それは奇跡だったね、 担任の先生から名前を呼ばれた。 笠原支緒 マイクを通した先生の声は体育館に響き渡る。 こんなにも広い場所で、多くの人の前で、使い続けてきた自分の名前が呼ばれると、それはとても特別な意味を持ったものになる気がした。 私は返事をして椅子から立ち上がる。背筋を伸ばして、真っ直ぐに壇上を向いて。きっとその姿を、後ろの保護者席から両親が見ているはずだ。 私よりも少し前には、彼の姿がある。とはいっても、後ろ姿だからあの少し色素が薄い柔らかな髪しか見ることはできていない。 私のクラスメイト全員の名前が呼ばれ、代表者が壇上へ上がっていく。 校長先生がその代表者の名前と証書の内容を読み上げ、きっちりとした動きでそれを受け取った代表者は壇上を降りて自分の席へ戻った。 「以上、三年四組卒業生」 先生の声は、一人ひとり名前を呼んでいる途中から少し涙声になっていた。それにつられて何人か鼻をすする音も聞こえる。まだ涙は出てこないけど、私も少しだけ鼻をすすった。 着席、と先生の声に従い私たちは全員息を合わせて座る。引き続いてマイク席には五組の先生が立ち、生徒の名前を呼び始めた。 その後の、校長先生による祝辞とかもいつもなら面倒だな、と思ってもおかしくなかったけれど、今日はやけにきちんと聞いていた。その時々で、彼の後ろ姿に視線を持っていったりもした。最後に校歌を歌って、一組から順に卒業生が体育館から退場する。 教室へ戻る廊下では、堰が切れたように泣き声が聞こえ始めて、ああ皆この学校が、クラスが好きだったんだなと思った。もちろん、それは私も同じ。 教室に戻ると最後のHRが始まった。 黒板には、今朝、卒業式が始まるまでの時間にみんなで書いた寄せ書き的なメッセージで溢れている。真ん中には大きく“祝・卒業!!”と書かれていて、クラスのお調子者が書いたのだろう「3年4組!お前らサイコー!!」というメッセージが一番目立っていた。 私ももちろん書いたけど「みんなありがとう!3年4組大好き!」なんて、少しありきたりだったかなぁと今さら思ったりした。 HRまできてしまうと、本当に最後だと思い知らされて、さすがに私の目からも涙が流れた。でも、最後のHRを終えても、まだ私たちの高校生活は終わらない。 これからは卒業アルバムの白いページに、みんなでメッセージを書き込む時間だ。写真を撮ったり、他のクラスの友達の所へ行ったり、全クラスが解放されるフリーな時間。 まだ。まだだよ。この学校の敷地内から出るまでは、自分たちは烏野高校の三年生だ。そう主張するように、一向に帰る気配がないからなんだかそれが嬉しかった。 「支緒!メッセージ書いてー!」 「うん、書くよ。私のも書いて」 「当たり前じゃーん。ちゃんとあたしへの愛を込めてね」 「…って、人に言う割に内容ひどくない?」 「あたしの愛の形だから」 「うん、そういう人だよね。知ってたけど」 友達は私のアルバムに「彼氏いない歴=年齢の更新おめでとう」と書いていた。 まったくもってひどいメッセージだけど、彼女は湿っぽいことを書くような人ではないとわかっていた。だから私も便乗して「彼氏と3周年おめでとう」と、お互いに卒業とは何の関係もないことを書いて笑ってしまった。 彼女は違うクラスの部活仲間に写真とメッセージを求めて教室から出ていった。 道宮ちゃんのところかな。 ああ、道宮ちゃんといえば。 私はアルバムを持って、道宮ちゃんから連想された男子生徒へ近づいた。同じ部活なのだから、そうじゃなくてもメッセージを頼んでいたけど。 「澤村、メッセージ書いてくれる?」 「おう、もちろん」 他の男子のメッセージを書き終えた澤村は、笑って私のアルバムを受け取った。同時に自分のアルバムを私に渡す。 「あとでバレー部全員で写真撮ろうね」 「当たり前だろ。旭と清水呼んでこなきゃな」 旭と潔子ちゃんはクラスが違うので声をかける必要があるけど、きっとみんな同じように思っているのではないかと、男子バレー部三年の絆を感じてみたり。 澤村への「主将お疲れさま!」から始まる数行のメッセージを書き上げる。 「他のクラスにも行って来たら?」 「そうだな、行ってくる」 お互いのアルバムを交換して持ち主の元に返すと、澤村は四組から出ていった。 澤村が書いてくれたのを見ると、三年間マネージャーありがとうな、から始まり貰って嬉しくならないはずがない言葉がたくさん書かれていた。それに涙腺が緩んだ。さすが主将と言わざるを得ない。 旭と潔子ちゃんにも書いてもらわなければ。 三組を通り過ぎ、先に潔子ちゃんのいる二組へ行くことにした。ごめんね旭、美しいは正義なの。 