純情の星


 
 心に焼き付いた記憶がある。
 
 囲碁に出会う前、私はたくさんの習い事に通っていた。母は一人娘の私に熱心に時間とお金を費やしたけど、何をやっても落ちこぼれの私は、その期待に応えられなかった。
 
 小学一年の時だ。ピアノの発表会のリハーサルで訪れた文化会館で、棋士をゲストにした囲碁のイベントが開催されていた。リハーサルの休憩時間、祖父と囲碁を打ったことのある私はそこに忍び込んで、自由に打つ参加者の盤面をのぞいてた。そして手の空いた年配の男性が、参加者の孫や子供だと勘違いしたのか一緒に打ってくれた時、どの習い事でも覚えることのなかった高揚感が、石を置くたびに漣となって心に広がっていったのを思い出す。
 
 血相を変えた母が私を見つけたのは二十手目を打ったあたりだ。「何してるの」「あんたがそんなだから」と叱る母に、まだ打っていたいという、初めて私自身が望んだことを声にはできなかった。でも、リハーサル場へと引きずり戻されていく私を、走って追いかけてきた人がいたのだ。
「さっきおじさんと打っていたのはキミって本当かい?」
 屈んだ若い男は、とても綺麗な顔立ちだった。眼鏡の奥の瞳は真剣で、泣くのを堪えていた私はこの人にも怒られるのかと怯えて俯く。「囲碁はどのくらいやってるの?」という問いに不思議に思いながらも、二、三度打ったことがあるだけと声を震わせて答えると、息を呑む音が聞こえた。
 驚いたな、と零して目を見開く彼を、急かす母を忘れて見つめた。この時、私は既に気づいたのかもしれない。この人が自分をすくい上げてくれるんだと。
 
「これからも碁を打ってみないかい? キミならすごい打ち手になれるよ」
 それは、私が生まれて初めてもらった眩しい言葉だった。この言葉をよすがに、私は長い道を歩いてきた。

 
 *

 
 大手百貨店主催の対局イベントは、例年より参加抽選の倍率が跳ね上がったらしい。北斗杯の影響が大きいのだろう。

 控え室には既に五人のプロが揃っている。その中の一人が、親しみを持った微笑みを浮かべて私を呼んだ。
「苗字さん、おはようございます」
「アキラくんおはよう」
 一緒にイベントを進行していく面々に一人ずつ挨拶して、アキラくんの隣に座った。囲碁界で躍進を続ける若き俊英。アキラくん目当てで来る参加者も多いのだろう。
「今日は進藤くん一緒じゃないんだね」
「その言い方、いつもボクたちが一緒みたいじゃないか」
「実際そうじゃない」
 不満そうに口をすぼめるアキラくんがかわいい。物腰柔らかく大人びた雰囲気を持って成長した美男子は、たまに歳相応の表情を見せる。
 
 最近のお互いの手合いの話が一区切りしたところで、テーブルの上の缶箱に詰まったクッキーを一袋手に取る。やっぱり百貨店主催だといいお菓子を置いてるなと思いながら飲み込んだ後、アキラくんが珍しく、逡巡するかのようにゆっくりと切り出した。
「来週の火曜日って空いていたりしないかな?」
 アキラくんの問いに、少し考えてから頷く。女子のタイトル戦の本戦が始まったけど、土曜に手合いはなかったはずだ。
「よかったら父の碁会所でボクと打ってほしいんだ」
「紫水に? 行くよ! 私もアキラくんと打ちたい」
 アキラくんの表情がほどける。私を誘うことになんか気を使わなくていいのに。私こそ、本戦を勝ち抜くための練習相手としてアキラくんなら願ってもない練習相手だ。
 
 トーナメント表を思い出してまた緊張感を新たにしたその時、自分がこの部屋に入ってきてからずっと、わずかに神経を向けていた扉が開いた。振り返った私は、白いスーツを着た美しい男を目にしてぱっと胸が華やぐ。
「おはようございます」
 緒方さん登場にプロたちの空気が少し硬くなる。今日のイベントの大本命。タイトルホルダーを呼ぶなんて、棋院も主催も相当力を入れている。それぞれと挨拶を交わした緒方さんが私たちのところへ来る。一服してきたのだろう、微かな煙草の匂いにもときめいてしまう。
「今日はよろしくお願いします」
「そうしてるとキミたち姉弟みたいだな」
 顎に手を当ててしみじみ言う緒方さんに、アキラくんは眉を下げて苦笑いした。彼の方がずっとしっかりしているから、私が姉では不服かもしれない。
「一昨日の名前の棋譜、見せてもらったよ。君らしい綺麗な石運びだった」

