※無印




 朝起きてからの一杯の珈琲というのは実に良いものだと思う。引き立つ独特の香りといい、あのほろ苦さの中にある旨味は眠気を吹き飛ばしてくれる。ゆらゆらと湯気の立つカップに映る自分の顔をぼんやりと見つめていると甘ったるい匂いが鼻につき、リカルドは思わず顔を上げた。
 すると向いの席に座ろうと椅子を下げるイリアと目が合い、少女の持つ皿の上の物体から甘い匂いがしてくるのだと気付いた。皿の上にはふんわりと焼かれたホットケーキが2枚。上には定番のバターやシロップではなく生クリームと一口サイズにカットされた苺やキウイフルーツ、桃やメロンなど色とりどりの果物が乗っていた。
 随分と豪華なものだと思ったが栄養面から考えるとこれはこれで良いのかもしれない。しかしどうも甘い匂いというのはそこからだけではなく、既にテーブルに置かれていた白いマグカップの中の液体からもキャラメルのような匂いが漂っていた。
「それは何だ?」
「ん、キャラメルラテ」
 美味しそうでしょ?とくすくす笑いながらイリアは席に着いた。朝からこうも甘い物づくしとは、甘党とは恐ろしいものだとリカルドは少女に気付かれるように小さく溜息を吐いた。それか自分があまりにも甘い物と縁がないだけで実は普通の人間はこれくらいの甘さは当然のように食しているのか。
 そんなリカルドの思いなど一切知らずイリアはナイフとフォークで切り分けたうちの一つにたっぷりの生クリームと果物を乗せ口にすると幸せそうに大きな瞳を細めた。
「……美味しい」
「そのようだな」
「……?」
「アニーミの顔を見れば分かる」
 どうして、と不思議そうに首を傾げる少女にリカルドは薄く微笑みながら答える。そこまで顔に出ていたのかとあっさり納得したイリアは黙々とケーキを食べ続ける。リカルドもまた、特に話す事が思い浮かばず珈琲を口にしながら読みかけだった新聞に目を向けた。そうしてただ静かな時間が過ぎていくのをふいに少女が遮った。
「リカルドって甘い物好き?」
「嫌いではないがあまり口にしないな」
「ふーん……食べる?」
 切り分けた一切れをフォークに刺すとイリアはリカルドに差し出した。こういった好意は素直に受け止めるべきだろうとリカルドは手を伸ばしフォークを受け取ろうとしたがイリアはわざとフォークを持つ手を彼から遠避けた。
「……アニーミ?」
「あーんってしてあげよっか?」
 そうくるか。食堂の中には朝だというのに自分達以外には誰もいない。これは幸運と取るべきか災難と取るべきか。とにかく誰にも見られないのなら問題はないだろうとリカルドは伸ばしていた腕をすっと引いた。それを合図にイリアは身を乗り出しフォークを差し出すと満面の笑顔で「あーん」と何故かからかうような口調で言った。
「……」
「……どう?」
「……甘いな」
「あははっ」
 確かに人はいないが例えそれでもやはり恥ずかしさというものはあった。口元を手で覆い顔を逸らすリカルドを見てイリアは声を上げて笑った。やる側とやられる側ではこんなにも違うのか、余裕の笑みを浮かべる少女を今度は自分がどうにかしてやろうとあれやこれやと思考を凝らす。その時、多少のリスクはあるもののあの余裕を奪い取れる方法が一つ思い浮かんだ。
「アニーミ」
「何?」
「珈琲は飲めるか?」
「それブラックでしょ?あたし苦いの苦手なのよねえ」
 苦笑するイリアにそうかとリカルドは呟くと珈琲を口にした。一体何だというのか、イリアは首を傾げながらリカルドの様子を伺っているとその視線に気付いた彼は手を伸ばすと少女の頬をすっと掠めそのまま後頭部を押さえるようにした。戸惑うイリアにお構いなしでリカルドは身を乗り出すとあっという間に唇を塞いだ。びくりと小さな身体が飛び跳ねたが押さえ付けられているためこれといった抵抗が出来ない。そうしているうちに咥内にほろ苦い液体が流れ込んで来た。
 その正体に気付くより早く反射的にその液体を飲みこんでしまう。喉を通る苦い何かの正体に気付いた時にはもう唇は解放され呼吸が出来るようになっていた。かああ、と身体中に熱が走り口は陸に上げられた魚のようにぱくぱくさせながらリカルドを上目で見た。リカルドはしてやったといわんばかりの勝ち誇った笑みを浮かべながら「これで余裕などなくなっただろう」と意地悪く微笑んだ。言い返したかったが言葉が喉元で詰まり声にならなず再び珈琲を口にする彼を見つめる事しか出来なかった。


title by 水葬
101209
白い兎と深海魚