「んー?」


風呂に入って身を清めたところで、さあお楽しみの時間だと意気込んできたのはいいものの。恋人を迎え入れるにはあまりにも気の抜けた声に、悟浄も思わず気の抜けた声を発しながらソファにうつぶせに転がっているなまえへと近づいていった。
悟浄へと視線も向けようとしないなまえの手元を覗き込むと、活字がびっしりと書かれた本が一冊。足をぱたつかせながら、なまえは上機嫌にその本を読み続けているのであった。


「…どしたのよ、その本」
「ん?…さっきねぇ慶雲院で八戒にあってねー…」


なまえが好きそうな本があったので、ってくれたの、と、本から目を離さずになまえは言った。よほど本に集中しているのだろう、問いかけに答える間も、その目が悟浄の方を向くことは一度も無く。その言葉を最後に、また黙々となまえの視線は並べられた活字を追って行くのに忙しそうに動いていた。


──面白くない。


悟浄は下唇を少し尖らせ、拗ねたような表情でもう一度なまえへと視線を落とした。相変わらずゆっくりとパタつかせている、ショートパンツから除く白く細い足。なんと無防備なことだろうか。一切警戒を抱かないほど、自分のことを信用してくれているのだと思うと、どこか甘くくすぐったい気持ちになるが、それとこれとは話が別である。


むくむくと湧き上がってくるいたずら心に、悟浄は指先でなまえの太ももの裏を一度だけ、そっとなぞった。


「やだ、くすぐったいからやめて」


なまえは足を器用に動かし、悟浄の手を振り払う。その姿を見て、さらに面白くなくなったのか、悟浄はうつぶせになっているなまえの上へと覆いかぶさり、首筋に顔をうずめた。すんと小さく息を吸ったところで、くすぐったかったのか、なまえは首を一度軽く振って、ついに悟浄の方を軽く振り返ったのだった。


「もー!なぁに、悟浄」
「…少しはこっちみろっつの」
「あとちょっとで区切りつくから、もうちょっと待って」


ソファの背もたれと腕置きに上手く手を着き、小さなその体がつぶれないようにしながらも、適度な重みがかかるようになまえへとのしかかる。待てるかよ、と心の中で独り言ちながら、首筋に口づけを落とそうとした──ところで、


「悟浄、メッ!」


その唇にぺちりと指先をくっつけたなまえが、眉根を寄せて悟浄を見つめ、そうのたまった。まるで聞き分けのない子どもに言うかのようなその物言いに、肩透かしをくらったように悟浄は目を軽く見開きなまえの目を見つめ返した。


「…あとちょっとだから、イイ子で待っててください」


ね?と軽く頭を撫でられて力が抜けて。言い返すことも、何かを行動に移すこともできずに、ハァと深く大きくため息をついた後、悟浄はなまえの肩口へぐりぐりと顔をうずめた。


「…終わったら教えてくだサイ…」
「はぁい」


そんな気の抜けた返事と共に、先ほどまで悟浄の瞳を見つめていたその目は、再び活字の羅列へと落とされていた。
真剣に文字を追うその横顔をじっと見つめて、読み終わったら覚悟しておけよ、と心の中で呟きながら、悟浄は再びなまえの肩口へ顔をうずめたのだった。