 自分に向けられた緒方さんの言葉が、胸を震わせる。運営の人に呼ばれた緒方さんが部屋を出てからも、私はその言葉を抱きしめるように何度も頭の中で反芻した。
 ふと我に返って、隣にアキラくんがいることを思い出す。静かに今日のパンフレットを捲っている彼は、のぼせた姉に呆れているはずだ。

「褒められちゃった」
「よかったね」
 アキラくんがにこりと笑う。ほら、私の方が歳下のようだ。この感情が先輩棋士への憧憬だけではないことを、聡い弟は気づいている。

 
 イベントは公開対局とプロによる三面打ちの指導碁がメインだった。緒方さんと九段のプロの対局を、アキラくんとともに解説していく。アキラくんはこれが初めての大盤解説らしい。至らなかったら申し訳ないなんて開始前に言ってきたくせに、丁寧に説明しながらもたまに笑いを誘うアキラくんは会場を上手に盛り上げた。そして私は聞き役として口を挟む時、緒方さんの一手について饒舌な早口で話してしまわないよう必死だった。いつも週刊囲碁で緒方さんの棋譜を見つめては、どうしてこんな一手を打てるのだろうとため息を繰り返しているのだから。
 
 閉会してから自分のところへ来てくれたファンたちと話したりサインを書いて、運営の人たちに挨拶をして控え室へ戻ると、自然とため息がこぼれた。大勢が参加するイベントはどうしても気疲れする。でも、囲碁好きの人たちが集まった時の雰囲気も指導碁も、初心に戻れるから好きだ。

 アキラくんと一緒に帰りたかったのに、ファンからの呼び止めに謝りながら彼はすぐに帰ってしまった。この後に別のところで会食があるらしい。本当に最近忙しそうだな。私も大勝負が始まっている。今年こそ、挑戦者席までのトーナメントを最後まで駆け上がる。早く帰って勉強しよう。早足で控え室を出るところで、さっきまだファンに捕まっていた緒方さんが戻ってきた。
「今日はありがとうございました。とても勉強になりました」
「解説、アキラくんといいコンビだったな」
「えへへ、そうですかね」
「家、〇〇区だったよな。送っていくよ」
「え、いいんですか!?」
 不意の衝撃で声が裏返ってしまった。嬉しさよりも、どうすればいいのか分からない感情が私をあたふたさせて身体の奥を熱くする。
「アキラくんも送っていくつもりだったんだ。行くぞ」
 立体駐車場へと歩く緒方さんに小走りでついていった。こうして二人きりになるなんて初めてで、こんなことなら化粧直しをすればよかったと後悔する。

 エレベーターに乗ると、スーツの片ポケットに手を入れた緒方さんの隣で心拍数が上がっていく。
「何か食っていくか。門限は何時なんだ?」
「ないですよ、そんな歳じゃないんで」
 揶揄われているのが分かってちょっとムッとする。年齢に甘えることが許されないプロの世界をずっと渡り歩いてきたのに、こうやって緒方さんに子供扱いされると悔しくなる。緒方さんがプライベートでは同僚との人付き合いがあまりないと知っているから、私を車に乗せてくれるということに意味があると思いたいのに。
 
 何度か見たことのある赤いスポーツカーは、乗り込むとすごく足元が低く感じた。煙草と香水の匂い。低いエンジン音。慣れた手つきでシフトレバーを上げる緒方さん。日の沈んだ街を走る緒方さんの横顔を見ながら、この男の人の囲碁以外、全部私の知らない世界だと思い知る。
「名前は今年二十歳だったよな」
「ええ」
 同じ歳くらいの女の子たちが、煌びやかな歓楽街を並んで歩いている。成人式は行かない。囲碁ばかり打っていた私に、学生時代の同級生と再会しても共有できる思い出はないから。
「でも感慨深いな。キミと知り合った時はまだ碁を知らない小さな子供だったのに、今はプロの世界で鎬を削っているとは」
「アキラくんもそうじゃないですか」
「アキラくんはずっと近くで見てきたから。名前には会う度に驚かされたよ」
 ピアノのリハーサル場へ連れていかれる私に、緒方さんが声をかけてくれたあの日が運命を大きく変えた。
 
