真夏の悪夢


【一年・八月】



期末テストを終えて夏休みに突入した。

夏休みも部活部活の毎日で、体育館は気が狂いそうなほどに暑かった。気温の高さに加えて、部員たちが思いっきり動くのだから、その熱気がプラスされてしまう。
体育館の窓や扉は全開で、風通しを良くしておく。氷嚢や保冷剤なども用意しておき、休憩時間に部員が少しでも暑さから救われるように。
部員たちはこまめに水分補給する。そのため、ドリンクの消費量は普段の比ではなかった。

午後も練習がある。スクイズボトルに入ったドリンクは午前中のうちに飲み干されてしまうから、昼休憩の間に潔子ちゃんとドリンクを作り直す。



「あ、」
「どうしたの?」
「粉が無くなりそう…」



潔子ちゃんが今ボトルに入れているドリンクの粉は、中身がほとんどないようだった。



「ほんとだ…足りる?」
「とりあえずこの分は足りるけど、もし追加でドリンクが必要になったら足りない」
「そっか、じゃあ私、今から坂ノ下商店に買いに行ってくるよ」



どちらにしろ、今後の練習のことも考えるとドリンクの粉は買っておかなければならない。



「ごめん支緒、お願いできる?」
「潔子ちゃんの頼みなら喜んで!」



おどけてみせると、潔子ちゃんは笑った。可愛い。
もうすぐ昼の休憩も終わるが、潔子ちゃんがいるので私が買い出しに行っても問題はないだろう。財布を持って学校を出た。

坂道を降りて坂ノ下商店の扉を開けると、涼しい空気がお出迎えしてくれた。



「いらっしゃい」
「こんにちは」



金髪のお兄さんはいつも見る通り、タバコを吸いながら漫画雑誌を読んでいる。一見すると怖そうな人だが、なんだかんだいい人なんだろうというのはここ何か月かの内にわかった。
お店の棚からドリンクの粉を探したが、なかなか見つからない。この辺に置いてなかったっけ…。



「すみません、スポーツドリンクの粉ってありますか?」
「ん?そっちのほうに置いてないか?」



お兄さんはタバコを灰皿に押し付けるとカウンターを出てこちらへやってくる。棚を見て、一か所の空欄を見たお兄さんは顔をしかめた。



「あー…悪いな、さっき売れたので最後だったみたいだ」
「え!?ざ、在庫とかは…」
「仕入れないとないな」
「うわー…」



お兄さん曰く、午前中に買っていった学生がいたのだという。たぶん、その人も運動部の人だろう。夏場の運動部にはドリンクが必須だ。必要としているのはバレー部だけではない。



「そうですか…わかりました」
「悪い。今度は入荷しとくからな」
「いえ、ありがとうございました」



お店を出て再び熱い空気にさらされる。
手近なお店であるここが売り切れとなると、他のお店へ行かなければ。嶋田マート辺りならさすがに置いてあるだろう。
携帯を開いて潔子ちゃんへメールした。部活中だからすぐに返事は来ないと思うけど、戻るのが遅いと心配させてしまう。
熱いアスファルトの上へと踏み出した。



嶋田マートの涼しさは天国だった。目的のものであるドリンクの粉も置いてあったので、多めに買っておく。お金はあとで部費から落とすので、領収書も貰う。
でも、ひとたびお店から出れば余計に倍増されたような暑さが体を攻撃してくる。



「あっつい…」



ジャージのポケットからハンドタオルを出して汗を拭う。
一応、今は部活中だし少し急いで戻らなくては。粉末ドリンクの数箱が入ったビニール袋を腕に抱え、学校への道を走った。





坂ノ下商店の目の前までようやくたどり着く。普段から走り込みをしている部員たちほど体力がないため、さすがにここから先の坂は走っては登れない。ここに着くまでですらちょこちょこ歩きながらだったのだ。
大量の汗が背中を流れる感覚が気持ち悪い。戻ったら着替えよう。

体育館に戻ると、開けっ放しの扉の近くに潔子ちゃんがいた。



「潔子ちゃん、ただいま…」
「支緒…!ほんとに嶋田マートまで行ってたの?」
「だって、どっちにしろ粉は必要かなって思ったから。暑かったー」



へらりと笑って汗を拭く。部員たちはサーブ練習をしているようだ。



「行ってきてくれてありがとう。着替えてきたら?」
「うん、そうする」



追加でドリンクを作る時のために、買ってきた一箱を潔子ちゃんに渡しておく。残りは部室に置いておこうと、部室棟へ向かう。

部室棟の階段を上ると、少し息が苦しくなった。部室へ入り、買ってきた数箱を棚へ置く。喉が渇いたなぁ…。



「…っ」



なんだか目の前がちかちかする。
しばらく俯いてから、扉を開けて外へ出ると目の前が暗くなり始めた。



「う…っ」



そのまま扉にもたれて背中を付ける。喉の奥から吐き気に近いものが感じられてきた。まずい、気持ち悪い。
ずるずるとその場に座り込んでしまう。手足がうまく動かない。痺れたような感覚。呼吸が速い。でも息が苦しい。どうしよう、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。



「あれ…笠原!?」



下から呼ぶ声が聞こえたけど、誰の声か聞き分ける余裕もない。鉄製の階段を駆け上がってくる音が聞こえ、また呼ばれる。



「笠原!?どうした、大丈夫か!?」



あ…、これは、旭の声だ。
目の前が暗いままだからはっきりと認知はできない。

口開けて!と聞こえてわずかに口を開くと、何か固いものが口の中へ押し込まれる。そこから流れ込んできた冷たいものはスポーツドリンクの味だった。
待ち望んだ水分に、私はひたすらに流れてくるドリンクを飲む。さすがにこれ以上一気にはいらないと感じたところで、口に含んでいたボトルを外した。呼吸が少し楽になる。



