あと一歩堕ちて欲しかったから


出先から戻ると、家の前に見知らぬ軍人が一人佇んでいた。じっと表札を見つめたまま動く気配のないその男に、父の知り合いだろうかと予想する。しかし父は今仕事で県外に出張中である。母も今日は友人に会ってくるとかで、帰りは遅くなると聞いている。つまり、今家には誰もいないのだ。

帰ろうとしないところを見るに、もしかすると急用なのかもしれない。少しばかり面倒ではあったが、仕方なしに「あの」と控えめに声をかけた。男がふっとこちらを振り返る。そうして私を捉えたその目に、強烈な既視感を覚える。父の古くからの友人、花沢幸次郎のそれと瓜二つだったのだ。

―――特に、目が、そっくりなんです。

ふと、もうこの世にはいない幼馴染の声が頭を過ぎる。動揺して思わず口を噤んでしまった私に、男は気にする素振りも見せず「この家の方ですか」と言った。

「ハ、ハイ」
「みょうじなまえさんという方に用があって来たのですが」
「……私です」

はなから見当はついていたのだろう、男は表情を変えることなく被っていた軍帽を取ると「尾形百之助と言います」と名乗った。そうしてじっと探るような目で私を見据える。

「花沢勇作殿の手紙を預かっています」



「大したおもてなしも出来ずすみません」

そう一言断って、尾形さんの前に緑茶を淹れた湯呑みを置く。彼は軽い会釈をしたのちに、自身の短い坊主頭を撫で上げた。

「お気遣いなく。こちらこそ急に訪ねて申し訳ない」
「そんな、わざわざ届けて下さってありがとうございます」

そう言って机を挟んだ彼の向かい側に腰を下ろす。一旦会話が途切れたことで部屋がしんと静まり返った。彼がこの家に来た用件が用件なために、まるで通夜のような雰囲気だ。しかしずっとこのまま二人黙り込んでいるわけにはいかない。「良ければ、勇作さんのお話を聞かせて頂けませんか」と、その些か重苦しい沈黙を破る。

尾形さんは手元の湯呑みに視線を落とし、「勇作殿は―――、」と言ったきり黙り込んでしまった。記憶を探っているのか言葉を選んでいるのか、どちらともとれるその様子に私はじっと彼の言葉を待った。

少しして、尾形さんはようやく「勇作殿は、」と先程と同じ言葉を口にした。それから淡々と言葉を紡いでいく。

―――実に勇敢な男でした。あの場にいた者は皆勇気づけられた。軍人として、連隊旗手として、立派に役目を果たしました。人望もありましたから、彼の死には多くの者が悲しんでおりました。情けない話ではありますが、彼の死によって士気が下がってしまったのも事実。それでもすぐに「花沢少尉殿の分まで」と持ち直しましたが。きっと勇作殿は、死んだ後も仲間と共にあったのだと思います。

抑揚のない声で語られるそれに、尾形さんの感情は全く見えてこなかった。まるで伝聞をそのまま語り継いでいるようにすら思えてくる。まァ、単にそうやって自分の心を守る人なのかもしれない。何せこの人はあの旅順攻囲戦を生き抜いた軍人なのだから。死との向き合い方には私よりもずっと慣れているはずだ。

しかし残念ながら、彼のしてくれた話は私にとって随分と物足りないものだった。勇作さんの葬式で聞いたそれと殆ど同じだったから。

私が聞きたいのは、もっとこう―――

「彼は綺麗なままでしたか」
「……は、?」
「戦地はまるで地獄のようだったと聞いております。地獄でも、彼は綺麗なままでしたか」
「…………『綺麗』と言うのは、なんとも抽象的ですな」
「すみません、貴方なら分かってくださるような気がして」

だって貴方の場所からは彼がいっとう眩しく見えたはずだ。実子と妾の子、少尉と上等兵という立場の違いをあっさり越えて来る彼が。日陰者としてこの世に生を受けた貴方に、無邪気に笑いかける彼が。きっと残酷なまでに照らされて来たはずだ。「兄弟が欲しかった」と心から喜ぶ花沢勇作という男に。

もちろん、そんなことを本人に直接言えるはずもないけれど。

「……ずっと気になっていたんです。虫も殺せないような男が、どんな顔で人を殺し、どう仲間の死と向き合ったのかと。そこに歪みは生まれなかったのかと」

尾形さんはじっと私の顔を見据えただけで何も言わなかった。どうにもそれが気まずくて、彼の視線から逃げるように下を向く。初対面だというのに流石にさらけ出し過ぎたかと、今になって後悔の念に襲われる。「すみません、忘れて下さい」と言いかけて、しかしその途中で遮られてしまった。

「『綺麗』なままでしたよ。そもそも、勇作殿はロシア兵を殺していない」
「エッ、……確か、旗手も帯刀はしているはずでは……」
「父の教えだそうです。敵を殺さないことで、神聖な軍旗を掲げる者として―――偶像として皆に勇気を与えるのだと」

そう言って尾形さんは湯呑みを口元で傾けた。見間違いでなければ、湯呑みで隠れる前のその一瞬、そこには薄く笑みが浮かんでいた。それも、酷く冷たい笑みが。ことり。彼が湯呑みを置く音がやけにこの部屋に響く。それから尾形さんはこれまでのかしこまった態度を一変させて、足を崩し胡座をかいた。

「アンタ、あいつが死んで安心しているな?」

不意に落とされた言葉にぎくりとする。同時に、彼の凄みのある笑みに気圧されて、背中に冷たいものが走った。肯定など出来るはずもない。しかし勇作さんの訃報を聞いた時、その感情は確かに自分の中に芽生えたものだ。「安心? どういうことです」動揺を悟られないよう、少しばかり語気を強めて彼に問う。

「『綺麗』なあいつが妬ましかったのでは?」
「…………妬ましいなど、そんな」
「地獄でさえ綺麗なままの人間がいてたまるか―――俺にはそう聞こえた」

急に喉が乾きを訴えて、それを誤魔化すように生唾を飲む。彼の指摘に図星を指された訳では決してない。確かにほっとしたのは事実だが、それはきっと「地獄を経験した彼を見ずに済んだ」からだと、「彼が綺麗な彼のまま死んだ」からだと、自分ではそういう風に解釈していたのだ。しかしこうも真っ直ぐ言い切られては、ついつい揺らいでしまう。彼の言っている事が本当のように思えてしまう。だけど、違う。そんなことを認めるわけにはいかない。

「……話が飛躍しています。貴方がそう思っているからそう聞こえたのでは?」

だってそれを認めてしまったら、自分の浅ましさがまざまざと浮かび上がってしまう。あの出来すぎた幼馴染に劣等感を覚えるのはもう沢山だ。勇作さんが死んだ今、彼とは純粋に、平等に、ただの幼馴染であったと、綺麗な思い出のまま仕舞っておきたいのだ。

―――ただまァ、今新たに別の安心感が芽生えたことは認めざるを得ないだろう。

「……正直に申しますと、貴方と同じ血が勇作さんにも流れていたと思うと―――いくらか安心しました」

「ははぁ」男は実に満足げに笑った。

「自分も、勇作殿の幼馴染があなたのような人だったと知って安心しております」

ふと、知らず識らず自身の頬が緩んだことに気が付いた。きっと私は今、この男と同じような笑みを浮かべているに違いない。



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