特殊な空間にある本丸だが、季節というものはある。
今は蝉が忙しく鳴いている時期だ。



「光忠ぁ…」
「うん?」
「暑いー…」
「僕もだよ」



縁側でだれている主人はこの暑さにだいぶやられているらしく、寝転がりながら団扇を仰いでいる。
もう夕方だが、まだまだ暑さは日中から変わらぬ主張を続けている。暑い暑いと繰り返す主人の声に苦笑しつつ、燭台切は柄杓と桶で打ち水を続ける。この暑さではさすがにベストや上着まできっちり着ているわけにもいかず、今はワイシャツを腕まくりしている状態だ。そもそも主人がきっちりと着ていることを許さなかったのだ。クールビズというらしい。

一通り水をまき終えて、主人の近くに腰掛けた。



「お疲れさまー…」
「ありがとう。僕より、君が大丈夫?」
「暑くて死にそう…」
「今日の夕食はひやむぎにしようか。豚肉の冷しゃぶでも添えてさ」
「あ、おいしそう」



この後の夕食に、少しだけ元気を取り戻したらしい主人がもぞもぞとこちらへ近づいてくる。そのまま燭台切の膝に頭を乗せたと思うと、腹に腕が絡みついた。少しだけ、体が跳ねる。



「急にどうしたの?」
「減った体力を光忠で充電中ー…」
「散々暑いって言ってたのに」
「これは別。…光忠が嫌なら離れるけど」
「できるならずっとこうしてて欲しいくらいだよ」



暑さにやられたせいなのか、単に気まぐれでこうしてきたのかはわからないが、可愛いと思った。
彼女はもう人間で言えば成人していて、れっきとした大人だ。大人としてのプライドか彼女の性格か、こうして甘えてきてくれることは普段あまりない。だからこそ、余計に嬉しくなる。
今日の食事当番は燭台切であったのでそろそろ夕食の準備をしたいと思っていたが、放して欲しいとは言えなかったし、そんなことは思わない。

どうせなら彼女が飽きるまで。彼女が自分から放してくれるまでこうしていよう。
少なくとも燭台切のほうから離れたいなどとは微塵も思わなかった。





*****





記憶の隅っこにあったある夏の日のことを、ふと思い出した。
あんなこともあったな。務める会社を退社して、ぼんやりと夕焼けに染まる街並みを見た。

以前のようなかりそめの人ではなく、今はこうして正真正銘の人間として生きていた。
鉄の塊から顕現した付喪神などではなく、人の子として赤ん坊の姿で生まれこの世に生を受けた。

そうして生きて成長していた中で、ある日唐突に思い出した。
自分が以前誰であったのか。どのような形であったか。誰と共にどこで過ごしていたか。思い出した時はもちろん混乱した。だが同時に、かつて自分が愛していた人のことも思い出した。
以前の自分は人ではなかったのに、人を好きになった。その人も自分を好いてくれた。だけどその人は目の前で息絶えた。そして自分は再び鉄の塊へと眠りについた。

思い出してしまえばすべてを受け入れるしか方法がなく、今の自分とかつての自分とを共有したまま大人になった。成長したことで伸びた身長も、幼さが消えた顔も、見れば見るほどかつての自分そのままだった。
そして思ったのだ。彼女はどうなったのだろうか。

今この世に生きているのだろうか。だとしたら会えるだろうか。
淡い期待を持ったがあくまでもゼロではないというだけで、その可能性は限りなくゼロに近かった。
不確定要素も多すぎて、自分の力で探し出すというのは到底不可能だった。そんな霊力的な力は、今の自分は持っていない。

でも…、君に会いたい。声を聞きたい。
何度そう思ったか知れない。会社から駅への道を歩く今だって、思わずにはいられないのだ。
駅からいつもの電車に乗り込み、扉付近に場所をとって揺れに身を任せる。降りる駅に着くまで手持無沙汰なので、他の乗客同様にスマホを取り出し当てもなくネットニュースのページを開く。

しばらくして目的の駅に着き、扉が開くとスマホを後ろポケットにしまい電車を降りた。エスカレーターに乗り込み、人であふれる駅構内を歩き改札へ向かう。
いつものことだ。いつものことのはずだった―――、



