雨の匂いにつられたら 【一年・六月】 六月のインターハイ予選。 烏野は二回戦目で敗退し、三年生の先輩たちは春高を待たずして引退することになった。 春高を目指すか、進路を優先するか。 そんな大事なことに私たち後輩が口を出せるわけもなく、一・二年生の新体制チームとして再出発した。 二年生のマネージャーはいなかったので、私と潔子ちゃんの二人になる。先輩から、仕事はきちんと引き継いだ。 衣替えの季節になり、天気がぐずつくことが多くなった。午後から急に雨が降ったりして、帰りに困ることもしばしば。今日のように。 昼間はずっと晴れていたのに、部活が終わった今となってはしとしと雨が降っている。 「うわー…、止まなそうだなぁ」 「支緒、傘あるの?」 「昇降口の傘立てにあるから大丈夫だよ」 「それならいいけど。気を付けてね」 「うん、また明日」 渡り廊下で潔子ちゃんと別れ、私は昇降口へ向かう。 こんな時に備えてちゃんと傘を持ってきていた。…のだが、着いてみると傘立てはすっからかんで、そこに私の傘は見当たらなかった。 「えぇー!?」 どうやらパクられたらしい。 大方、帰り際に雨に降られて困った生徒が持っていってしまったのだろう。 「あー、もう…」 私も同じ状況だったら、人の傘を持っていかないと言い切る自信がないから、あまり責めることができない。 バッグを漁るも折り畳み傘は持っていないし、出てきたのはスーパーのビニール袋だけだった。いっそこれをかぶって帰ろうか。 …しょうがない。広げたビニール袋にバッグを入れ、それを頭に乗せる。これならバッグと中身も濡れないし、少しくらいは自分が濡れることも防げる。気持ち程度だけど。 「…よし!」 可能な限り早く家に着かないと。 雨の中を走り出し、足元を確認しながら水たまりをよける。坂道を駆け下りて、坂ノ下商店には目もくれずに通り過ぎた。 「え…ちょ…、笠原!?」 「え!?」 思わず大きな声が出てしまった。今急いでるのに誰、という小さな怒りだ。 声の主は、坂ノ下商店の扉を開けた菅原だった。お店に寄っていたのか。 「ああ、お疲れ菅原。ごめんね、今急いでる!」 「いや、待てって!こっち来て!」 ひどく慌てた様子の菅原に、そこまで呼び止められては無視できなかった。数メートルの道を戻り、お店の屋根の下へ入る。ついでに頭からバッグを下ろした。 「あれ、澤村と旭もいたんだね」 「いたけど今はそれどころじゃないだろ!」 店内には他の二人もいたが、私の様子に驚いたようだった。 「雨の中走るとか何考えてんだよ!」 「誰かに傘持っていかれたみたいで」 「だからって…。風邪ひいたらどうするんだよ」 「濡れたくらいで風邪ひくほど体弱くないから、大丈夫だよ」 「そんなのわかんないだろ」 クリーム色のベストに、雫がたくさん付いていたのでそれを払う。少し怒ったような菅原に、なんとなく縮こまってしまう。 「大地、旭。俺、先に帰るから」 わかった、お疲れ、と二人の声が聞こえて扉越しに手を振った。 菅原は立てかけていた傘を取って広げる。 「送ってくよ」 「…え、いいの?」 「そのために呼び止めたの!」 「す、すみません!」 叱るような口調には逆らえない。これからは折り畳み傘も常備しようと思った。 申し訳なく思いながらも傘に入れてもらう。雨が傘を叩く音が響く。 相合い傘…まさか、女子の友達以外と体験することになるとは思わなかった。 「にしても、頭にカバン乗せたところで対して防げないだろ」 「苦肉の策だったんだよ。何もしないよりはましだと思ったから」 「そうだろうけどさ」 「少し馬鹿にしてるでしょ」 さっきとは違って、おかしそうに菅原は笑う。 傘がなくてバッグを頭に乗せて、それでも結局は濡れながら全力疾走している女子高生の図は、自分が見ても笑えると思うけど。 「笠原、あんま離れると濡れるぞ」 「あ、ごめん」 だって、距離が近いから。 そんな理由を素直に言えるはずがなく、少しだけ菅原のほうに寄った。 菅原はきちんと私の家の前まで送ってくれて、ありがたいと思う反面、余計な距離を歩かせて申し訳なくなる。付かず離れずの距離を保とうと必死だったから、いつもより神経をすり減らした帰り道だったような気もする。 