ほんのり染まる 【一年・五月】 バレー部に正式に入部して、澤村、潔子ちゃん、旭と、当然ながら菅原ともすぐに仲良くなった。 バレー部員のみんなが着ている黒いジャージを渡されて『烏野高校排球部』の文字を背中に背負ったときはとても嬉しかった。 GWの合宿で、部員たちの懸命な姿を目の当たりにした。 五月も下旬に差し掛かった頃、先輩たち…特に三年生は目に見えてピリピリしていた。その理由は、六月のすぐに始まるインターハイ予選を控えているからに他ならない。部員はみんな身を入れて練習に励み、マネージャーの先輩もその空気に同調しているようだった。 三年生にとっては今年が最後。県予選を勝ち進まなければ、全国へは行けない。 先輩たちが全国という高みを本気で目指しているかはわからない。単に、負けてすぐに引退するのは嫌だというだけかもしれない。でも、やはり最後となると無意識に気合が入っていくものなのだろう。 そんな雰囲気のまま、部活が始まろうとしていた今日。 私はいつもより、部活前にドリンク作りを始めるのが遅くなってしまった。潔子ちゃんは少し遅れると言っていたから頼める人はいない。 ボトルなどを取りに行くため体育館から出ようとした時、女子マネージャーの先輩と鉢合わせた。先輩の手にはボトルを収めたケース、ドリンクの粉があって、しまったと思った。 「笠原さん、まだドリンク作ってなかったの?」 「す、すみません…!私がやります!」 「いいよ。時間ないからあたしがやる。笠原さんはネット張る手伝いして」 「…すみません」 普段は優しい先輩はいつもより気が立っていて、口調にはいらつきが見て取れた。 当番制になっているわけではなかったが、仕事は率先して後輩がやるものだという社会的な暗黙のルールは、学生の部活動にも適応されているのはわかっている。 先輩がやるとは言ったけど、それでもやはり「私がやります」と言うべきであったし言おうとしたのだけど、背中を向けた先輩の呟きが聞こえて足が止まってしまった。 ――清水さんならちゃんとやってくれるのに。 ため息を吐いた先輩の呟きを、私の耳はどうしてか拾い上げてしまった。聞こえないほうがよかったのに。 今日は偶々遅くなってしまったというだけだった。先輩だってそれはわかっているのだろう。 潔子ちゃんがマネージャー業に限らず有能であるのはもう知っている。 一方で私はそうじゃない。元々有能な潔子ちゃんの歩みに、私は走ってようやく潔子ちゃんに追いつく。そんな感じだ。だからこそ、自分ができることはたくさんしようとしてきた。私にできることは必然的に潔子ちゃんや先輩もできるということにはなるけれど、しないよりはまし。 潔子ちゃんならちゃんとやってくれる? そんなこと、言われるまでもなくわかっている。自覚している。 そんなことを再認識させられるとは思っていなかったから、油断していた私の隙間に、それは勢いよく飛び込んできたのだ。あまり考えたくなかった、小さなコンプレックス。 唇を噛みしめた。これから部活だ。個人的なことで悲しんでいる暇はない。ネットを張ろうとしている澤村と菅原に駆け寄った。 「笠原、大丈夫か?」 「え?何が?」 菅原の問いかけには自然にすっとぼけておいた。 先輩とのやり取りは聞こえていただろうけど、選手たちにとっては特に気になる内容でもない。 先輩だって普段から偉ぶって仕事をしないわけではないのだから、今日は私のミスでドリンク作りを先輩にやらせてしまったというだけだ。 自分の中でひとつ勘違いしたくなかったのは、先輩は私に対して悪意を持って言ったわけではないということだ。インターハイ予選が近いから、きっとそれにより気が立っていただけだったのだと。それだけは確信しておいた。 片づけやその他の仕事を終えて、いつもなら制服に着替えてから学校を出るけれど、今日はジャージのままで帰ろうと思った。先輩と潔子ちゃんに、お疲れ様でしたと挨拶をして小走りで校門を通った。 坂道を降りていくと坂ノ下商店の明かりが見えてくる。…肉まんでも買って帰ろうかな。お腹が空いているときはネガティブになってしまうものだ。 「笠原!」 振り向くと、菅原が坂道を駆け下りてきていた。 