「笠原、わかるか?」
「うん…」



徐々に視界の暗さから解放され、明るくなった隣にはやはり旭がいた。



「ここにいたらだめだな…。立てそう?」
「ごめん、ちょっと…今は無理…」
「そっか…。ちょっと、ほんとにちょっとだけ待ってて!」



頷いた私に旭は下へと降りていき、すぐに戻ってくる。本当にちょっとだった。
頭にタオルが被せられた。そのタオルはひんやりと濡れている。そのまま旭は私の前で背中を向けてしゃがむ。



「乗れる?」
「あ、うん…」



背中に乗れということだろう。重くないかな、とそんな考えが頭をよぎったが、今はそれを遠慮する余裕もなかった。ゆっくりと旭の肩に手をかけると、足を持ち上げられ視界が一気に高くなった。



「ごめん、汗臭いかもしれないけど…」
「ううん、へいき…」



旭の背中は制汗剤の香りがした。汗をかいているのは私もなのでお互い様だ。むしろごめん、旭。
旭におぶられて体育館へ行くと、周囲がざわついた。



「笠原!?どうした!」
「日射病になったみたいです」



先輩に向けた旭の答えで、そうかこれが日射病かと妙に納得した。
炎天下の中を走り、汗をたくさんかいたのにさっき旭が来てくれるまで水分はまったく摂っていなかった。脱水症状だ。

体育館の中では比較的涼しいステージの上へ降ろされた。潔子ちゃんが隣で背中をさすってくれる。



「支緒、水分は…」
「さっき飲ませたけど、足りないと思う」



代わりに答えてくれた旭に同意するように頷くと、すぐに用意するねと潔子ちゃんは外の水道へ向かっていった。



「笠原、とりあえず休んでろ。横になっとけ」
「はい、すみません…」
「お前らちゃんと水分補給しろよー!具合悪くなったら無理はするなー!」



主将の声に、部員たちも神妙に返事をした。当然だ。マネージャーの私よりも、部員たちのほうが日射病になるリスクは圧倒的に高い。私は悪い例です。みんなは気を付けてください。
先輩の言葉に甘え、タオルを枕代わりにしてステージの上で横になる。ステージの上は陰になっているためかひんやりとしていた。澤村がタオルで煽ぎ、こちらに風を送ってくれる。



「ドリンクの粉を買いに行くとは聞いたけど、嶋田マートまで行ってたのか…」
「ごめんなさい…」
「いや、俺に謝らなくていいんだけどさ」



澤村は怒ると怖いので、なんとなく謝ってしまった。今は怒っているわけではないから謝る必要はどこにもないのだけど。



「…旭、ありがとう」
「いいよ。俺も焦ったけど…」



苦笑した旭だったけど、正直言ってあそこで誰かが来てくれなければ、それこそ救急車を呼ぶような事態になったかもしれない。本当に助かった。



「笠原、これ首とかに当てといたほうが良いと思う」



こちらにやってきた菅原が渡してくれたのは、タオルにくるまれた保冷剤だった。



菅原とはあれ以来、極力私から声をかけることは少なくなっていた。やはりまだ気まずさが勝ってしまう。かといって、普通に話をしないわけではなかった。お互いに、今まで通り友達でいたいというのは同じだったから、菅原も私を避けたりしなかった。
それがいいのか悪いのか。まだ私は、菅原のことが好きだ。

今日は、いつも通りに、今までのように話せているだろうか。失恋以来、菅原とどう接していたかが少しわからなくなっている。



「あ…、ありがとう、菅原」
「吐き気とか、大丈夫か?」
「さっきよりは平気だよ…、旭が来なかったらやばかったけど」
「よかったな旭、へなちょこでも感謝されてるぞ」
「へなちょこって…」
「えー、いつも感謝してるよ?」
「笠原、そんなに旭に世話焼かれてたっけ?」
「ううん、全然」
「ちょ、三人してひどいな…!」



横になりながらも、そんな会話に笑うくらいは回復してきたのだろうか。

練習再開の号令にみんなは私から離れていき、潔子ちゃんが私にドリンクを渡してくれた。



「ありがとう潔子ちゃん」
「一人で行かせてごめんね…」
「私の自己管理が不充分だっただけだよ」



潔子ちゃんが謝ることではない。
炎天下の中で水分補給をしなかった私が悪いのだし、部員の世話をするマネージャーが誰もいなくなるのはよくないから、どちらかは残らなければいけなかったのだ。
再開した練習に戻っていったけど、潔子ちゃんは時折私のほうに目を向けてくれた。



「……」



菅原から渡された保冷剤を首に当てようとして、躊躇った。
保冷剤がくるまれているのは、菅原のタオルだったからだ。少し引いてきたとはいえ、汗をかいている体に使うのはよくないだろう。ましてや菅原のだ。菅原は単純に親切心でやってくれたのかもしれないが、使うのは気が進まなかった。

――失恋したくせに、未だ引きずる男子のを使うなんて図々しい。
内心の自分が、チクリと刺す。菅原のタオルを外して、自分のもので保冷剤をくるみ直す。菅原のは丁寧に畳んで脇に置いておいた。

回復して練習に合流してから菅原にタオルを返すと、「渡したまま使わなかったんだな」と菅原はちょっと笑っていた。
心配してくれたその気持ちだけで、充分だよ。



(真夏の悪夢)

傷が癒えない、夏の日。

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