彼岸花の咲く頃に
秋季皇霊祭から二日目の日曜日、月島は鯉登に連れられて彼の父、鯉登平二の墓参りに来ていた。朝食後から外出が許可されるその日、目的地に辿り着いたのは正午を少し過ぎた頃だった。
鯉登少将の眠る墓を見つめながら、月島はその生前に思いを馳せる。長年に渡り鶴見に利用されてきた彼は、その最期もまた鶴見によってもたらされたものだった。それを冷然と傍観、否、鶴見と一緒になって利用してきた月島は、その墓前において何を想い何を報告すべきか分からずにいた。それでも、鯉登がお参りを済ませればすぐにその番はやってくる。ゆっくりと立ち上がった鯉登に目で促され、月島は神妙な顔で足を一歩踏み出した。
墓前に跪き、線香をあげて手を合わせ、口の中で念仏を唱える。――結局、頭の中は空白のままだった。空白のまま、しかし実に恭しく、また長いこと手を合わせ続けた。もちろん墓の掃除は熱心に取り組んだ。伝える言葉は浮かばずとも、やるべきことは分かっていた。
「曼珠沙華……今ごろ父上もこの花を見ているだろうか」
ようやく墓の掃除も終わり、ひと息ついたところで鯉登がぽつりと言葉を落とした。彼の視線の先には彼岸花がふたつ、寄り添うように咲いている。曼珠沙華――彼岸に咲く、悲願花。天界に咲くというこの花は、きっと天国にも地獄にも咲いているのだろう。
月島はこの花を見るたびに、地獄に呼ばれているような気になった。葉も与えてもらえずに、直立して咲かす鮮やかな赤は自身の犯した罪を想起させる。そこには侘びも寂びもなく、ただただ無遠慮に力強い赤を映し出すのだ。
――「地獄で私を思い出してくれますか」
ふと、懐かしい声が月島の脳裏を掠めた。
◇
「あんまり綺麗なものだから、子どものころ一輪摘んで帰ったことがあるんです。そしたら母に『家が火事になる』ってこっぴどく叱られて」
とんぼがちらちら飛び交う河岸縁、そこに群れ咲いた彼岸花を見下ろして彼女は言った。
「ひどい話だと思いません? せっかくこんなに綺麗なのに」
彼女はその場にしゃがみ込んで手頃な彼岸花を一本手折ると、香りを嗅ぐように自分の顔の前にかざした。その足元では彼女の影が長く伸びている。それをじっと眺めながら、月島がようやく口を開いた。
「彼岸花には毒がありますから、子どもに触らせないための言い伝えでしょう。火事にはなりません。何度も試しましたから」
「へえ、何度も」
「ええ、何度も。持って帰るだけじゃなく球根を食わせるべきだったと知ったのは、ずっと後になってからです」
「ふふふ、物騒な話」
彼女はさも可笑しそうに笑いながら、指先でくるくると彼岸花を回した。
「どうするんです、それ」
「兄の仏壇に飾ります。丁度ユリが枯れたところだったので」
「お母様に叱られるのでは?」
「もうそんな歳じゃありませんよ」
「それに、私がこの花を好きなことも知っていますから」と彼女は川の方へと視線を移した。いつもなら青く澄んでいるはずの水面が、西日を受けて赤く染まっている。時々ちかちかと光って見えるのは、魚の鱗が光をはね返しているのだろう。
「兄は日清戦争でたくさん人を殺めたそうで。病に伏せってからというものの『俺は地獄に堕ちる――』と毎晩のように」
この川の向こう側、太陽が沈む方角に彼岸はあるのだという。彼女はその方をまっすぐ見つめながら、花を持つ手をきゅっと握りしめた。
「天国とか地獄とか、私にはよく分かりませんけど。もし本当に兄が地獄に堕ちたとして、そこに咲く彼岸花を見て私を思い出してくれれば……」
「『蜘蛛の糸』みたいなものですか」
「そんな大それたものじゃありませんが。幸せだった頃を思い出せば、少しくらい地獄の苦しみも紛れないかなと」
「ねえ月島さん」彼女の双眸が月島を捉える。
「月島さんも、地獄で私を思い出してくれますか」
あの時自分がなんと答えたのか、記憶はモヤがかかったように朧気で、月島はついぞ思い出すことができなかった。
◇
「お出口は左側です。扉にご注意ください」
不意に聞こえてきたアナウンスに月島ははっと目を覚ました。慌てて車窓の外を確認すると通い慣れた駅のホームが見えて、通勤鞄を手にそそくさと電車を降りる。扉の閉まる音を背中で聞きながら改札口へと向かえば、自分の乗っていた電車が最終だったこともあり閑散としていた。
はあ、と軽くため息をついてから改札を出る。着実に疲れは溜まっているが明日も朝はやってくるし、仕事も待ってはくれない。コンビニでビールだけ買って帰ろうか、と考えた月島がまず向かったのは駅の外、その隅っこに設置された喫煙所だった。
ライターをかちりと言わせて飛び出た炎を煙草の先端に近づける。軽く息を吸い込めば、途端に煙が肺を満たしていった。日中酷使した頭はすっかり疲弊していて、月島は紫煙を燻らせながらぼうっと空を見上げた。雲がかったそこにぽつんと月が浮かんでいる。何とはなしに、煙草の煙をそれに向かって吹きかけた。
懐かしい夢を見た気がする。会社の最寄駅から家の最寄り駅までの三十分足らず、それにしては随分濃い内容だったような。しかしそれがどんな夢だったか肝心なところは思い出せない。ぼんやり覚えているのは、眼下に広がる真っ赤な彼岸花の群れ。しかし彼岸花なんて、最後に見たのは一体いつだったか。きっとこの時期どこかに咲いてはいるのだろうが、特段気にしたこともなかった。
月島は煙草を吸うのも忘れ、夢の内容を思い出そうと記憶を探り当てるのに躍起になった。その間も彼の指先では煙草の灰がじりじりと長くなっていく。ついにそれが落ちそうになった時、月島の手からすっと煙草が抜き取られた。すっかり思考に耽っていた月島が、驚いてはっと顔を上げる。
「火傷しますよ」
いつからそこにいたのか、目の前には見知らぬ女の姿があった。月島は彼女の指に挟まれた吸いかけの煙草に視線を落とし「すみません」とほとんど無意識のうちに口にして、それからもう一度彼女を見た。微かなアルコール臭を漂わせたその女性は、酔っているのか頬が少し赤らんでいる。何が可笑しいのか、彼女はふふふと笑って、それから月島が吸っていた煙草に口をつけた。その先端で鮮やかな赤が光を増す。月島は不意に、その"見知らぬ女"に強烈な既視感を覚えた。
ふうっと紫煙を吐き出して女は言った。
「地獄で思い出してくれましたか」
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