(幼女と三日月) 「主よ、お前は皆から名前は呼ばれないのか?」 のんびり絵本を開く主人を膝に乗せ、ふと三日月は問いかけた。 主人の名は本丸の刀剣たちは知っている。 演練などにおいては○○本丸の部隊、といったようにその本丸の審神者の名で示される。そのため審神者同士はもちろん、刀剣たちも名前を聞くことは多い。 ただしその場合は姓、もしくは名のみであり、両方を含めた完全な名前は知らないが。 「うーん、そういえばみんなよばないね」 当然この本丸の主人である幼子にも名はある。刀剣たちはそれを知っている。しかしながら、ずっと「主」という肩書きで呼ばれていた。そう呼んでいるのは、問いかけた三日月も例外ではない。 主、主君、大将、主様、主殿…、一つに統一されぬ呼び方には、刀剣それぞれの個性が出ていた。中にはあんたやお前といった呼び方をする者もいるが、主人は別に気に留めていないようだった。 「わたしのなまえ、へんなのかな?よびづらい?」 「そんなことはない。よい名だと思うぞ」 本来、神格は自分たち刀剣男士のほうが上だ。だがそれよりも先にくるのが、自分たちは刀であり人に所有されて初めて意味を成すということ。だから持ち主である主人のことは、個人差はあれど皆敬意を持っている。 主人の言葉に否定はしたが、呼びづらくはないというのはあくまでも名前の音や響きの話。刀剣たちが主人の名を呼ばないのは、この娘が自分の持ち主であるという理解と敬意が根底にあるからだ。 三日月としても、幼子とはいえやはり軽率に名を呼ぼうとは思えなかった。 「主は、俺たちから名を呼んで欲しいか?」 「うーん…」 三日月が問いかけたせいか、先ほどから絵本は先へ進まない。一人の少年が、犬と猿と雉と共に道を歩いている絵のままだ。 少し考えている様子の主人は首をひねる。それまで背を向けていた主人が、不意に三日月の膝の上で体を横向きに変える。 「どっちでもいいかなぁ。でもよばれたらうれしい」 「どちらでもよいか、主は心が広いな」 こちらを見上げて答えた主人をゆるゆると撫でてやると、顔をほころばせた。心が広いという言葉の意味がわかっていない可能性もあるが、単純に褒められている事実が嬉しいのだろう。 そうか、主は名を呼ばれたほうが嬉しいのか。 とはいえ主人の名を呼ぶというのはなかなか憚られる。一人の幼子に対して仮にも付喪神が何を躊躇っているのだとも思うが、この幼子には不思議と敬う気持ちが湧く。 「主、ひとつ思いついたのだが聞いてくれるか?」 「うん?」 「俺は主を渾名で呼ぼう」 「あだな?」 主は名を呼ばれたら嬉しいらしい。 名を直接呼ぶのは憚られるが、渾名であればそれも軽減する。 「ああ。主のもう一つ、特別な呼ばれ方だ。どうだろう?」 「とくべつ…なんだか、すてきだね」 「うむ、ではそうするか」 特別という響きに惹かれたのか、主人は興味津々にこちらを見てくる。 渾名で呼ぶことは決まった。さて、なんという渾名をつけようか。 開きっぱなしの絵本に三日月は目を落とす。 「この男児は桃太郎というのだったか?」 「そうだよ、ももからうまれたの」 「不思議な話だな」 「たけからうまれたかぐやひめっていうのもあるよ」 「ほう、それは聞いたことがある話だ」 自分が打たれた時代にあった竹取物語とかいうやつが、たしかそんな話ではなかっただろうか。 人の体を得てからは、本丸に置かれている書物でそういった知識もより増えた。 ああ、そうだ。いい名を思いついた。 自分も呼びやすい、且つちゃんと意味のある名を。 「主、慣れるまで少しかかるだろうが、俺が呼んだら返事をしてくれるか」 「うん、する!」 「そうかそうか。やぁ嬉しいな」 どれ、ひとつ、この子を名付けるとするか―――。 ***** 長谷部が廊下を歩いていると、部屋のひとつから主人が飛び出してきた。片手に持っている絵本は、今まで読んでいたのだろうか。 こちらに気付いた主人はぱっと顔を明るくする。 「あ、はせべ、おやつできたって!」 「そうですか。今日はなんでしょうね、楽しみです」 「ん、長谷部か。今日はほっとけーきとかいうものらしいぞ」 主人に続いて三日月が部屋から出てきた。ゆったりとした口調と雰囲気には毒気を抜かれるものがある。 特別仲が良いわけではないが、別に不仲なわけでもない。今日のおやつがホットケーキだと教えてくれたことに対しては、そうか、と短く返しておく。 今日の主の遊び相手は三日月だったか。 「はせべもみかづきも、はやく!」 「若紫、走らずとも甘味は逃げないぞ」 「かんみ?」 「お菓子のことだ」 遊び相手をしていたというなら別に何も思うところはない。だが、今の会話に長谷部は眉をひそめた。 「…三日月、今の、若紫とは主のことか?」 