「ありがとう菅原、わざわざごめんね」 「いいって。大丈夫だと思うけど、風邪ひくなよ?」 「もし明日休んだら、ノートよろしくね」 「笠原が風邪ひくことはないから、平気だろ」 「さっき心配してくれたばっかりなのに手のひら返しとか」 「大丈夫だと思うけど、って言ったべ」 じゃあまた明日、と菅原は道を戻っていく。 後ろ姿を見送ったとき、菅原の肩や腕が片方だけ濡れていることに気付いた。傘を持っていなかったほうだ。 ――私のほうに、傘を寄せてくれていたのか。 それがわかった瞬間にまた申し訳なくなって、素直に嬉しく思い、そして菅原の優しさに感謝した。 それに加えて、濡れないように気を使ってくれたこと――女の子扱いされたのだという事実に、ひとりで恥ずかしくなった。 ***** たとえ自分ができることの範囲内であっても、私が頑張っていると認めてくれた。あの時、それに気づいてくれた菅原の優しさはとても温かかった。 他にもいろいろな場面で菅原の優しさに触れた私が、彼を好きになるまで時間はかからなかった。一番のきっかけは、泣きながら帰ったあの日だったのだろうけれど。 「次、スパイク練習始めてくださーい」 「おーす!」 時間を見ながら練習メニューを進めていく。 部員たちが列を作り、ネット際にセッターがスタンバイ。ネットを挟んで、私と潔子ちゃんが最初のボール出しをする。 「行きまーす!」 ボールをネットの向こうへ投げて、並んでいる部員がレシーブ、セッターがトスを上げて、それを打つ。 セッターは二年生の先輩が一人と、菅原だ。練習中にトスを上げる菅原を近くで見れるスパイク練習は、私にとってささやかな楽しみだ。 何周かそれを繰り返して、休憩に入る。それぞれドリンクを飲んだり風に当たったりしている中、菅原と旭がもう何本かスパイクやってみよう、と話しているのが聞こえる。 旭は烏野ではあまりいない長身選手。パワーもあるし、そのうちエースに昇格するんじゃないかなと思っている。 その隣にいる菅原も、旭との連携がだんだんと様になってきている。スパイカーそれぞれの打ちやすいポイントにトスを上げるなんて、やっぱりセッターはすごい。つまり菅原はすごい。 「支緒?」 「え、はい!?なに、潔子ちゃんっ」 「今、どこかに飛んでたでしょ」 「なぜわかった…」 意識が菅原に向いていたことはばれていないようだが、一瞬心ここにあらずだったのを潔子ちゃんは気づいたらしい。 潔子ちゃんは先程まで私が見ていたほうへ視線を移した。え、まさかの詮索開始…? 「…東峰?」 「え!?いや違う違う!」 問いかけるように首を傾げた潔子ちゃんに、盛大に突っ込みという名の否定をしてしまった。旭に失礼だとわかっているので、心の中で謝罪しておく。確かに旭がいる方向だけど、違う。 そして、墓穴を掘ったことに気付く。男子の名前を出されて力いっぱいに肯定や否定をしたら“そういう話題”だと言っているようなものだ。 否定したことは案の定、潔子ちゃんのひらめきを促してしまったらしい。ああ、と呟いた潔子ちゃんは私を見て笑う。 「菅原のほう?」 「あはは…」 何も言えず笑ったけど、何一つごまかせていないだろう。 潔子ちゃんの笑顔が見れたのは眼福だが、普通に気恥ずかしい。今まで、そういう話をしたことがなかったから。 「…内緒にしてね」 「当たり前でしょ。何か協力できることがあったら言って」 「潔子ちゃん、女神さまなの?」 「なにそれ」 小さく笑った潔子ちゃんは本当に、女子から見てもため息が出るほどかわいい。きっと、来年には“美しい”が適切な表現になるのだろう。 「きっかけは何だったの?」 「ええ…!いや、話せば少し長くなると言いますか…」 休憩も終わりそうだったので、それを理由にしてかわした。 空は少し曇ってきていて、また雨が降りそうな天気だ。水の匂いもするし、遅かれ早かれ降ってくることになるだろう。 今日はきちんと折り畳み傘を持っているので、先日の二の舞にはならないけど。それでも、 (雨の匂いにつられたら) つい、この前のことを思い出してしまうんだ。 その日は潔子ちゃんと帰ることになり、結局は根掘り葉掘り白状させられてしまった。 |