潔子ちゃんに会いに行くと彼女の目は赤くなっていて、そんな彼女を見て私も改めて寂しくなって、二組で泣いてしまった。潔子ちゃんが笑いながら頭を撫でてくれたので、鼻をぐずつかせながらもあとで田中くんと西谷くんに自慢しようと思った。 潔子ちゃんとツーショットを撮り、男子バレー部三年マネージャーズ!とアプリで文字入れをして潔子ちゃんへ送ると彼女は嬉しそうに微笑んでいた。私もとても嬉しくなった。 「潔子ちゃん大好き」 「支緒がそれを言うのは私じゃないでしょ?」 「あー…」 困ったように微笑んだ彼女の言葉に、私は結構痛いところを突かれた。 それに対する反論を私は持ち合わせておらず、曖昧に笑うしか方法がなかった。あとで三年だけで写真撮ろうねと伝えて、潔子ちゃんからの綺麗な字のメッセージが書かれたアルバムを持って、三組へと移動した。 「旭」 「おお、笠原」 「へなちょこエースを支えたマネージャーへメッセージ書いてくれる?」 「あはは…、うん、もちろんだよ」 苦笑しながらも旭は迷いなくペンを走らせている。 旭のアルバムには、ガラスのハートも卒業できるといいねと書いた。たぶん無理だと思うけれど。それでもやはり、烏野のエースとしての彼の活躍は名実揃ったものなので、称賛の言葉もたくさん書いた。 「さっき大地が来てさ、三年間ありがとうって言ったらど突かれた」 「旭だからしょうがないんじゃない?」 「ええー…」 きっと澤村は照れ臭かったのだろうと思う。 卒業式というセンチメンタルな日において、ナチュラルにセンチメンタルなことを言う旭の言葉はガツンと響くものがある気がする。 私も、今面と向かって同じことを言われたら泣く自信がある。旭の目が赤くなっているから、澤村も同じ状態かもしれない。 「まだ書いてもらってないの?」 「うん?誰?」 「誰って、スガに」 書き終えた旭の目は、自然とバレー部メンツの名前を探していたらしい。 澤村、潔子ちゃん、旭とくればあと一人のバレー部、彼の名前がないことを指摘してきてもなんの不思議もない。だから、今の旭の言葉に他意はないのだ。 「ああ、うん。これから書いてもらう」 「そっか」 旭にお礼を言って三組を出て、四組へと戻る。 教室は相変わらず賑わっていて、その中の男子のまとまりに彼の姿もあった。今は、声をかけるタイミングじゃないかなぁ…。そう思って、他の友達に書いてもらったり一緒に写真を撮ったりした。 「おーい、スガ!笠原!」 澤村の声に振り向くと、廊下に潔子ちゃんと旭が揃っていた。 「三年で写真撮るぞ」 その言葉に廊下へ向かうと、後ろからぽん、と肩に手が置かれた。 「! …菅原」 「卒業おめでとう、笠原」 振り返ると、彼の目はみんなと同じように少し赤くて潤んでいたけれど、菅原はいつものように笑った。 いつも思っていたが、本当に彼の笑顔は優しいと思う。きっと贔屓目でもなんでもなくて、誰が見たってそう思うだろう。この三年間で、何度この人の笑顔に救われたか知れない。 菅原につられて私も笑った。 「卒業おめでとう、菅原」 「まだ笠原とメッセージ書いたりしてないよな?写真撮ったら書くべ」 「うん。私のも書いてくれる?」 「おう!」 廊下に揃った男子バレー部三年。 クラスメイトにお願いして、澤村の携帯で写真を撮ってもらうことにした。あとで全員に送ってもらおう。 主将の澤村が真ん中、その両隣にエースの旭、副主将の菅原。私と潔子ちゃんが両端になるのがバランスがいい、ということになると潔子ちゃんは旭の隣に行き、私を菅原の隣に押しやった。…潔子ちゃんめ。 潔子ちゃんの粋な計らいは、自分にとっていいのか悪いのか私はわからない。ただ言えるのは、いいか悪いかという単純なことではなくて“嬉しい”と思うことだった。 「はい、撮るぞー」 「おーす」 潔子ちゃんの計らいを無駄にすると、あとで彼女から静かなお怒りを受けそうなので、役立てたほうがお得かなと考えた。 男子組は肩を組んだりしているけれど、さすがに男女でそれをするのはお互いに抵抗があって無理だ。それでも記念写真ということにかまけて、さりげなく菅原の肩に片手を乗せて、もう片方はありきたりなピースサインで。 菅原の隣にいられるのはとても嬉しい。でも今は別の嬉しいという感情が勝っている。 このメンバーで続けた男子バレー部。 挫折があった。悔しさもあった。たくさん練習して、汗をかいて、時には泣いて、部員同士でぶつかり合って、それでも目指したのはみんな同じで。 この四人と同級生でいられたこと。 自分も含めた五人で、三年間バレーができたこと。 (それは奇跡だったね、) なんて言ったら、センチメンタルだと笑われるかな。 シャッター音が鳴り、確認した写真は、みんなすごく綺麗に笑っていた。 |