会ったばかりの主人はほんの幼子だった。数えれば片手で収まる程の年齢で、自分がなぜこの場所にいて、大人の男たちと生活しているのかもわかっていなかったのだろう。



「長谷部、いるー?」
「…!はい主、いますよ」



部屋の外からかかった声に、請け負っている仕事の手を止めた長谷部は腰を上げて障子へと近づいた。

障子を開けてみれば自分の主人が立っていて、驚いた顔で見上げてくる。昔よりも伸びた身長を支える足の片方は、障子に引っ掛けられようとしていた。足を引っかけて障子を開けようとしたらしい。



「…主、」
「ごめんなさい。手がふさがってたから」
「そういう時は、俺が開けるまでお待ちくださいと言っているでしょう?」
「わざわざ立たせるの、悪いなぁって」
「…お心遣いは嬉しいですが、お行儀がよくありませんよ」
「はぁい…」



少し不満そうに口を尖らせた主人の手は、湯呑に入ったお茶二つと甘味を乗せた盆により、確かに塞がれていた。



「まだ、休憩の時間には早いのでは?」
「うん、そうだね。早いけど、フライング。長谷部もそろそろ糖分補給しないと」



いいでしょ? そう言われると弱い。
湯呑が二つでここに来たということは、十中八九その一つは自分のために用意されたものだ。それを突っぱねるなどどうしてできる。



「わかりました。休憩しましょうか」
「うん、ありがとう」



障子を大きく開けて主人を中へ入れる。素早く座布団を用意すると、主人は盆を置いて座った。

刀剣男士たちの姿は月日が経っても何も変わらなかったが、主人の姿はどんどん変化していった。
短刀たちよりも小さかった幼子はいつの間にか彼らを追い越し、顔立ちも背格好も男とは違うものになった。幼子が少女になり、年頃になったその少女は徐々に女性へと変わりつつある過程に入っている。
しかし、所々幼い頃の悪癖が抜けていない。大人の女性と呼ぶにはまだ遠かった。



「今日はこしあんのお団子。いいお店のやつみたいだよ」
「それはそれは。しかし、主は粒あんのほうがお好きでは?」
「こしあんも好きだよ?うん、おいしい。どうぞ?」



勧められたので手袋を外し、ひとまずお茶を飲んでから串団子を一本手に取る。たしかに上質なもののようだった。口に運べばそれが顕著にわかる。咀嚼する主人も顔をほころばせている。



「それにしても、よく歌仙や燭台切が早めの甘味を許しましたね」
「え?あー…。うん、そうだねー」



途端に主人は明後日のほうを向いた。ゆらゆらと視線を彷徨わせている。
ああ、これはもしや。



「…黙って持って来たんですね?」
「えー…?」
「主?」
「ごめんなさい」



少し追及してやると、素直に認めた。口では謝っているがもぐもぐと団子を食べ進める主人は、だって小腹が空いたんだもの、と愚痴をこぼした。
昔からのおやつの習慣は抜けることなく継続されてきていたが、それ故につまみ食いというのもたまに起きる現象だった。
恐らくは歌仙が選んだのだろう上質な団子とあんこの味に、主人の不満げだった顔は機嫌よさそうなものへと変わった。



「でも長谷部だってもう手を付けてるよ。共犯共犯」
「あ…!いえ、これはっ」



言われて気づいた自分の失態。すでに長谷部も口にしてしまっていた。
わずかに慌てる自分に、主人は笑う。



「だから、内緒ね?」



そう言って口元に人差し指を持っていく。内緒、と示されるその動作にどうしたって反対の意を告げる気など起きなくなる。



「…はい。内緒ですね」



幼い主人にいけないことはいけないと教えることも、かつて刀剣たちの役割だった。

今はもうその区別が充分につく齢だ。これは、些細だが悪いことである。だが内緒だと、主からの指示。長谷部にとって従う理由はそれだけで充分だ。主の意のままにするのが一番いいことだが、これは少し意味合いが違った。
―――主との秘密の共有。その事実が拍車をかけていた。

無意識だろうが、搦め手のうまいお人だ…。
それにやられる自分に内心で呆れつつ、長谷部は団子を食べ終えた。



「なんとなく思い出したんだけどさ、私って昔、長谷部のこと長谷部って呼んでなかったよね?」
「え…?ええ、そうですね。へし切と呼ばれていました」
「ああー、やっぱり。そんなこともあったね」



突然に提示された昔の話題に、湯呑を持つ手が少し震えた。
懐かしい。もうどのくらい前になるのか。



「その節は、本当にごめんね。たしか鶴丸に言われて、長谷部がそう呼ばれるの嫌なんだって知ったんだよね…」
「主が謝るなど、そんな必要はございません。呼ばれるだけで俺にはありがたいものでした」
「でもさ、『長谷部って呼べよこのクソガキ』とか思ってたりしたんじゃない?」
「いいえ、まさか」



流れるように否定したが、実は少し痛いところを突かれていた。
当時、へし切と呼ばれることも徐々に気にならなくなっていたし、むしろ主人からしかそう呼ばれないという特別感すら抱きつつあった。
だがしかし、最初の頃にはへし切と呼ばれることが嫌すぎて、返事が億劫になっていたことがあるのは事実だった。間違っても、クソガキなどとは思っていなかったが。



「小さかったからあんまり覚えてないけど、懐かしいね」
「そうですね」



幼いころの記憶はどんどん上書きされていく。主人の中で、へし切と呼んでいたころの記憶は随分薄くなっているだろう。



「うん、おいしいお団子だった。…さて、と。私も仕事再開しなくちゃなぁ」
「手詰まりの際には、俺をお呼びください」
「ありがとう長谷部」



湯呑を傾けて一気に中身を飲み干した主人は、盆を持って立ち上がる。



「主、片づけは俺が、」
「だめだよ。私が自分で勝手に持って来たんだから、自分で片づける」
「しかし…」
「主命です」
「は…、主命とあらば」



昔は主命の意味すらわかっていなかったというのに。
こうしたところに良い意味で都合よく主命を使うから、長谷部には余計に搦め手がうまいと感じられた。
見送りに立ち上がろうとすれば、見送りも大丈夫、と止められる。



「長谷部の優しさはちゃんと貰っておくよ」



そう言われて笑顔を貰ってしまえば何も言えない。
来た時とは異なり、きちんと行儀よく障子を開ける。やろうと思えば、どこまでも美しい所作ができるのに。意識してそれをしないのも彼女の悪癖。大人の女性へは今一歩足りないところだ。
その背中を、姿勢を正してその場から見送ることにする。



「あ、そうだ。この後の演練では部隊に長谷部も入ってもらう予定だから、まだ時間はあるけど準備だけしておいて」
「わかりました。拝命いたしましょう」
「じゃあ、またあとで」



振り向いた主人からの指示に、長谷部は頭を垂れる。



「―――へし切」



頭垂れ、主人の顔が見えないままの状態で降ってきたそれ。

思わず目を見開き、顔を上げる。その動作が、やけに遅くなったような気がした。背筋の伸びた綺麗な立ち姿が目に入る。



「どう?驚いた?」



どこぞの白い鶴と似たようなことを言った主人は、悪戯っぽく笑った。

何か特別なことを意図したわけではないのだろう。きっと、昔の話題が出たその延長で呼んだに過ぎない。それに対し、長谷部は無意識に笑みを返す。



「はい。驚きました」



へし切と、またあなたからそう呼ばれたことに。
大人にはまだ足りなくても、とても素敵な女性になられたことに。



『―――へしきり』

刹那に、大人とは程遠く、まだ成長する前の。
幼子だった彼女をそこに見た。




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