僕らのやわらかい境界線
ファットガム事務所の経理担当として働き出して早数年。これまでもいくつかの会社で経理事務を務めてきた私が、この事務所の交際費や福利厚生費(という名のファットガムの食費)の予算に驚いたのも遠い昔のようだ。今では毎日のように提出される飲食店の領収書の額にも全く驚かなくなった。
「これとこれは貰います。が、これは経費では落ちません」
「え、うわ、ほんまや。すまん!」
ファットガムに突き返した1枚の領収書。今日の昼間に彼が1人で食べていたたこ焼きのものである。個人的な昼食代は経費で落ちないと彼も分かっているはずなのに、週に何度かはこうして他の領収書と共に紛れ込んで来る。
何かと大雑把な彼は食事の度に「領収書頼むで!」と伝えるのがお決まりになっているし、受け取ったそれらを丁寧に仕分けるような性分でもないのだ。これまでに何度も注意してきたというのに、全く改善する気配はないから私ももうすっかり諦めている。
「これ、一緒に行かれたのはカニ子さんで合ってます?」
一緒に食事をした相手のメモがない領収書、いつものこと。聞いていたスケジュールにはなかった打ち合わせの食事、いつものこと。そのお相手が潜入捜査官のカニ子さん、もとい蟹屋敷モニカさん、これもいつものこと。
「おお、せやせや。言ってなかったんによぉ分かったな!」
「そりゃそうでしょ。ファットガムが一緒に食事に行くの大体カニ子さんなんですから」
何を今更、という言葉は飲み込んで、彼に代わり領収書の裏にメモを取る。この一年で書いた"蟹"の字の多さは、きっと日本で5本の指に入るのではなかろうか。彼女のフルネームともなれば本人の次に私が来るに違いない。そう思えるくらいにはこの一年間彼女の名前を何度も綴ってきた。つまりそれだけファットガムがカニ子さんと食事に行っているというわけだ。
「……前から思っててんけど、みょうじさんカニ子のこと嫌いなん?」
ふと落とされた言葉に、"蟹屋敷モ"まで書いた手がぴたりと止まる。すぐになんでもない振りをして「なんでですか?」と彼女の名前を書き終える。そこでようやく彼を見上げれば、丸々とした目と視線がぶつかった。
「質問に質問で返すのは図星の証拠らしいで」
「……単純に気になっただけですよ。カニ子さんを嫌いになる人なんているんですか?あんなに良い人なのに」
明るいし、強いし、優しいし、美人だし。彼女がいれば途端にその場が明るくなるような、まるで太陽みたいな人。その乗りの良さはまさにThe関西人で、ファットガムとの掛け合いはまるで夫婦漫才のよう。
「カニ子の話する時トゲあるなぁ思って」
「カニ子さんの話をする時は領収書に不備がある時だからでしょ」
「……俺のせいやないか!次から気ィつけるから堪忍な!」
「そのセリフ何回目ですか」
「ごめん!」
「もう慣れましたからいいですけど」とひとつため息をついて、先程書いたばかりの彼女の名前に視線を落とす。言えるはずもない。彼女に嫉妬しているだなんて。阿吽の呼吸で繰り広げられる2人の会話も、絶妙なコンビネーションで敵と戦う姿も、凄いと思う一方でいつも酷い嫉妬心に駆られているだなんて。
カニ子さんのことは好きだから、そんな彼女に妬み嫉みを抱いてしまう自分が嫌になる。なにより惨めで仕方ない。どうせ私では彼女のようにはなれないのだから。一丁前に「ずるい」なんて思ってしまうのは酷く子供じみた我儘に過ぎない。
「なーんや、カニ子に嫉妬でもしたんかと思ったわ」
「……は?」
「ほら、ファットさん人気者やし?
――――ってウソウソ、」
「〜っ、ちゃうわ、アホ!」
ファットガムの言葉に被せるように叫んでしまったその言葉。はっとして、みるみるうちに羞恥が押し寄せる。
「おお、ムキになると出る関西弁……て、ほんまに?」
「ち、ちがいます」
赤くなっているであろう顔を隠すように、慌てて机に突っ伏した。項垂れたと言ってもいい。ああもう、完全にしくじった。
「えー、今完全にそういう流れやったやん」
「うるさいですよ、仕事して下さい。暇ならパトロールしてきたらどうですか」
「ちょお待ってや、今大事なとこやで」
なぁなぁ、と頭上から覗き込まれているのが分かって、いよいよ顔を上げられなくなる。なんなんだこの人は、こんな意地悪な人だったっけ。
「そっかー、みょうじさんが嫉妬なぁ。打合せ減らすんは厳しいけど、できるだけ2人にならんようにするわ」
「何の話ですか、勝手にしてください」
ファットガムの声色からして、彼が今ニヤついているであろうことが手に取るように分かる。人をいじる時のあの悪い笑顔だ。「なぁ、期待してもええ?」と降ってきた声には「知りません」と返すのが精一杯だった。
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