ぱたぱたと廊下に小さな足音が響いた。 このくらいの軽い足音を立てる者は一人しかいない。足音は徐々に近づいてくる。 通り過ぎていくと思った足音は、部屋の前で止まった。長谷部が振り向くと同時に障子が開き、小さな主人が入ってきた。 「主、どうしました?」 「しーっ!」 慌てた様子の主人は、静かにしろと言う意味に使われる動作の後、障子からは死角となる棚の陰へと座り込んだ。 「へしきり、わたしがいるっていっちゃだめだよ?」 「…?」 “長谷部”の呼び方に慣れてきたはずが、“へし切”と呼んでしまうほどに焦っているらしい。 状況がよくわからない長谷部にとっては首をかしげるしかできない。ひとまず頷いておこうとした矢先、障子に影が映った。 「長谷部、ちょっといいかい?」 「…歌仙か?」 「ああ。仕事中にすまない」 障子を開いて顔をのぞかせたのは歌仙兼定で、なにやらご立腹であるらしいことは表情を見て分かった。 「主を見なかったかい?」 「質問で返すが、何かあったのか?」 「お転婆娘が室内で鬼ごっこをした挙句、菓子をつまみ食いしたんだよ。おかげで数が合わなくなった」 そういうことか。 食事当番は交代制だが、毎日のおやつに出される菓子の管理は歌仙や燭台切が行っていた。主人に普段から手を焼いているのはわかっていたが、今回の行為は目に余るものだったのだろう。 主人は歌仙の説教から逃げようとここに来たのだ。最初から長谷部を頼って来たのか、たまたま通った長谷部の部屋へ逃げ込んだのかは定かではないが。 隠れている主人は長谷部のほうを見ているのだろう。自分を匿ってくれると思っている。 頼ってもらえることは嬉しい。主命を全うするのであれば、歌仙をここから去らせることが最良だ。根っから主人に忠実なのが長谷部である。できることならそうしたい。だが、それをすることはできなかった。 自分を奮い立たせるためと、主人への謝罪の意味を込めて小さく息を吐く。 「…いけませんよ、主」 「…!」 「いるのかい?」 「ああ」 「失礼するよ」 部屋に入った歌仙が長谷部の視線を辿り、隠れていた主人を見つけ出す。 「やぁ主。僕がどうして怒っているかは、わかるね?」 「う…っ」 「おいで。さすがに今回のはいけないな」 低くなった歌仙の声に、何も言えなくなった主人は手を引かれて部屋を出ていく。 「すまない長谷部、邪魔をしたね」 「いや、問題ない」 歌仙から主人に視線を向けた時、背筋がぴんと張り詰めた。 こちらを見る主人の目が既に涙目になっていたからだ。 そしてそれはきっと、これから始まるであろう説教に対するものではなく、自分を匿ってくれなかった長谷部に対しての。 その目を見ていられなくて、長谷部は情けなく視線を下げた。 ***** 縁側で、膝を抱えて丸くなっている小さな背中を見つけた。 ぐずりと鼻を鳴らすのが聞こえる。 「主」 声をかけると少しだけこちらを振り向く。赤くなった目が長谷部の姿を捉えたが、主人はすぐに顔を逸らした。そのことがちくりと刺さる。 ゆっくり近づき隣に膝をつくが、主人は逃げ出すことはしなかった。説教を受けて、これ以上動く気力もないのだろうが。 「…主、」 「はせべ、ばらしたから、やだ…」 「…申し訳ありません」 嫌いとは言われなかったことに息を吐くが、それでもなかなか応える。 「へしきり、」 「はい」 「はせべのへしきりー…」 「…ん?」 呼ばれたのかと思ったらどうやら今、へし切の名は悪口として使われたらしい。 「長谷部も主のことを助けてあげたかったんですが、それではよくないと思ったんです」 「…どうして?」 「主が悪いことをしたからですよ」 必要があれば躾もしなければというのが方針だった。幼いが故、主人の行動が人の常識としていけないことであるならば、注意しなければいけなかった。 だからこそ長谷部も、全て主人の意のままに動くわけにはいかなくて。 お転婆な面は刀剣たちからも親しみやすさを持たれているが、それとわがまま放題は同義ではない。させるわけにもいかない。 「自分が悪いことをしたというのは、もうわかったでしょう?」 「…うん」 「偉いですよ主、それが大事です」 説教は歌仙がしたのだろうから、これ以上は言うまい。 「今日のおやつは大福ですよ。主はもう知っていると思いますが」 長谷部が包まれた大福を取り出すと、しってるよ、とそっけなく返って来た。 つまみ食いした主人はおやつ抜きになっているはずだ。でもやっぱりおいしいものはいくつでも食べたい。食べられない自分の前でそれを見せてくる長谷部が嫌。そんな意味を込めているとわかる一言だった。 「…なかにいちごがはいってるの」 「苺大福でしたか」 「はせべのすきなこしあんだったよ」 「それは嬉しいですね」 包みを開く長谷部を恨めしそうに見てくる。 長谷部は厨から持ってきたナイフを取り出し、真ん中から刺し入れた。主人の言った通り、赤い苺の断面が現れる。 「どうぞ、主」 「…え?」 差し出された大福にきょとんと見上げてくる主人は、迷うように目を泳がせる。 自分は悪いことをしたから食べてはいけないという自制心と、素直に貰ってしまいたいという欲求のせめぎあいだろう。 長谷部自身、主人に対して随分甘いことをしているなと思う。 「…はせべ、たべないの?」 「もちろん食べますよ。でも、長谷部と半分こしましょう、主」 迷った末に自制心が負けたらしい主は、躊躇いつつも切られた大福の半分を手に取った。 「…いただきます」 「はい、どうぞ」 罪悪感からか浮かない顔のままだったが、ぱくりと小さくひとかじりすればその口元は緩んでいった。それを見て長谷部も残りの半分を口に運ぶ。 「おいしいね」 「はい。歌仙が選んだものですから、味はたしかですよ」 半分こした大福はあっという間になくなる。 「どうもありがとう、はせべ」 「どういたしまして」 粉が付いて白くなった指先を、布で拭いてやる。 「はせべ、やさしいね」 「他の皆も優しいですよ。今日は怒られてしまったと思いますが、歌仙もちゃんと優しい男です」 「うん。おこるとこわいけどかせんもやさしい」 「根は優しい」と言いそうになったが、反射的に「ちゃんと優しい」と直す。 幼い主人に対しては、わかるように簡単な言葉を選んで使わなければいけなかった。敬語も、難しい言葉は使えない。 「ああ、そうだ主」 「ん?」 「長谷部と半分こしたことは、皆には内緒ですよ?」 主人を匿わなかったことは正しい判断だった。連れ出されたときの主人の目が「どうして助けてくれなかったの」と言っていても、彼女の成長には叱責が必要だった。しかしながら、どうしても抱いてしまう罪悪感。それを払拭するための、ささやかなお詫びの半分こ。 秘密を作ったという小さな緊張感からか、わくわくしたように主人は笑った。泣いて目が赤いが、笑ってくれたことが長谷部を安心させた。主人とはいえ、一人の子どもに何を翻弄されているのか。 部屋へ主人が駆け込んできた時のように、長谷部は口の真ん中に人差し指を添えて、内緒と示す。 「わかった、ないしょ!」 しー、と長谷部と同じしぐさをする。そのくらい、自分の主人はまだまだとても幼くて。 そんな幼子が、いつの間にかどうしようもなく大切だと思った。 |