 緒方さんと別れた後、渡された名刺をろくに見もしない母に私は諦めなかった。自分が初めて認めてもらえたものを極めたい。その道を進むことがもう一度オガタさんに会える方法だと信じて、囲碁教室へ入り十九路の世界に没頭していった。
 自分が強くなるほど、新聞や雑誌で目にする緒方さんの棋譜でどれほどすごい人なのかを実感できて、そんな人に素質を見出されたことが誇らしかった。院生になって再会できた時、プロ試験に合格した時に喜んでくれた緒方さんへの感情だけが、碁ばかり打ってきた私の青春だ。
 
「昨日飲みに行った知り合いとキミの話になってね。俺が見つけたんだってつい自慢してしまったよ」
「嬉しいです。緒方さんに自慢してもらえるなんて」
 高みにのぼり続ければ、緒方さんが私を見ていてくれる。私たちは囲碁で通じ合っているのだから。
「私、もっと頑張ります。今年の女流タイトルは絶対に挑戦者に上がります」
「今のキミならいけるさ」
「タイトル獲れたら、飲みに連れて行ってくれませんか?」
「もちろん。成人祝いも兼ねて」
 車がアクセルとともに唸る音をあげて、街を走り抜けていく。爽快さを覚えながら今日の公開対局について話すと、緒方さんが視界の先の盤面を見つめるのが分かった。
 
 *
 
 待ち合わせより五分早く駅に着くと、アキラくんが既に待っていてくれた。自分で向かえると言ったのに、以前、駅でファンに捕まってなかなか話が終わらず、遅いと思ったアキラくんが迎えに来たことがあって現地集合を却下されてしまった。本当にどっちが歳上か分からない。
 
 久しぶりに来た紫水はお客さんたちが温かく迎えてくれた。受付のきれいなお姉さんがいつも私を見て凍りついた顔をするのは、何か誤解されている気がするけれど。
 最後にアキラくんと対局したのは今年の若獅子戦。今日こそ勝つつもりで挑んだのに、結局後半に逆転されて一目半差で負けた。検討で私の手を褒めてくれるアキラくんを、席を囲むお客さんたちが微笑ましいと言わんばかりの顔で笑っている。
「若先生、苗字先生には優しいんだから」
「進藤くんの時と大違いだよな」
「いや、ボクは純粋に、彼女の仕掛けの鋭さに関心しただけで」
 茶化されて頬を赤くするアキラくんが可愛い。ここのお客さんたちはみんなアキラくんのファンで、でもどこか自分の孫のように活躍を見守っているのかもしれない。
「そんなに進藤くんには厳しいの?」
「もう毎回すごいんだから二人の喧嘩」
 やめてくださいと言って恥ずかしがるアキラくんをからかいながらも、進藤くんが少し羨ましい。アキラくんがそこまで気を許しているのは、進藤くんのことを対等なライバルとして認めているからだ。

 院生時代、仲のいい子はそれなりにいたけど、小さな枠を賭けて白星を奪い合う人たちに私は一線を引いていた。誰にも負けたくなかった。お互いを高め合っていく関係というものを本心では理解していなかった私は、環境に恵まれながらも孤独だったのかもしれない。
 
 紫水を出たのは二時過ぎだった。この前まで照りつけてきた日差しが柔らかい。風も涼しさを帯びていて秋の始まりを感じる。少し遅いお昼を食べようと話して、アキラくんが通りにある喫茶店に連れて行ってくれた。
 
 扉のカウベルを鳴らして入った店内は、クラシカルな内装の中でジャズが流れていて、街中から切り離された静けさが流れていた。マスターらしき初老の男性に案内されて一番奥の席に座ってから、アキラくんに尋ねる。
「来たことあるの?」
「ずいぶん前にね」
 コーヒーの香りに満ちた店内を見渡す。お客さんはカウンターで新聞を読む老紳士だけだった。テーブルの横には懐かしい、丸い形をした星座のルーレット式のおみくじがある。アキラくんがこんな趣味のいいお店を知っていることに感心してしまう。
 
