まさか人の体になろうとは思ってもいなかった。
まさか自分の主人がこんなにも幼いとは思わなかった。それも女だ。
しかしながら、主人に対しては誠心誠意仕えるというのが、長谷部にとって染みついた考えだった。



「へし切長谷部といいます。主命とあらば、何でもこなしますよ」



目の前の主人に対してにこやかに名乗ってみれば、不思議そうに首をかしげる。



「へしきり…?」
「ああ。できればへし切ではなく、長谷部と呼んでください。前の主の狼藉が由来なので」
「ろうぜき?」



少し言葉に詰まった。通じていない。子供というのはなんだ?言葉が通じないのか?そんなことを思った。長谷部の思考を遮り、主人となるのだろう目の前の子供は笑う。



「はじめまして、へしきり」



なんだかお先真っ暗な気がした。



*****



自分よりも先に本丸にいた者たちによれば、近侍は数日ごとの交代制であるらしい。とはいえ、近侍といってもほぼ主人の遊び相手のようなものだと知ったのは少ししてから。
長谷部にとってそれは消化不良だった。出陣や遠征以外に、たいしたことは命じられない。



「主、これからのご予定は?」
「うーん、なにしようかなぁ。へしきりはなにかしたい?」
「俺は何でもいたしますよ」



今だって主人は縁側で足をぶらぶらさせるだけで、近侍の長谷部もその傍に付いているだけだ。
そしてまた、へし切と呼ばれることにひくりと口元が動く。そんな様子は微塵にも出さないよう、長谷部は口を開いた。



「何をしましょうか?家臣の手打ち?寺社の焼き討ち?御随意にどうぞ」
「てうち?おそば?」
「ああ、手打ちというのは、」
「長谷部、ちょっといいかい?」
「…!?」



ごん、と鈍い音と共に後頭部に衝撃が走る。頭を押さえて振り返れば、拳を構えた歌仙兼定がいた。



「主、燭台切がおやつを用意したよ。貰いに行ってくるといい」
「ほんと?いってくる!」



柔らかく笑った歌仙のおやつという単語に、拳を当てられた長谷部のことなど頭から消えたのか、主人は一目散に去って行った。それを見送ってすぐに、長谷部は相手を睨む。



「…なんのつもりだ、歌仙」
「君こそどういうつもりだい?手打ちだの焼き討ちだの、主に妙な言葉を吹き込まないで欲しいところだね」



何を言っているのか理解できなかった。
刀としての本領を発揮するというのは、つまりは敵への攻撃その一つに尽きる。ましてや人の体を得た今、できることは遥かに多くなる。刀を持った主人というのは、当然のようにそれらを望んでいるのではないのか。それが刀を持つ主人というのではないのか。



「必要があればなんだってやるのが、主人に仕えるということだろう?」
「刀である以上、そこは僕も否定はしないさ。だがね、今の主人は見ての通り、まだほんの幼子だ。簡単に甘味に釣られるほどに」



一瞬長谷部を心配するように見えた表情も、おやつの単語によってそちらに意識を惹かれていった先程の主人が目に浮かぶ。
歌仙は握ってた拳を開き、ひらひらと振った。



「君が言う言葉の意味なんて教えたら、この先どんな過激な性格になるかわかったものじゃない。そんな娘に育ってほしくはないんだ」
「…人の子の親にでもなったつもりか?」
「そこまでおこがましいことは思わないさ。だが、仮にも多くの刀剣たちを一手に引き受けている子だ。身内にくらい優しくできる性格でなければ、本丸は空中分解する」



一理あるが、まだ長谷部には理解しかねた。
敵を倒すのに、こちらも数が必要なのはわかっている。だからここには多くの刀剣たちがいる。だがなぜそれに主人の性格が影響するのだ。

顔をしかめた長谷部に、まぁひとまず、と歌仙は続ける。



「あの子は今までの主人とは勝手が違うということだけわかっておいてくれ。君が望みを叶えたとしても、それが手放しで功績になるわけじゃない」
「…!」
「そんな主人を気に入らないと思うかもしれない。…無理して好きになれとは言わないが、さっきのような物騒なことを言うのは控えて欲しい。ついでに、君が使う敬語のほとんども理解できていないよ。子供だからね」



