夫婦喧嘩は犬も食わぬ
「昨日はお疲れ様!めちゃくちゃカッコよかったよ!でも残念だったね」
友人に連れられて初めてバレー部の練習試合を見に行った日の翌日。試合中にちらりと目が合ったクラスメイトにそんな声を掛けるのは至極当然のことだと思う。
例えば人にCDを借りた後だとかお勧めされた映画を見た後だとかに一言感想を添えるような、言わば対人関係におけるマナーみたいなもの。少なくとも私はこの17年でそう学んだ。
――――それなのに。
「あ゛ぁ?」
どうしてその返事がこんなにキレ気味で、しかも威圧感たっぷりに睨まれなければならないのか。
「……えっ?」
「なーにが"カッコよかった"や!!負けたんやぞこっちは!!同情なんかいらんねん!罵れやこの豚!!」
物凄い剣幕でそう怒鳴った彼に思わず一歩後ずさる。軽く投げたつもりのボールがまさかこんな豪速球で返ってくるとは思わなかった。自分よりもかなり背の高い大男に怒鳴られて、私の身体は一気に硬直した。
しかしそれも一瞬のこと。言われた言葉を反芻した途端、怒りがドッと溢れ出た。それこそ噴火のような勢いで。
「はぁー!?誰が豚よ!」
「お前以外に誰がおんねん!」
「ゴリラに言われたくないわよ!大体なんでそんなキレ散らかしてるわけ!?カルシウム足りてないんじゃないの!?」
「あ゛ぁ!?なんやと!?」
突然始まった私たちの怒鳴り合いに周りもざわざわし始める。心なしか近くにいたクラスメイトに距離を置かれたような気がした。しかしこの教室内でどんなに注目を浴びようと、沸騰しきったこの怒りは簡単には下がってくれない。だって豚だよ?女の子に向かって。しかも最近それを気にしてダイエットを始めたこの私に!
「お前がいらんこと言うからやろ!こっちは負けて腹立っとんねん!」
「知らないわよそんなの!社交辞令って知らないわけ!?自分の機嫌ぐらい自分でとりなさいよ!誰かにあやしてもらう?治くん呼んでこようか??」
「〜っ!!ほんっま、喧しい奴やな……っ!!」
「負けたのは自分のせいでしょ?私に当たらないでよね!」
侑くんが身を乗り出して、近くにあった机と椅子がガタガタと激しい音を立ててぶつかった。それと同時に胸倉を掴みあげられ、ぐっと力強く引き寄せられる。周りにいた男子たちも流石にヤバいと思ったのか、「侑やめぇや!」と彼を止めに入った。少し離れた所から「治呼んでこい、治!」という声が聞こえた。
「ほんま調子のんなよ」
「はぁ?正論言ってるだけですけど」
「何が正論や。人が苛ついてるとこいらんこと言いやがってこのボケ」
「もしかして負ける度にそんなことなってんの?メンタルトレーニングでもしたら?チームメイトも迷惑でしょ」
「なんでお前にそんなこと言われなあかんねん。大きなお世話や」
額がくっつきそうな程の至近距離で侑くんと睨み合う。そんな状態で彼との応酬を繰り広げながら、どうしてこんなことになったんだっけとどこか冷静な頭で考えた。そうだ、私が「昨日はお疲れ様!カッコよかったよ!」といかにもありがちな感想を伝えたのだ。
――――いやほんと、どうしてこうなった?
「はい、しゅーりょー」
どこか間の抜けた声が降ってきたかと思うと、肩を引かれ力任せに侑くんから引き剥がされた。いつの間にやってきたのか、そこには治くんの姿があった。
「朝から何やっとんねん。皆引いとるで」
「こいつが喧嘩売ってきたんや!」
「アンタが勝手にキレたんでしょ!」
「はいはい、分かったから。なまえちゃんごめんな?こいつガキやから勘弁したって」
「誰がガキや!!」
「お前や」と静かなトーンで返す治くんの様子に、私の怒りもみるみるうちに萎んでいく。まるで空気の抜けていく風船みたいに。落ち着いた途端、教室がやけにシンとしていることに気付いてしまう。どれだけ自分がヒートアップしていたかが分かって、今度は恥ずかしさが襲ってきた。
「ごめん、私もついカチンと来ちゃって……。最初に言ったのはホント社交辞令だし気にしないで?なんなら序盤で侑くんがふざけて失点してなきゃ勝てたのにと思ってたくらいだから……」
「喧嘩売っとんのかお前」
「いやだって誰が見たってそうじゃん、相手の攻撃がカッコいいからって見よう見まねでやったりさ。付き合わされる治くんの身にもなってみなよ……」
「ぐ……」
「おお、もっと言ってやって」
「キャプテンのフォローなかったらきっともっと失点してたよね?技術よりもすぐ調子乗るとこ治した方がいいと思うよ」
「お前は北さんか!!」
少し青ざめた顔でそう叫ぶ侑くんは、もうすっかり怒りも消え去ったようだった。そうして今度は普段通りの声色で「でも俺のトス凄かったやろ?」「サービスエース何本もあったし」と謎の"俺すごいやろ"アピールが始まった。本人も言う通り、彼のプレーは確かに凄かった。
――――凄かったのだけれど、
「いやだからそれも全部含めてカッコよかったって言ったんじゃん!そしたら急にキレ出したんでしょ!?」
「虫の居所が悪かったんやからしゃーないやろ!」
「ほんっとガキ!!」
「なんやと!?」
「何でまた喧嘩が始まるんや」と、治くんが呆れたように呟いた。結局私たちの言い争いは朝のHRが始まるまで続いたのだった。
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