「待って…!」
「っ…!?」



突然の声と共に、後ろから腕を掴まれるまでは。
振り向くと、腕を掴んだ本人である一人の女性と目が合った。驚いた。突然だったということもあるが、それ以上に、別の理由で。
その人の息はわずかに上がっていて、息を整えるためか顔が下を向いた。

お願いだ。うつむかないで。もう一度、ちゃんと、顔を見たい。
願い通りすぐに女性は顔を上げた。カチリ。音を立ててはまり込んだ。同時に動揺もした。



「あ、の…っ、君…」



ああ、ああ。なんで、どうして。
違う。理由なんてどうでもいい。

心臓が急速に鼓動を刻んだ。全身の血が沸騰したような気さえした。何かが体を貫くような、例えがたい感覚を覚えた。自分の片隅に刻み込まれているかつての記憶が、叫んだ。

彼女の表情は特に変わらない。ただただ、初対面の人間に向ける表情だった。それが残念だったがすぐにどうでもよくなる。
そして、名前を訊いてみた。記憶が聞き覚えている声で紡がれた名前は、自分が知っているそれそのもので。どうしようもなく嬉しくなった。人の多いこの場において、誰よりも輝いて見えた。



―――やっと、見つけた。
会いたかった。ずっとずっと。会いたかったんだ。君に。





*****





「光忠見て、あそこすごいよ!」
「ほんとだ。すごい花吹雪だね」



桜並木の風景をスマホの写真に収めていた彼女が手を止めた。指さす方向を見ると、少し先には盛大に花びらが舞っている。

スマホをバッグにしまった彼女は自分のほうへ近づいてくる。



「この先の広場まで行ってみる?」
「そうだね、せっかくだから桜並木をもっと歩きたいし」
「オーケー、じゃあ行こう」



手を差し出せば、何の躊躇いもなく手が重ねられた。自分よりも一回り小さい手を握り、途中だった桜並木の道を歩き出す。



「晴れてよかったぁ」
「そうだね。デート日和の天気で助かったよ」



露骨にデートと言ってみると彼女は少し顔を赤くしたが、そうだねとはにかんだ。
春の午後は気温も程よく、花見も兼ねて歩くには丁度いい。彼女の手に、少しだけ力がこもったのを感じた。

ずっとこうしていたいと思った。
手を繋いで、隣を歩いていたいと思った。
これからも二人でいたいと思った。

以前はそれが叶わなかった。だがそんな願いをかけても、今の人生なら許されるだろうか。愚かな祈りとなることもないだろうか。



「…夏が来たらさ、」
「おーい光忠さーん、もう夏の話?」
「違うけど、夏の思い出があってね」
「へえ、なになに?」
「言わないよ。小さいことだから」
「えー、話振ってきたの光忠じゃない!」
「ごめんごめん」



言わなかった自分に彼女は拍子抜けしたようだが、すぐに、風で舞い散る花びらに興味が移ったらしい。
夏が来たら君はまた、暑い暑いってだれるのかな。そんなことを思い出した。思い出したら、不意に自分の中で決心が付いた。



「ねぇ」
「なに?」
「帰りにちょっと街のほうで買い物したいんだけど、付き合ってもらえるかな」
「もちろんいいよ。何買うの?」
「それは秘密」
「秘密にする意味…。光忠の買い物でしょ?」
「たしかにそうだけどね」



君にも選ぶ権利があるから、僕だけの買い物じゃないよ。

覚えていなくてもいい。覚えていなくたって、思い出せなくたって、君はまた僕のことを好きになってくれた。
―――人間として生きているこの人生、残り全てを君と過ごしたいと思ってもいいかな。

軽く手を揺らし、陽だまりをゆっくり歩いた。
どんなデザインが似合うだろう。彼女が誰より輝くように、一番似合うものを。
自分が握っている彼女の左手。その薬指に一つの誓いを贈りたい。



―――
(陽だまり/村下孝蔵)
フォロワーさんから教えていただいた曲で



ALICE+