子供だから、印象強いへし切の名で呼ぼうともするさ。

そこまで言って歌仙は去って行った。それと入れ違いに、厨に行っていた主人が戻ってくる。手に持った皿には例のおやつと思われるものが乗っていた。



「きょうのおやつ、どらやきだったよ」
「どら焼き…ですか」
「うん、あいだにね、あんこがはいってるの」



嬉しそうに笑う主人とは対照的に、長谷部はあまりうまく表情が動かなかった。



「あ、へしきりのぶんもらってくるのわすれちゃった…」
「主、俺は、」
「へしきり、これあげる。さきにたべてて」



自分が持っていた皿を長谷部に持たせると、再びぱたぱたと走っていく。何も言えずその背中を見ていたが、随分小さい背中だと思った。
少しして戻って来た主人の手には、長谷部が先程受け取ったのと同じものがある。



「へしきり、どらやききらいだった?」
「え…?あ、いえ」



先に食べていいと言われてはいたが、長谷部はそれをしていなかった。手の付けられていない菓子を見て首をかしげる主人に、長谷部は曖昧に返答する。
長谷部の隣に座り直した主人は、膝に皿を乗せて手を合わせる。



「いただきます。へしきりもちゃんといただきますして」
「は、主命とあらば」



指示を受けとっさに口をついて出てきた言葉は、やはり主人には通じていないようだった。少しだけ首をひねったが、同様に手を合わせた長谷部に頷く。

ぱくりとどら焼きを口に運ぶ主人に続き、長谷部も躊躇いつつ手に取った。



「あ、きょうはこしあんだ。…へしきり、たべないの?」
「いえ、いただきます」
「うん、どうぞ」



口に運ぶと、こしあんの滑らかさが舌を刺激した。これがあんこというものか。甘い。



「おいしい?」
「はい、おいしいです」
「よかった!」



実際においしいが、仮にまずかったとしても主人からの問いかけに否定はしない。同意しただけなのに、どうしてそんなにも嬉しそうにするのだろうか。
ぐるぐると、歌仙の言葉が回る。それまでの主人とは違う。違い過ぎる。長谷部の思っていた「主人」という枠とはかけ離れている。それはわかった。主人に誠心誠意仕えること。それが長谷部の信条だ。

…ならば、主人に合わせて少しだけ己を変えることもまた必要なこと、か。
なんでも叶えてやることが主のためにならないというのであれば、主にとってためになることだけを俺はすればいい。
俺の言葉が難しいというのなら、わかるような言葉に直して話せばいい。
好きではない名で呼ばれるのなら、俺が呼ばれたい名を覚えてもらえばいい。

気づかれないように息を吐く。ふっ、と肩が軽くなったような気がした。



「へしきりは、どらやきたべたのはじめて?」
「そうですね。長谷部は今日初めて食べました」
「あんこ、おいしいでしょ?」
「はい、とてもおいしいですよ。長谷部の好きな味です」
「ほんと?きょうはこしあんだけど、つぶあんのもおいしいんだよ」
「そうですか。今度は粒あんも食べてみたいですね」
「じゃあみつただにおねがいしておくね!」



へし切ではなく長谷部と呼んでもらうために、覚えてもらうために、あえて自分のことを長谷部と呼んでみた。慣れないことに、自分は何をしているのかと少々自己嫌悪。

単純な子供の会話に、こちらも単純に言葉を返す。そうすると、またぽんぽんと答えや質問が飛んでくる。この弾む声から手打ちしろだの焼き討ちしろだのを指示されるのは、たしかにあまり聞きたくないと思えた。

歌仙は、主人を無理して好きにはなれとは言わなかった。
この場合の好きとは敬うこと。無理に敬わなくても、出陣やらで支障が出なければそれでもいいということだ。主人のことを嫌ってはいなかったが、かといって心から忠義を尽くそうと思えるほど好きなわけでもなかった。主人の役に立ちたいという気持ちはあれど、それは得てして自分の欲求だけで。

無理して敬わなくてもいいだと? …馬鹿なことを言うな。



「主はあんこがお好きですか?」
「うん、すき。へしきりは?」
「長谷部も今日からあんこが好きになりました。主のおかげです」
「そうなの?よかった」



どら焼きを食べ終えた主人は、また嬉しそうに笑う。つい、それにつられた。
そうして笑ってもらえるほうが好ましい。そのためなら少し自分を変えることなど安いものだ。

無理などしないさ。無理をせずに、この方を好きになればいいだけの話だ。
そもそもこの方を敬うのに、きっと無理なんてものは必要ない。



へしきりー

はい主、長谷部はここですよ



(長谷部が少し変わった日)

実のところ、最初はあなたが苦手でした。





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