I’m falling for you.






行き交う人々が話をする声や、店先で店主が呼び込みをする声がガヤガヤと賑やかにざわめいている。活気あふれる街には、夕飯の買い出しだろうか人がひしめき合っていた。
今日は随分とまた混んでますねえ、と隣を歩く八戒が独り言ちる。その一言に、そうだね、と返しながら、はぐれないようにとなまえは八戒の傍へと身を寄せた。


「おーい、なまえちゃん、八戒さん!」


きょろきょろ、と周囲を見渡しながら目当てのものを探していると、後ろから声をかけられる。声のした方を振り返ると、馴染みある青果店の女店主が、二人に笑顔を向けぶんぶんと元気よく手を振っているのが見えた。


「あ、…どうも、こんにちは」
「ハイこんにちは!今日、いい果物が入ってるよ」
「あ、いいですね…ちょっと、寄ってもいいですか?」
「うん!」


ゆっくり見ていきな!と恰幅の良い店主が笑う。その笑顔につられるように笑みを返すと、なまえは店先に並べられた果物へと目をやった。熟れ、つやつやと美味しそうに光っているそれを見て、なまえは思わずワァと感嘆の声を漏らした。


「ねえ、八戒、とっても美味しそうだよ!」
「…ええ、そうですね。なまえは、どれが食べたいですか?」
「え?んー…」


ちょんと唇を尖らせて、なまえは再度店先にならぶ果物をぐるっと見回した。赤く艶めく林檎、一粒一粒がみずみずしい葡萄、美味しそうに熟した桃…。どれも、とても魅力的に見え、なまえは思わずうんうんとうなりながら、どれを買うべきか、を悩み始めた。


「…っふ」


ひとつひとつを吟味するように眺めていると、ふと隣から笑い声が聞こえ、なまえは果物へ向けていた目線を隣にたたずむ男へと持ち上げた。見上げた先には、肩を震わせ口に手を添え、くつくつと笑う八戒の姿が。


「…どうしたの?八戒、なんで笑ってるの?」
「ふふ、…いえ、真剣に悩むなまえが、可愛くて」


そう言うと同時に、ぽん、と頭に置かれた大きな手の平。優しく髪をなでる手に、じっと八戒の顔を見上げると、ふにゃりと目じりを下げ、口元を緩ませた笑顔が見えた。


──こんな風に、この人が笑うようになったのは、いつからだったろう。


出逢ったばかりのころの八戒は、周りにいる人間を全く信用していない、という空気を身に纏っていた。常に笑顔をその顔に浮かべてはいるものの、目の奥は笑っていなくて、どこか冷たさを感じて、怖かったことを今も鮮明に覚えている。心から大切に想っていた人を亡くし、絶望の淵に立たされていた彼の姿を、今でも鮮明に。


たくさんの出来事があって、時間が過ぎて行って、そしていつの間にか一緒にいることが当たり前になっていった。そして共に過ごす日々の中、なまえが八戒に惹かれていったのも、今となってはごく自然のことであったように思える。一生、胸に秘めて墓までもっていくであろうと想っていたこの気持ちが、叶う日がくるとは夢にも思わなかったけど。私なんかでいいの?…そう聞いたなまえに対して、八戒は泣きそうな顔で、あなたじゃなきゃだめなんです、と笑った。


彼が昔愛した人。その存在は、きっと今も彼の心の中を縛り付けて離さないのだろう。──でも、今目の前にいる彼が、私を見つめて、こんな風に笑ってくれている。それだけで、良いと想える。


飾り、貼り付けたような笑みじゃない、八戒の笑った顔を見ながら、なまえは胸がきゅっと締め付けられるような切なさと、どうしようもない幸福感とが、心の中でせめぎ合っているのを感じた。


「──、なまえ?」
「…ん?なあに、八戒」
「どうしたんです、変な顔して」
「…ううん!なんでもないよ」


八戒、だいすき。自然と、口からこぼれていた言葉に、パチパチと目を瞬かせる目の前の男。そして、ふと笑って、僕もですよ、と答え返してくれる。それだけで今は良いや、となまえは微笑んだ。


相変わらずお熱いねェ、と茶化すように割入ってくる店主の声と、ええそうでしょう?なんて冗談めかして返す八戒の言葉に、なまえが慌てふためくのは、少しだけ後の話。