「こういうお店すごく好き」
「そんな気がしたんだ」
「そんな気って?」
「苗字さん、前に喫茶店のナポリタンが好きって言ってたから」
「そうなの、こういうところで出る昔ながらの。よく覚えてたね」
 メニューを開くと一番最初のページにナポリタンが載っていたから迷わず注文した。
 
「じゃあ今もご両親はいないんだ」
「うん。もうずっと一人暮らしみたいな感じ」
 この一年で、アキラくんはまたずいぶん大人びた気がする。トップ棋士との闘いの日々がそうさせているのだと思ったけど、敬愛するお父さんからの親離れも一つかもしれない。歳下の彼の方が自立していることが何か後ろめたくなる。
「私も一人暮らししようかな」
 この前は緒方さんに門限なんてないと言ったけど、帰りが遅くなっても何も言われないわけじゃない。いつまでも親に甘えたり心配させながら実家で暮らしているうちは、成人しても大人になり切れない気がする。
「いいんじゃない? 通勤時間減らしたいって言ってたもんね」
「そしたら遊びに来て! まあ多分遊べるもの碁盤しかないけど」
「ボクの部屋だってそうだよ」
 
 笑っていたらあっという間に料理が来た。ケチャップの効いたナポリタンは本当に美味しくて感動しながら食べた。私たちは二人とも対局の日にお昼を食べないから、みんなが集まる休憩室にはあまりいない。静かな場所を求めて自動販売機の隣のベンチに座っているとアキラくんが来て、そこで話しているうちに私たちは仲良くなった。
 
 最近ずっと根を詰めていたから、こうしてゆったりとした空間で過ごすひとときがすごく楽しい。
「碁をやってなかったら何になりたかったとか、考えたことある?」
 制服を着た学生たちが窓の外を歩いていくのを眺めながら、向かいでサンドイッチを上品に食べるアキラくんに不毛なことを聞いた。
「考えたことがないわけじゃないけど、ボクは物心ついた時には人生の中心に囲碁があったからなあ。そうだな……学者とか、すごく楽しそうだなとは思うけど」
「うん。私もアキラくんは研究者とかも合うんだろうなと思った」
 みなアキラくんを天才だと囃す。でも、才能に驕らず凄絶な努力をした到達点にいるのが塔矢アキラだと、アキラくんをよく知る人ならわかる。きっと根が勉強家なのだろう。
「苗字さんは?」
「……漫画家」
「分かるかもしれない」
「何で?」
「苗字さんの棋風って、独創的な部分が見え隠れするし」
「それ褒めてないでしょ」
 
 あの場で緒方さんと出会わず、囲碁が祖父との遊びのまま終わっていた人生。そこには並列して普通の女の子たちが送る青春があったのだと、ほんの少し思いを馳せることだってある。
 
 喫茶店を出てから、アキラくんに案内されながら本屋へ向かっていた。
「これ、前に芦原さんが面白いって言ってたやつだ」
 道中、通りがかった古い名画座の前で、アキラくんがポスターを見て呟いた。89年に公開されたイタリア映画。私も名前だけは知っている。
「観てみる?」
「本屋行くんでしょ?」
「終わってからでいいよ。次の上映あと五分だって」
 躊躇うアキラくんの手を引いてガラス扉の中へと入った。のんびりとした休日で開放的になっていたのかもしれない。考えたら映画館なんて小さな時に行ったきりだから、シアターに座って館内が真っ暗になると、眠ってしまわないか心配になった。
 
 シチリアの小さな村で映画技師と出会った少年のノスタルジックな物語。眠るどころか中盤で涙ぐむ私を、アキラくんは気づいていたと思う。そのシーンがアキラくんの琴線にも触れたのだろうと、私も横目で見た彼の瞳で気づいたから。アキラくんとは普段も同じところで笑ったり怒ったりできることが多いから、感性が似ているのかもしれない。
 緒方さんはこの映画を観て感動するのかな。私はあの人が碁以外に心を動かすところが想像できなかった。子供の頃からずっと一緒にいるアキラくんならそういうものを知っているのかもしれない。
 
