髪化粧は女のたしなみ
白シャツに黒のズボン、兵舎でそんな格好をしている人間など一人しかいないから、その色味が視界に入れば顔を見なくともすぐにそれが誰なのかは分かる。しかしその頭の後ろでいつも揺れていた尻尾のような髪の束がなくなった途端、一瞬人違いかと錯覚してしまう。まァつまり、それだけ髪というのは人の印象を変えるものらしい。
「なんだ、さっきからジロジロと」
「……敬語」
「何か御用があれば仰って下さい。手は空いていますので」
「隊員に示しがつかないから」と、敬語を使うよう月島が何度も注意しているというのに気を抜くとこれである。注意さえすれば流暢に敬語で喋るから、使えないわけではないらしい。本心としては全く使う気がないのだろう。それが端々に滲み出ているから、上下関係に酷く敏感な隊員達の反感を買っていると彼女は気付いているのだろうか。否、きっと気にすらしていないのだろう。
月島は軽いため息をついたあと、目の前の問題児の耳元で風を孕んでさらさら揺れる髪をじっと見つめた。
「……用はない。ただ、見慣れんなと」
「見慣れん……? あぁ、」
「コレですか」と彼女は薄く髪の束をつまみ上げた。そのままつうっと指を毛先まで滑らせると、髪がはらはらと元の位置へ戻っていく。少し前までのひっつめ髪では分からなかったが、どうやら細い毛質らしい。なんて、月島の知っている女の毛質などひとつしかないから、あくまでそれと比べての話でしかないけれど。
「短い方が楽でいいですね。洗ってもすぐ乾く」
「坊主ならもっと早いぞ」
「坊主……坊主か」
「冗談だ、辞めておけ」
彼女の視線が少し上――――月島の頭頂部へと移って、「悪くはない」と言いかねないその表情に、月島は咄嗟に二の句を継いだ。女らしさの欠片もない奴であることは重々承知しているが、流石にその一線を越えられると困る。きっとこちらが戸惑ってしまうし、彼女と話す度に頭に目がいって会話に集中できなくなるだろうことは想像に容易い。――――そして多分、あの人もうるさいだろうから。
「鯉登少尉殿が何と言われるか」
「あぁ……うるさそうですね」
「……おい、口を慎め」
なんて、つい今しがた自分も思ったことだから、月島もあまり強くは言えなかった。ただ、「はぁい」と視線を上に逸らし気の抜けた返事をする態度までは看過できず、むっと彼女を睨む。とはいえそこから怒る気になれないのは、先日あんな事があったばかりだからだろうか。
「仕事に戻ります」踵を返した彼女を追うように揺れた髪が、窓から差し込む陽の光を反射してつやめいた。
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話は数日前に遡る。鯉登と共に彼女を探していた月島は、信じられない光景を目の当たりにする羽目になった。というのも、彼女が
聞けば「うるさいから黙らせた」とのこと。元々彼女は得体の知れぬ女として師団の中で疎まれていたから、きっと色々言われたのだろう。本人の希望と鶴見の意向で彼女を雇うことになったのは、やはり隊員達の反感を買ったのである。何せ男所帯のここでは女の存在など異質でしかないし、その上彼女は愛想の欠片もないときた。
まるでそうなるのが当然かのように隊員達との間に軋轢が生まれたわけだが、どうやら彼女の方が一枚上手だったらしい。どれだけ冷遇されようと、どこ吹く風で淡々と仕事をこなしたのだ――――が、彼女にも堪忍袋というものはあったようだ。しかしまさか、こんな形で「黙らせる」など誰が想像できただろうか。女の命とまで言われる髪が実に粗末な形で床に落ちているのを見下ろして、月島は頭を抱えずにはいられなかった。
「貴様は本当に……はァ、もう少し考えて動け」
「考えた結果ですが」
「こんな珍妙な髪でたわけたことを抜かすな」
彼女が髪を切り落としたそこで、そのまま鯉登が髪を整えることになった。「すみません、片付けます」と掃除用具を取りに行こうとした彼女を「その髪でうろちょろするな」と鯉登が呼び止めたのである。
隊員同士バリカンで互いの髪を刈り上げることは頻繁にあるが、女の髪を切った経験のある者はこの兵舎には殆どいないだろう。しかし中々どうして鯉登は器用に髪を整えていった。
「どうだ、長さは揃っているか?」
「はい、綺麗かと」
「……いや、こっちがまだ少し長いな」
凝り性なのか、身なりの事には人一倍厳しいのか――――おそらくその両方だろうが、鯉登はああでもないこうでもないと結構な時間を掛けて髪を切っていった。途中から彼女の方がが「もう十分です」と音を上げた程である。
「……うむ、こんなものか」
そう言ってようやく完成した髪型は、女にしては酷く短いものだった。当然鯉登は女の散髪には素人であるから、整えていく内に「アッ切りすぎた」とどんどんと短くなっていったのである。まァ、それでも最初のざんばら髪(それも一部だけ)に比べれば随分ましな出来だった。
「……軽い」
「すまん、切りすぎた」
彼女は短くなった自身の髪に手櫛を通し、何度もその感触を確かめた。それを鯉登がどこか申し訳なさそうな顔で見つめている。彼としては思ったような出来ではなかったのだろう。しかし悪いのは考えなしに
「いえ、楽でいいです。ありがとうございます」
「短すぎではないか……?」
「? どうせ髪などすぐ伸びるでしょう」
「いやしかしだな、」
「伸びたらまたお願いしても?」
そう言って髪を掻き上げた彼女に鯉登は目を丸くして、少し嬉しそうに口元を緩ませた。彼女が気を遣って言っているわけではないとようやく分かったのだろう。――――とは言え。
「……いや、その時は床屋に行きなさい」
「あぁ、それもそうか」
「む、別に私でもいいではないか」
「貴方も暇じゃないんですから。何もそこまで面倒を見なくとも」
鯉登は不満げな顔をしつつも「まぁ、床屋に任せた方がもっと綺麗に切ってくれるだろうしな」と零した。もしかすると人の髪を切るのが案外楽しかったのかもしれない、と月島は思った。
「さぁ、まだ仕事が残っていますから。戻りますよ。おい、ここは片付けておけよ」
「はい。……鯉登少尉殿、助かりました」
その言葉には応えることなく、鯉登はじっと彼女を見つめた。それからおもむろに彼女の頭に手を伸ばすと、薄く髪の束を取った。それを撫でるようにすうっと毛先まで指を滑らせると、ようやくそこで口を開く。
「髪油を買ってやるからちゃんと手入れをしろ。ぎしぎしではないか」
「…………いえ、それは遠慮しておきます」
「どうせ貴様は自分では買わんだろう。髪化粧は女のたしなみだ、覚えておけ」
鯉登は彼女の返事を待つことなく、踵を返し「行くぞ月島ァ」とそのまま部屋を出ていった。月島も慌ててその背中を追いかけて、部屋を出る直前で背中越しにそっと彼女を振り返る。
床にできた髪の小山を見下ろして、静かに自身の髪に手櫛を通す彼女の姿がそこにはあった。