なたのとなり



 月明りがぼんやりと木々を、街並みを照らしていた。
 ふわりと心地よい風がほほをかすめるように過ぎ去っていき、なまえはふと口元を緩める。

 久方ぶりに訪れた、穏やかな夜だった。

 こんなに穏やかで気持ちの良い夜だというのに、なまえの心は酷くざわついていた。静けさが逆に怖いなんて、不思議な夜もあるものだと、独り言ちた時だった。


「──なまえ?」


 耳に優しく残るような声色で名前を呼ばれ、ゆっくりと振り向く。そこには不思議そうな表情でなまえを見つめる八戒の姿があった。湯あみからの帰りだろうか、漆黒の髪はしっとりと濡れている。


「八戒」
「どうしたんです、こんな夜中に」
「八戒こそ…こんな時間にお風呂?」
「ええ、騒がしい人たちが眠っている間に、と思いまして」


 にこ、と笑った彼の表情から悪意は感じられないが、口に出す言葉はどこかピリリと辛い。悪びれもなくそうのたまう彼の言葉に、ふふ、となまえは思わず笑みを溢した。


「…ああ、よかった」
「…え?」
「いえ、先ほど振り向いたときの表情が、どこか固かったものですから」


 心配していたんですよ、と八戒は微笑んだ。

 ──本当にこの人にはかなわない。

 振り向いた一瞬の表情で全て見通されていたことも、その緊張を和らげるために放たれていたであろう言葉にも。
 いつの間にか隣に腰を据えていた八戒の肩に凭れ掛かるように体を預け、なまえは小さく、長い溜息をついた。

「…なんだか、心がざわざわして、不安だったの。とくに、理由はないんだけど」
「そうだったんですね」


 否定も、肯定もせず。
 八戒は、ぽつり、ぽつりとつぶやくなまえの言葉に、小さく頷きながら耳を傾けていた。優しい声色と、彼の纏う柔らかな雰囲気とに不安だったなまえの心はとろとろと溶け出し、霧散していくような気がした。


「でも、八戒が来てくれたからもう大丈夫みたい。…ありがと」
「…いえいえ」


 また、いつでも不安になったら、僕に教えてくださいね。

 そう、なまえだけに聞こえるような、秘密事を話すような、小さな声で囁かれた言葉。そして、さらりと心地よく頭をなでていく大きな手に、先ほどの不安とは別の意味を孕んで、なまえは泣きそうに顔をゆがめた。


(しあわせ、なのに、どこかせつない)