 映画の感想を語りながら、私たちは夕暮れに染まった街を歩いて本屋へ着いた。囲碁のコーナーへ向かい、目当ての詰碁集があったことに喜んで、開いてアキラくんに問かせてみる。
「はい、黒先コウ」
「うーん、ここ。コスんでから上に切るんでしょ?」
「正解。もうちょっと悩んでよ」
 書架に並ぶ囲碁本をアキラくんと眺める。彼もこの中に何百回と捲った本がいくつもあるのだろう。もし自分が執筆することになったらどういう囲碁本を出したいかという話題で盛り上がった。まるでガイドブックの前で、海外ならどこへ旅行したいか語るみたいに。

 会計を済ませてお店を出ようとした時、扉横に設置されたカプセルトイを見てアキラくんが指を差した。
「苗字さんが好きなキャラクターでしょ?」
「ほんとだ!」
 初めて見るキーホルダーのカプセルトイだった。キャラクターのラインナップの中に、私の好きな、赤ずきんを被ったうさぎ、マイメロディがいる。
「私その話アキラくんにしたかな?」
「前に読んだインタビューに書いてた」
「そんなところ読まなくていいよ。回してもいい?」
 機械の前に屈んで小銭を入れる。硬いレバーを回すとひり出す感覚とともにカプセルが音を立てて落ちた。中を開けていたのは、帽子を被ったペンギンのキャラクターだ。
「タキシードサムだ! やっぱサムも可愛いな」
「ボクも回していい?」
 隣に屈んだアキラくんがお金を入れてレバーを回す。アキラくんがカプセルトイを回すなんてすごくレアなのではと思い、真面目な横顔に嬉しくなった。落ちてきたカプセルを開けたアキラくんが、私に中を見せて笑う。
「出たよ」
「すごい!」
 片耳を傾けておすましするマイメロディ。アキラくんに「あげる」と渡されて、まるで恋人とのデートでありそうなシチュエーションに、不意打ちをもらってどきどきしてしまう。
「いいの?」
「苗字さんのために回したんだもの」
「嬉しい。そしたらサムをアキラくんにあげる」
「ありがとう。家の鍵につけようかな」
 
 外に出るともう日が沈んで、光が灯った街を歩いて駅に向かった。こんな時間まで息子を連れ回して遊んでいたなんて、アキラくんの両親に知られたら怒られてしまうかな。
「今日、とても楽しかった」
 絹糸のような髪を夜風に靡かせてアキラくんが言った。その一言がしんみり聞こえて、今、私はアキラくんの胸の中と同じ感情を共有していることに気づく。
「私も。こんなふうに友達と遊ぶの、初めてだったから」
 学生時代に流行ったドラマも、みんなが行きつけにしていたクレープ屋も私は知らない。囲碁への情熱に全てを焚べてきた私は、それが悲しいことなんて決して思わない。でも、今日はそんな二人が普通の十代のように遊んで、少し囲碁のことを忘れたりもした。マイメロディとタキシードサムは共犯の証。明日から私たちはまた、碁盤の上に学び、戦う日々に戻る。
 
「これから苗字さんのこと、名前さんって、呼んでもいい?」
「もちろん」
 今の私たちにはその方が自然な気がした。緒方さんに呼び捨てで呼ばれる時の胸の高鳴りとは違う、親愛からの喜びが穏やかに胸を満たす。
「名前さん、」
 でも、アキラくんに思い詰めたように呼ばれて、真剣な話が始まるのかと思い、私は雑踏の音で聞き逃さないよう彼の言葉の続きを待った。遊んだ帰りって、少しセンチメンタルになるのかもしれない。
「どうしたの」
「ごめん、何でもないんだ」
 アキラくんが寂しそうに、ことさら美しく微笑む。だから私は一瞬、彼が呑み込んだ言葉に決してありえないことを考えてしまった。でも、すぐに「そういえば進藤がさ、」といつもの調子で切り出したから、アキラくんの話に笑いながら恥ずかしくなっていく。
 
