帰宅ラッシュにぶつかる少し前。電車内はそこそこに人がいるが、窮屈なわけではなかった。残念ながら座席は埋まっているというだけで。 スマートフォンの音楽アプリから流れる曲が変わった。好きな恋愛ソングのイントロに、つい指がリズムを取るように動き出す。扉付近の手すりに掴まり音楽を聞きながら、私は周囲を見回した。 私と同じように音楽を聞いている人、本を読んでいる人、眠っている人、ゲームをしている人と様々だ。知り合いとおしゃべりしている人もいれば、窓の外をぼんやり眺めている人もいる。よくある電車内の風景。 私がいるのとは反対側の扉付近に目を向けると、スマホをいじる黒いスーツに身を包んだ男性の後ろ姿があった。 扉の上にあるパネルに、自分の降りる駅名が表示された。 音楽アプリを止めて、イヤホンを外す。車内アナウンスが流れ駅に到着すると、窓からは多くの人が見えた。やはりこの時間は人が多い。 電車が止まり、開くのは向かいの扉だ。 扉付近にいた黒いスーツの男性はスマホをいじっていた手を止め、その手はスラックスの後ろポケットに伸びていく。ああ、もしかしたらあの人もここで降りるのかなと勝手に予想をする。 「…ぁ」 はっきりとしない声が出た。 男性の手はスマホをポケットに押し込んだように見えたが、それは果たされていなかった。手から離れたスマホはポケットに入り損ねており、そのまま重力に従い落下していく。スマホが落ちた音は、扉が開く音と駅構内の喧騒にかき消されてしまったようで、男性はそのまま電車を降りて行った。 「あ…っ」 さっきよりははっきりした声が出る。あの人、気づいてない…! 元々私もここで降りる。それもあって扉へと足を動かし、ついでに一瞬身をかがめて一台のスマホを拾う。 扉が閉まる音を背中で聞きながら、必死に目を動かした。ただでさえ人が多いのに、黒いスーツを着た男性など世の中には大量にいる。さっきまで見ていたうろ覚えの後ろ姿を探す。 「いた…!」 その人は既に、改札へ行くためのエスカレーターに乗っていた。 まずい、このままだと見失う。私はパンツスーツなのをいいことに、階段を全力で駆け上った。カツコツとパンプスが鳴る。 階段を上り切ると、既に改札は人であふれかえっていた。その中からなんとか再び男性を見つけ出し、その背中を小走りで追う。 「あの…!」 お願い、行かないで。 近づいた背中に手を伸ばした。―――もう少し。 「待って…!」 「っ…!?」 追いついた男性の腕を掴むと、その人はようやく歩みを止めた。 振り向いた黒スーツの男性と目が合う。驚いたように目が見開かれた。まぁ、知らない女からいきなり腕を掴まれたら、当然の反応だろう。 階段を駆け上っただけなのに、わずかに息が上がっている。体力不足だなぁ…。 少しだけ息を整えるために下を向いていたが、顔を上げて男性を視界に収める。すると、思いの外男性がこちらを凝視していたので、私が少し驚いた。 ひどく動揺したように、ゆらゆらと彼の瞳が揺れていた。 「あ、の…っ、君…」 「え、あ、突然すみません、これ…」 「え…?あ、それは…」 真っ直ぐに私を射抜いていた視線は、差し出した手へと下がった。黒いケースが付けられたスマホ。幸い、画面が割れたりはしていない。 「さっき電車降りるときに、ポケットにちゃんと入ってなかったみたいで…そのまま落ちてました」 「あ…!そうでしたか、すみません!」 ようやく彼は、知らない女から声をかけられた理由と状況を理解したらしい。彼はスマホを受け取り、私も掴んだままだった彼の腕から手を放す。 「拾ってくれてありがとうございます。あの、もしかしてこのためにわざわざ電車を降りてくれたとか…」 「あ、いえ。私もここで降りるつもりだったので、ご心配には及びません」 「そうですか。それでも、ありがとうございます。助かりました」 「いいえ、お渡しできてよかったです」 安心したような彼の心中お察しする。パスワードなどでロックはされているだろうが、今のご時世スマホから流れる個人情報は尋常ではないから。 丁寧に頭を下げた彼が顔を上げる。改めて対面すると、随分と端正な顔立ちだった。背も高く、いわゆるイケメンという部類。 でもまぁ、たかが落とし物を届けただけだし、私にとっては今しか拝めない顔になるのだろう。 「あの…、ぼ、くのこと…」 「はい?」 何かをつぶやいたようだが、よく聞き取れなかった。 「…いえ、なんでもないです」 彼は笑ったが、少しだけ残念そうに見えたのは気のせいだろうか。 それじゃあ私はこれで。はい、ありがとうございました。 こんな流れでこの人とはすぐさよならするのだろうと当然思っていた。ところが私の予想は不意に裏切られることになった。 「あの、このあと何かご予定があったりしますか?」 「え?いえ、特には」 「夕食は?」 「まだですけど」 「じゃあ、もしよかったら、お礼に夕食をごちそうさせてくれませんか」 「えっ、いえ、そこまでのことしてませんよ!」 「でも、本当に助かったんです。食事とはいかなくても、何かお礼をさせてください」 「ええー…」 何もそこまでしなくてもと思うが、彼があんまりにも熱心なのとお腹が空いていたのとで、私の心は傾いていた。 「じゃあ、」 「はい」 「先に、お名前を教えてください」 「名前、ですか…?」 「知らない人に付いていったらだめって、小学校で習いませんでした?」 ちょっと茶化して言ってみると、ぱちぱちと瞬きをして彼は笑った。 「僕も習いました」 「ああ、よかったです。今は知らない人なので、ご一緒できません」 どちらにしろ、面識のない男とほいほい夜の街を歩くわけにはいかない。 彼はまた微笑むと、す、と軽く息を吸った。 「僕は、光忠といいます」 「みつたださん、ですか。下のお名前ですよね?」 「そうです」 「名字のほうは?」 「それは、また追々ということで」 「あ、出し惜しみですか」 なんだろう、少し楽しい。 友達でも何でもないのに、初対面の人と、なぜこんなにぺらぺらと冗談交じりのおしゃべりをしているのか。 「図々しいかもしれませんけど、あなたの名前を訊いてもいいですか?」 「あ、すみません。そうですね」 そうだった。彼に名乗らせたのだから、自分も名乗っておかなくてはフェアじゃない。 「私は、#刀剣#といいます」 名乗ってみると、彼は頷く。名前を聞いて、どこか嬉しそうに笑った。 その反応はまるで、私がそう名乗ることを予想していたというように。 瞬間、ふわりと、空気が変わったような気がした。何とは言えない。よくわからない不思議な感覚。 「#刀剣#さん、知らない人ではなくなったので、改めてお礼の夕食にお誘いしても?」 「はい、光忠さん。ここから近場だったらお受けします」 「ありがとうございます!」 落とし物を届けただけなのに。なんだかこちらが申し訳なくなるが、心底嬉しそうな顔をした光忠さんになんとなく惹かれるものがあった。 「あの、光忠さん」 「はい」 「あ…いえ、なんでもないです」 不意に、あることを尋ねたくなった。お互いに名乗り合ったので、もう初対面の知らない人ではない。 でも、訊けるわけないかと思い直す。名乗り合って一応知人になったとはいえ、まだお互い何も知らないというのに、そんなことを訊くのはおかしい。光忠さんだって困るだろう。 ―――どこかで、お会いしたことあります? なんて、そんなおかしなことを急に訊けない。でもどうしてだろう。もう少し、この人と一緒にいたいと思う。 |