嫉妬するのも烏滸がましい
まるで聖職者みたいだ。初めて彼と食事を共にした時、そう思ったのをよく覚えている。食事を前に手を合わせるその姿が、祈りを捧げているように見えたのだ。聞けば食事の作法は特に厳しく躾られたのだという。なるほどどうりで食べる所作まで美しいわけだ。おかげで彼と食事をする時は、何か自分に粗相はないかと酷く気になってしまう。そうして自然と背筋がぴんと伸びるのだ。
勇作さんとの出会いは、幼少期にまで遡る。私の父親と彼の父親が古くからの友人だとかで、仲良くしなさいと促された先にいたのが勇作さんだった。しかしいくら親が友人同士言えど、産まれながらの階級というか、育ちの差、というものは確かに存在していた。
それが如実に現れるのがこの食事の時間だ。彼の所作を前に、大したテーブルマナーを教わっていない私はなんとも惨めな気持ちになってしまう。ただまぁ、「君は美味しそうに食べるから見ていて気持ちがいい」と彼が言ってくれるから、たまにであればこうして丁寧に食を味わう時間も悪くはない。
「そういえば、やっと兄様に会えたんです」
そう言ってふと箸を止めた彼が、実に嬉しそうに顔を綻ばせた。彼に異母兄弟がいるというのは前々から聞いていた話だ。なんでも勇作さんが生まれる前に芸者との間にできた子どもらしい。それ自体は決して珍しい話ではない。両親公認のもと養うこともあれば男児が産まれなかった場合には妾の子を養子にすることだってある。ただ、彼の話を聞く限りそうはならなかったのだろう。言葉を選ばずに言えば、彼の父親にとってその兄様とやらは「不要」だったのだ。
悲劇であるはずのそれも珍しい話ではないけれど。しかし日陰者とされる彼らの存在を勇作さんのように喜ぶ人は滅多にいないだろう。
「そうですか、良かったですね。お話はできましたか?」
「それが立場を気にされているようで、中々⋯⋯」
「⋯⋯軍は規律が厳しいですから、仕方ありませんよ。それで、どういう方でした? 尾形さん、でしたっけ」
「父の面影を感じました。特に、目が、そっくりなんです。同じ血が流れているのだと⋯⋯嬉しくてたまらなくなりました」
饒舌に語るその様子から、彼がどれだけ喜びに浸っているかが分かる。眩しいな、と思う。実子と妾の子、少尉と上等兵という立場の違いを越え、ただただ「ずっと兄弟が欲しかった」と無邪気に笑ってみせる彼が。
品行方正、誠実、清く正しく美しく、そんな言葉たちを絵に描いたような人。花沢勇作という男は、それらを素でやってのける。眩しい。否、眩しすぎる。正義と正論を背負って歩くような彼は、たまにその存在自体が暴力的だと思えてくる。その正しさは、そこから外れた人間の存在をないものにしてしまうのだ。それも、心からの善意で。
私が「彼と結婚できれば将来は安泰だな」と、そこに恋も愛もなく、実に打算的な考えを抱いているだなんて、彼は考えもしないだろう。滑稽なのは、一体どちらなのだろう。
「これから対露開戦となれば、同じ戦地に送られることもあるでしょう。射撃の名手である兄様の活躍をこの目で見てみたい」
「二人がご活躍なされば、お父様もきっとお喜びになりますね」
「そうですね、兄に遅れを取る訳にはいかない。私も父の名に恥じないよう精進します」
頼もしい笑みを浮かべて、差し迫った開戦に意気込みを見せる彼。虫も殺せないような男が、戦地に赴いた先で何を見るのだろう。その曇りなき眼には何が映るのだろう。日清戦争に出征した知人は「あそこは地獄だった」と言っていた。そこに彼が足を踏み入れたが最後、もしかすると帰って来る時には全くの別人のようになっているのかもしれない。
彼の美しさは一体どこまで通用するのか。地獄でさえ泥中の蓮として花を咲かせられるのか、掃き溜めの鶴となり得るのか。
―――それを確かめるのは、少しばかりおそろしい。
「それと⋯⋯もし戦争に駆り出されたら、そして無事に帰って来られたら、」
彼は言葉の終わりを飲み込んだように、そこでじっと黙り込んだ。首を傾げてその続きを待つものの、「えっと、その」ともごもごと言い淀むばかり。いつもはきはき喋る彼が珍しいこともあるものだと、まじまじとその顔を眺める。彼は僅かな逡巡を見せたのち、ようやく口を開いた。
「⋯⋯⋯また、こうやって食事に付き合ってくれますか?」
「何かと思えば⋯⋯もちろんですよ」
彼の訃報を聞いたのは、それから半年後のことだった。勇作さんの母、ヒロさんの話によれば、彼は現地で連隊旗手を務めたそうだ。ずっと志していた旗手に任命され、文字通り命を賭して戦えたことはきっと誇らしかったに違いない。勇作さん自身も、彼の父親も。
しかし、旗手を務めることは出征の際には分かっていただろうに、私には一言もなかった。戦地からの手紙にさえ記されていなかった。歩兵の中でも特に死に近いところにいると知られたくなかったのだろう。
私に心配をかけまいと思ったのか。もしかすると、前にヒロさんがそれを回避しようと躍起になったせいもあるかもしれない。「旗手なんて」と言われるのが嫌だった、とか。だとしたら随分な見込み違いだ。
死んでほっとしている、なんて、貴方は思いもしないでしょう。
綺麗な貴方が綺麗なまま死ねたことに、私はひどく安堵した。泥中の蓮のまま、掃き溜めの鶴のまま、彼は逝ったのだ。死ぬその間際でどうだったかなど知る由もないが、少なくとも私の中ではあの綺麗な勇作さんのままだ。
―――「また、こうやって食事に付き合ってくれますか?」
あの約束は来世に持ち越しといたしましょう。その頃には平静の世となっていると信じて。私ももう少し、貴方の友に相応しい人間になっていると信じて。
心の中でそう呟いて、静かに墓の前で手を合わせる。食事の際に彼がそうしていたように、できるだけ丁寧に。
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