名指しで呼ばれてしまっては無視するわけにもいかず、私は立ち止まって菅原を待った。どうしたんだろう。 菅原は少し肩で息をして私を見ると、小さく首をかしげる。 「珍しいな、ジャージで帰るの」 「ああ、うん。今日はちょっと」 「ふぅん…。何か買うの?」 「肉まん食べたくなったから、買って帰ろうかなって」 「あ、俺もそうしようかな」 二人でお店に入ると、いらっしゃい、と金髪のお兄さんは読んでいた漫画雑誌を閉じた。 「肉まん二つお願いします」 「はいよ」 菅原の注文に、お兄さんは慣れた手つきで肉まんを包んで紙袋に入れた。 バッグから財布を取り出して菅原の横に並ぶ。 「俺が出すよ」 「え、いいよそんな!」 「俺、ちょっとお金崩したいんだよ。あとで渡してくれれば大丈夫だから」 その理由に納得した私は頷いてお会計を待った。 「帰ったらちゃんと飯食えよー」 「はーい」 お兄さんはよくそう言う。特に運動部の人はよく言われると聞いた。 お店を出るとそのまま菅原は歩き出す。 お店の前で食べてから帰るとしたら他の部員が来てしまう。それは少し嫌だったので、ありがたい。でも、一人で帰りたかったから急いで学校を出たというのに、菅原といる時点で意味がなくなってしまった。 「ほい」 「ありがとう」 菅原から肉まんを受け取り一口かじる。肉まんの程よい温かさに少しだけ癒される。 「笠原、今日ちょっと元気なかったよな」 「えー、そんなことないよ?」 間をおかずに答えたけれど、内心動揺した。 部活中におしゃべりするような時間はほとんどない。それでいて、今日は部活中に菅原と話したりはしていない。私はいつも通りに仕事をしていた。そう心がけていた。 菅原は案外観察眼が鋭かったりするんだろうか。それとも、私が案外隠すことが下手なんだろうか。 「俺はさ、」 「んー?」 「ちゃんとわかってるからな」 菅原が足を止めたから、反射的に私も止まった。 わかってるって、何を…? そう尋ねる前に、菅原は私の頭に手を乗せた。 「今日一番最初に部活来たの、笠原だよな」 肯定していないのに、菅原の言葉を否定はできなかった。 「早く来て部室の掃除してくれたんだよな?棚とか畳が綺麗になってた。それで、そのあとみんなが来る前に体育館のモップ掛けしてくれたんだよな?床がいつもより滑らなかった」 ――だから、いつもよりドリンクの準備するの遅くなっちゃったんだよな。 そう言って頭に乗せられた手が動いた瞬間、涙が一気にこぼれ出た。 自分に何かできないかと考えていた。先輩たちの空気を和らげるなんてことはできないけれど、せめて気持ちよく練習してもらうことはできないかと。 私ができることはたかが知れていたけれど、部員のプラスにはならなくてもマイナスになることはないだろうと思った。 そう思ったが故の行動ではあったけど。 私がしたことはいわばオプションであって、やってもやらなくても誰も困らない。優先すべきは、ドリンク作りといういつもの仕事だった。その判断を間違った結果が、先輩とのやり取りだ。 そして、自分の技量の無さを再認識して、勝手に気落ちしただけ。自分の蒔いた種だったし、本末転倒な結果になってしまった。 なんで。なんで菅原は知っているんだろう。気づいてくれたんだろう。 「笠原は頑張ってる。ちゃんと知ってるからな」 「…うん、…っ」 ジャージの袖で涙を拭うも、またすぐに流れてくる。 ゆっくり歩きだした菅原に付いて、私も足を動かす。 頭に手は乗せられたままで、あやすように一定のリズムで動き続ける。 「肉まん冷めるぞー」 「…うん」 忘れかけていた手の中の肉まんをほおばる。涙は絶賛放置中なので、少しだけ塩味が加わった。 「その肉まん、頑張ってる笠原に俺からのご褒美だから」 「…ありがとう、菅原」 「おう」 鼻声のままお礼を言った。菅原のほうを見ることはできなかったけど、たぶん笑ってくれているんだろう。 肉まんのおかげで手が温かい。 菅原の手のおかげで頭が温かい。 菅原のおかげで、体の中心がぽかぽかと温かい。 物理的な温かさもだけど、人の優しさという温かさは特効薬なんだなぁ。 (ほんのり染まる) 菅原が隣にいてくれることと、頭を撫でてくれていることが、またとても温かいと思った。 |