「ああ、そうだが」 「勝手に主にそのような名を…」 「あの子も了承している名だ。…、若紫よ」 「なぁにー?」 主人に聞こえぬよう小さな声での会話。何を勝手なことをと思ったが、再び三日月が呼んでみれば当然のように主人は返事をした。 どうだ?と言わんばかりに三日月は長谷部に笑いかけた。 「主、主と肩書きで呼ぶのは味気ないだろう。俺たちですら個別に名があるのにだ」 反論が浮かばなかった。言われてみればその通りだと思ったからだ。 三日月宗近、へし切長谷部…それ以外にも、ここにいる刀剣たちには皆個別の名称があってそれで呼ばれている。 主人の幼子を主と呼ぶのは、言ってみれば自分たち刀剣男士を「刀」と呼ぶのと同じだ。 「心配するな、あくまで渾名だ。あの子が嫌がれば大人しくやめよう」 「…主が嫌がっている様子はない。了承してくださっているなら、俺には何かを言う余地はない」 「お前も呼んでみたらどうだ?」 「馬鹿な…、できるわけないだろう」 渾名であっても主を軽々しく名で呼ぶなど、長谷部にはできないことだった。 「…しかし、なぜ若紫なんだ?」 「源氏の物語からとった」 「それはわかるが」 人の体を得た今、長谷部も知識としてその話は知っている。多くの巻に分かれている長い話だ。そのうちの一つの巻にそれがあり、物語中の登場人物の名前でもある。 その登場人物から名をとるというのも、三日月の生まれを考えると納得がいった。 「あの子とはこの先長い付き合いになりそうだ。幼子の娘を男が育てる…ぴったりだと思ってな」 思わず返事を忘れた。そういう意味合いか。 物語中の若紫もそういう話だった。一人の少女を源氏が引き取り育ててゆく。経緯は違えど、状況は主人と重なっている。 「あの子の最初の刀は歌仙だったか。あの男も、若紫がよい娘になることを願っているようだからな。どうせなら、時の政府の者へ自慢できるような主人にしてやろうとは思わないか、長谷部」 「…ああ、否定はしない」 一応、それなりに意味のある名付け方だったことには素直に感心した。 「葵という名でもよいと思ったんだがな」 「あおい…また源氏物語からか」 「それもある。加えて、」 三日月がこれまたゆるりと笑う。それは少し、深い意味を持っているようにも見えた。 「青…、俺の色だ。なかなかいいだろう?」 「な…!」 「あっはっは、冗談だ」 一瞬理解が遅れた。たしかに三日月は青い狩衣をまとっている。それ故、大半の者が彼に対して青というイメージを持っている。だが、 …三日月の色だから、葵だと? なぜだか長谷部はひどくそれが気に入らなかった。冗談とは言ったが、一体どこまでか。こういう時の彼は少々食えない。年の功というやつか。 「はせべ、みかづきー、はやくいかないとおやつさめちゃうよ」 「そうだな。歩くのが遅くてすまんな、若紫」 「さっきからはせべたちはなにおはなししてるの?」 「それは…」 なんと言えばいいのだろうかと長谷部が言葉に詰まった矢先、三日月が口を開く。 「若紫と呼ばれていることを、お前にぴったりだと長谷部が褒めていたんだ。よかったな」 「ほんと?うれしい!ありがとうはせべ」 「あ…、いえ、喜んでいただけたのであれば」 とても嬉しそうに笑う主人を前に、三日月が勝手に言っただけですなどとは言えず、曖昧な笑みを返すことになった。主人が喜んでくれるならよかったと思うのは事実だが。 「長谷部よ、一つ訊きたい」 「なんだ」 「お前は、若紫の忠臣か?」 急に何を言い出すのだろうと思った。だが、先ほどとは違って三日月は至って真面目に訊いてきているらしい。何と答えるかなど、誰に訊かれようとも決まっている。 「当然だ」 訊かれるまでもない。 主が、自分たち刀剣男士をどういう関係と思っているかはわからない。まだそういったことを考えられる年齢ではない。しかし、長谷部としては主人に誠意をもって忠実に仕えているつもりだ。 訊いた三日月は納得したように頷いた。 「そうか。それならばいい」 「お前は違うのか、三日月」 「俺もそのつもりだ。…さて、急ぐか。若紫に置いて行かれては寂しいからな」 「…ああ、そうだな」 三日月が何を言いたかったのかはわからなかった。 少し先で早く早くと言いながらも自分たちを待っている主人を見て、それもどうでもよくなる。 渾名。それがどこか特別なものだというのは、長谷部も身をもって知っていた。 ―――へしきり。 少し前まで呼ばれていたあれは、思えば渾名に近いものだった。 長谷部がそう呼ばれていたことを知っている三日月が小さく笑ったのが、どうにも気になっていた。 (青と渾名と紫と) 長谷部よ、お前がこの子の腹心なら、俺が「紫」と名付けた甲斐もあるな。 |