 アキラくんはどんな子を好きになるのだろう。碁ばかりなのはお互い様だけど、優しくてまっすぐな彼の恋人になれる子は、とても幸せだと思う。

 *

 挑戦者席のかかった最終戦を迎えたのは、白い息が乾いた空へ溶けていく、冬の朝だった。
 二ヶ月間、他のタイトル本戦を勝ち進めながらも万全の準備をしてきた。今日の対局相手にも勢いのついた今ならいけるという自信がある。でも、棋院が近づいてく内蔵ごとかき乱されるような、上手く呼吸のできない気持ち悪さが湧き上がってきて、自分がずいぶん緊張していることに気づいた。
 
 だから、いつもとは違うことをしようと思ってしまったのかもしれない。あの約束を心に留めてあったから。少なくとも今まで、いつも緒方さんがいる喫煙スペースに自分から足を踏み入れようとしたことはなかった。
 
「いやー、ほんとびっくりしましたよ」
 緒方さんの後ろ姿が見えたかと思ったら、その奥から芦原さんの声が聞こえてきた。芦原さんは煙草を吸わなかったと思うから、緒方さんと話すためにここへ来たのだろう。
「まさかあそこで緒方さんに会うなんて」
「お前こそバーなんて全然行かないって言ってただろ」
「指導碁からの流れで。社会勉強ですよ。にしても、彼女さん綺麗ですね」

 あ、まずいと気づいたのに、足は縫いとめられたようにそこから動かなかった。二人の会話のトーンは、私やアキラくんの前で話す時とは明らかに違う、大人の男性だけで話す時の密やかな親しみがある。
 流れてくる煙を吸いながら、身体中の血が引いていくのを感じた。でも、私はまだ、緒方さんが芦原さんの言葉を否定するのを期待している。
「囲碁関係の人ではないですよね?」
「まさか。俺といても碁に興味も持とうとしない女だよ」
 芦原さんの方へ向いた緒方さんの横顔が見えた。口調とは裏腹な柔らかい笑みが、胸を抉る。
 
 この人は、大切なものを囲碁の外に置くんだ。
 自分が信じていた前提がひっくり返されたことに唖然として、私はその場に立ち尽くしていた。後ろから名を呼ばれるまで。
 
「名前さん?」
 振り返ったら怪訝な顔をしたアキラくんがいた。
「天野さん呼んでたけど、どうしたの?」
「あれ、アキラいるの?」
 芦原さんの声がして、こっちへ振り向いた緒方さんと目が合う。一瞬、「しまった」とばかりに緒方さんの表情が強ばって、その途端、今までの全てが恥ずかしくなった私は、逃げるようにその場から走り去ってしまった。
 


 
 全ての対局が終わって人のいなくなったフロアは、しんと静まり返って、冷気が染み通っていた。隣にある自動販売機の鈍い稼働音を聞きながら、今日の一局を振り返っている。
 
 まだ、実力が及ばなかった。検討を広げればいくつも反省点があるけど、それに尽きる話。決して朝のことは影響していない。失恋ぐらいで碁が乱れたりなんかしない。そう分かっていても、ここから立ち上がる気力が湧かなかった。次の本戦に懸けようという意気が、何も知らずに舞い上がっていたという虚しさに勝てないでいる。
 
 エレベーターのドアが開いた音がして顔を向ける。出てきた人が一直線にこっちへと歩いてきた。
「やっぱりここにいた」
 アキラくんだ。閉館まで誰も来ないと思っていたのに、自分が落ち着く場所を唯一知っている彼に見つかってしまった。アキラくんはさっさと帰るように私を呼びに来たのだと思ったけど、何も言わずに隣に座る。
 
 ここで居合わせるようになった最初の頃、スランプで行き詰まっていた私は余裕がなくて、一人になりたかったのを覚えている。期待の星として入段して連勝を重ねるアキラくんを意識しながらも、仲良くなろうなんて思えなかった。でも、お互いの長いため息が重なって二人とも笑いを零した後、私はアキラくんに少し気を許していた。
 
「ダメだった。やっぱ挑戦者席までの壁は厚いなあ」
「さっき下で棋譜見せてもらったよ。いい碁だっただけに惜しかったね」
「……朝、ごめんね。芦原さんから何か聞いた?」
「聞いたと言えば、聞いたかな」
 アキラくんが余計なことを言わないからこそ、私の中で何があったのか彼が理解していることを悟って、また恥ずかしさでいたたまれなくなる。
 
 別に、恋人になれると思っていたわけではない。緒方さんにそういう意味では相手にされていないことを、子供ながらに薄々は気づいていた。
 
 遠くで電車が、線路を踏む規則正しい音を立てて走っている。私が大勝負に負けても、長年の恋に破れても、何も変わりなく一日は過ぎていく。
 
「初めて、ボクたちが対局した後、」
 窓の外を見つめていたアキラくんが言った。ズキンと、また胸の痛みを思い出して、黙って頷く。ここで話すようになってから「覚えてますか?」と、聞いてきたのはアキラくんだった。私が十歳の時に、塔矢先生がまだ小さかったアキラくんを連れて、うちの師匠の元へ訪ねた日のこと。もちろん覚えていたけど、私からは言えなかった。四つも歳上のくせにアキラくんに負けた私を、アキラくんが覚えているわけがないと思ったから。
 
「父は、ずっとキミのことを気にしてたよ」
「みっともなく泣いてたからでしょ」
「ううん、あれで名前さんの心が折れてしまったら勿体ないと思ってたんだ。それくらい、キミに素質を見てた」
 当時、今年は院生試験に臨もうとしていた私は、緒方さんに見出された自分の才能を信じていた。でも、塔矢アキラという本物の才能を目の当たりにして、自分が大したことのない子供だと気付かされてしまったようで自尊心が粉々に砕かれたのを覚えている。
 
 自分を信じられなくなって、自分に限界を覚えて、足を止めてしまった子はいっぱいいた。私はしがみついた。どこへ行っても情熱を持てなかった私は、囲碁だけを貪欲に愛していたから。緒方さんの言葉を真実にできるのは、私だけだから。

「ボクも、あんなに泣かせてしまったキミを気にしてた。 だから、名前さんがプロになったと知った時嬉しかったんだ。自分の力を信じられなくなった時にも、新聞で名前さんの活躍を見て、ボクも頑張らなきゃって励まされていたんだ」
 
 空っぽになっていた胸に、熱い風が吹き込んでくる。苦い思い出。打ちのめされたあの一戦が、ここで再会する前からずっと私たちを繋いでいた。
 私を囲碁へ導いてくれたのは緒方さんとの出会いだけど、私を強くしたのは、アキラくんとの出会いだったんだ。
 
「緒方さんのこと、いつかは超えなきゃいけない相手だと思ってる。でも感謝しているんだ」
 凛とした声が心を震わせる。気高い彼のまっすぐな瞳は、勝負の時とは違う、やさしい温度をしている。
「だって、キミを囲碁の世界に連れてきてくれたんだから」
 
 アキラくんに負けてから、私は誰に負けてもどんなに悔しくても、歯を食いしばって絶対に泣かなかった。この世界で勝ち上がれる棋士になるために、弱い自分を認めなかった。
 両頬を涙が伝い落ちていく。アキラくんの前で声を上げて泣いたあの日から十年経った、悔しくて悲しい夜。アキラくんに泣くことを許してもらった気がして、私は静かに泣いた。とめどなく溢れ出てくる涙の熱さに、まだまだ自分は強くなれると信じて、次こそはと決意して。負けることは人を強くする。でも、失恋もまた、人を少し大人にするのかもしれない。
 アキラくんは何も言わずに、私がひとしきり泣くのを待っていてくれた。歳上のくせにとは思わない。もう、私たちは姉弟ではなくなっていたから。
 
「行こうか」
 泣き腫らした目で微笑むと、アキラくんが私を見つめる。今度は何だか、勝負に挑む時の目に似た真剣さをたたえている。
「これ以上言うのは、今はずるい気がするからやめる」
「え?」
「でも、もうボクは遠慮しないから」
 アキラくんの言葉の意味することを長考の末に理解した私は、二人で遊んだ日の帰りを思い出して頬に熱が集まっていく。
「行こう」
 差し出された手をおそるおそる取って、私も立ち上がる。どうして、映画館で私から手を取った時に気付かなかったのだろう。力強い碁を打つ、白くて美しい手。私よりずっと小さかった男の子の手は、今はしっかりと私の手を握る、大きな男の人の手になっている。
 
 外に出ると、凍てつく風が吹き抜けて、繋いだままの手がことさら温かく感じた。さえざえとした真っ黒な夜空に、遠い過去から未来へと、星たちが眩い光を届けている。





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